第648話

 全員が咄嗟にその表情を窺うべく覗き込んだけれど、アキラの目の焦点は、何処にも合っていなかった。

「……こ、さ」

 掠れた声で、アキラが何かを呟く。だが誰にも聞き取れない。ナディアの耳でも分からなかったのであれば、小さいせいではない。声になっていなかったからだろう。

 再びカンナが「アキラ様」と彼女を呼んだ。また、応じるようにアキラが唇を震わせる。

「久美、子さん、……母さん達、には、言わないで……」

 起きていない。アキラは夢の中に居た。

 久美子というのは、元の世界の、アキラの実家で長く働いているらしい家政婦の名だ。アキラの母よりも年上の女性で、おそらく幼少と呼べる頃からアキラは面倒を見てもらっていた相手。

 もしかしたらカンナの使った『アキラ様』という呼び名が、その女性と此処にいる者の気配を混同させたのだろうか。

 ただ、その家政婦の名を知っているのは、こちらの世界ではナディアとリコットだけだった。

 名前まで共有すべきとは思っていなかった為に、他の者には告げていないのだ。だから当然カンナも、呟かれた『クミコ』という名が何なのかを知るはずがない。

 何も知らないのに。カンナは迷わずアキラの手を両手で包み込み、「はい」と応えた。

「仰る通りに。何も心配はございません、今はお休み下さい」

 カンナは耳元で、教え込むようにゆっくりと囁く。するとアキラは本当にその言葉に安堵した様子で、強張っていた身体の力を抜いて、再び眠りに就いた。

 その眠りが深まることを静かに待った後で、呆然と立ち尽くしていたナディア達をカンナが振り返る。

「貴族に例えて考えれば、よくあることなのでございます。『両親』は執務などで忙しいものですし、体調管理を怠ったことを酷く叱る教育も、珍しいものではありません」

「そう……」

 静かに語られる貴族社会での家族関係。ナディア達にはどうしても、それは悲しいものに思えてならない。

 アキラの家がどうであったのかは推し量れるものではないが、此方の世界の貴族に近いものであることは間違いない。少なくともアキラはこうして熱に浮かされて眠る日に、母達に知られたくないと願うことがあったのだ。

 けれど今、それを推察して、何が出来るわけでもないと分かっていた。ナディア達はカンナにアキラを任せ、眠るアキラを起こさぬようにそのまま静かにテントを出る。

「お兄さんにも、ご両親にも、アキラちゃんは大事にされてたよね?」

「……話を聞く限り、そう感じていたけれど」

 不安そうに疑問を口にしたラターシャに、ナディアも眉を寄せつつ返す。

 アキラから聞く話でしか、アキラの家族については何も分からない。それでも、ほんの少し語られるエピソードの一つ一つから、アキラは『大切にされたご令嬢』であることが感じられた。だが、実情はどうなのだろうか。

 貴族は、家族に甘えられない、弱みを見せられないようなことをカンナが言っていた。『大切にされている』が、貴族の場合、実際どのような感情でもってその行動になっているのかが、よく分からなくなっていく。

「まー、アキラちゃんだしなぁ。あの鈍感さは育ちじゃなくって、生来のものじゃない?」

「……それも、そうね」

 二人から話を聞いた後、リコットがぽつりとそう言った。

 アキラは常日頃から、周りの心配をあまり理解していない。愛情を向けられても頓珍漢とんちんかんに受け止める。もし家族が心からアキラを愛し、心配をしていても。それをアキラが素直に受け止めたかどうか。今現在、女の子達がしている苦労を思えばリコットの指摘がとても的確であるように思えた。

 昨夜もまたリコットが丁寧に伝えたけれど。昨日の今日でアキラには何処まで伝わっているのか。今回は本人が自覚した無茶じゃないだけに、リコットも文句の言いようが無い。余計なことを言ってしまわぬように、むしろ、あまり口を開かぬようにしているところだった。

「それにその台詞、クミコさんを『カンナ』に、母さん達を『ナディ達』とかに置き換えても、言いそうだよね」

 ルーイの言葉に全員が一斉に項垂れる。怪我または体調不良を起こした時に、『カンナ、ナディ達には言わないで』だ。あまりにもアキラらしい言葉だと思えた。

「これで分かった。アキラちゃんに問題がある」

「そ、そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないし……」

 リコットが断言してしまったのを、ラターシャが慌てて止めに入る。アキラにも色々事情はあるだろうから、勝手な結論を出してやるのは可哀相だ。みんなで苦笑して、この話を切り上げた。


* * *


 目が覚めて最初に思ったのは、喉が渇いた、だった。

 ぐっすり眠った。熱があったせいだろうか、随分と汗もかいたらしい。ただ、楽しくスポーツをして汗をかいた気持ち良さに似ていた。少々、疲労感もあるけれど。

 傍に付いているカンナは既に私の目覚めには気付いているようだ。しかし微睡む私を邪魔せぬよう、声を掛けることなく待ってくれている。健気だね。

「うーん……」

 唸っても、ぴくりと反応しただけ。忍耐強い。

 私は別にそんな侍女さんの従順さを楽しんで虐めているわけではなくて、まだちょっと眠気が残っていて本当に起きられなかったのだ。

「ぬるい……みず……」

「すぐにお持ち致します」

 五分ほどしてからようやく、そんな言葉を掠れ声で伝える。待ち切れぬ様子で素早く動いたカンナは、私が重い目蓋を擦って目を開く頃にはもうテントを出ていた。

 うーん。また小さく唸りながら身体を起こす。ふむ。身体を起こしてみるとやっぱりしんどいって言うよりは、いい汗をかいたぜって感じかな。

 その後カンナがマグカップを持って戻ってきたら、ナディアも一緒に入ってきた。小さい桶とタオルを持っている。

「顔や身体を拭くと言い出すかと思ったから。此処に置くわね」

「あー、ありがとう、たすかる」

 そうだね、汗をかいたから、少なくとも着替えは必要だ。温めの白湯を飲み干したら、身体を拭いて着替えることにした。新しい寝間着はすぐにカンナが出してくれた。何から何まで助かります、ありがとうね。

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