第647話_熱の理由

 ふう、と一つ息を吐き出すと、身体が重たくなった気がする。今更、熱の影響が身体に出てきているのかな。それとも気が緩んで、不調を感じやすくなったのかな。

「疲れてなんかなかったのになぁ。風邪だってほとんど引かないし、元の世界でも、二十歳の時に体調を崩したのが最後でさ」

 魔法の反動での不調はとりあえず置いておいて。私は丈夫な方だと思うんですよ。それに今回は何の無茶もしていない。魔法はそんなに使ってないし、疲れていたわけでもないし、気持ちも元気だったのに。青天の霹靂へきれきだと思っているのは私の方だ。

「……此処は、アキラ様が長く過ごしていらしたのとは違う世界です」

 寝かし付けようとしているみたいな、柔らかい声だった。いつもよりちょっと感情を表情にも出しているように見えたけど、逆光になっていてよく分からない。分からないから、そんな風に勝手な想像するのだろうか。

「魔力がお身体に馴染んでいないのと同じく、この世界自体に、まだ馴染み切っていないのかもしれません。アキラ様がお気付きになれないような『小さな』違和感一つ一つが、蓄積されていたのではないでしょうか」

 声が心地良くて、内容はちょっと遅れて入ってくる。カンナはそんな状態もよく理解しているらしく、普段よりもずっとゆっくりと話してくれていた。

「またこの村には、アキラ様のことを慕う者しかおりません。アキラ様にとって他のどの街よりも、安心できる場所ではありませんか?」

 私の隠れ家。みんなが私を知っていて、私は何も警戒しなくて良くて。だから、気を抜ける場所。

「きっと、この安心できる場所で今休むべきだと、お身体が訴えているのです。……どうか今は何も憂えることなく、お休み下さい。お傍におります」

 カンナの言葉はすとんと胸の奥に落ちて、納得できて、私は弱々しく「うん」と答えた。目を閉じたら身体が気怠さを増して、眠気がどっと湧いてくる。

「申し訳ございません、アキラ様。私が……」

 眠りに落ちる寸前、カンナが何かを言った。けれど私の意識は浮上することなくそのまま眠ってしまった。いつもそうだ。すぐに寝付いてしまうから、誰かの声を聞き落とす。本当は、ちゃんと最後まで聞いていたいのにな。


* * *


「……カンナ」

 アキラが寝入ってからは物音一つしていなかったテントの中に、静かなナディアの声が入り込む。呼ばれたカンナは音を立てぬよう、入り口を振り返った。

「次、あなたの番。お風呂に入っていらっしゃい。その間は看ているから」

「はい」

 あれからカンナは一度も、ベッドの傍を離れていなかった。何かすることがあるでもなく、眠る主人の為に明かりも灯していない薄暗闇の中で。ただずっと、アキラを見つめていた。

 しかし入浴や食事、睡眠などの一切を止めてしまうのは現実的ではない。応じてカンナはそっと立ち上がり、外に出ようとした時。

「あなたのせいではないわ」

 擦れ違いざまにナディアがそう囁く。カンナは目を瞬くも、先程アキラの傍で呟いた独り言が、ナディアの耳には聞こえていたのだとすぐに察した。

「いいえ」

 否定を口にすれば、その口調は図らずも僅かに強くなった。ばつが悪くなり、カンナは少し俯く。

「少しの間、宜しくお願い致します」

 早口でそう告げて、木風呂の方へと足早に向かって行った。その様子を見守り、ナディアは溜息を一つ。

「全く……面倒なひとしか居ないわね」

「ナディ姉も割と代表」

 聞いていたらしいリコットに即座にそう言われ、ナディアは口を噤んだ。

 先程、カンナは『私がもっと早くに』と呟いた。発熱も喉の腫れも、ずっと傍に付いていたのだから、もっと早くに気付けたのではないかと悔やんでいたのだ。

 カンナはアキラの体温を常に見ているわけではなく、様子がおかしいと思った時に限り、確認していた。しかし今日のアキラは朝から妙に機嫌が良くて活動的で、表面的にはとても元気な様子だった。違和感が全く無く、それが表れたのは本当に、ラターシャが「疲れてる?」と問い掛けた瞬間。その一秒前まではいつものアキラでしかなかったのだ。

 ケイトラントも門番をしながらずっとアキラの様子は目に入っていたからこそ、驚きは、女の子達とあまり変わらなかった。今日はトイレの入れ替えもあってほとんど全員の村人と接している為、村全体が驚くだろうと思われる。

 ナディアはベッド脇、カンナが座っていた椅子に腰掛けてアキラの様子を窺う。普通の人族であれば目が慣れるまで薄暗闇の中で表情を見ることは難しいだろうが、猫系獣人のナディアは夜目が利くので容易いことだ。アキラは静かに眠っていて、おかしな点は無かった。やや安堵したように、また一つ静かに息を吐き出す。

 それからは数分毎に、他の子らも様子を見にやって来た。最初はリコットが来て、次にルーイが来て、最後にラターシャが来た。結局みんなこの問題児のことが心配だ。いつもそうだ。本人はやけに、心配されることに対して鈍感だけど。

 なおカンナが見ている時に行き来が無かったことには多少の含みがある。今は、傍に付いているのがナディアなら、そして短い時間と分かっている状態では『何も無い』だろうという安心感によるものだ。

 入浴を済ませたカンナが戻ったのは、ナディアとラターシャが二人で傍に付いていた時だった。

「戻りました。ありがとうございます」

「いいえ」

 ほんの小さな、囁くほどのやり取りだったけれど。アキラが身じろいだ。近くで人の動く気配を察知してしまったのかもしれない。それ以上を刺激せぬように三人はぴたりと静止し、息を潜める。アキラはまた少し身を捩り、表情を歪めた。苦しむように呼吸を震わせて、ぎゅっと強くシーツを握る。

「アキラ様」

 素早くカンナが彼女の傍へと移動し、シーツを握って震えている手に優しく触れた。「何処か痛みますか」と、意識があるのかも分からないアキラに問い掛ける。

 二つ、荒い息を吐き出したアキラは何度か目蓋を震わせ、そして、ゆっくりと目を開けた。

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