第619話

 とりあえず、スラン村に行くのは明日の朝食後ということにした。それまでに移動に向けて準備をしなくっちゃね。

「じゃあ、私はちょっと買い出しに出掛けてくるよ。みんなはお家に居ていいよ」

 今のジオレンで外に行くのは怖いだろうからね。そう思ったが、カンナは当然のように付いてくると言った。そうだね。君は侍女様だし、戦っても勝てる力があるからね。

「んー、私も行くよ」

「リコット」

 立ち上がりながらのんびりとリコットが言うと、対照的にナディアは急いた様子で彼女を呼んだ。

「私が行くから、あなたは」

「大丈夫だよ、アキラちゃんとカンナが一緒なんだから。ナディ姉は、二人の傍に居てよ」

 リコットの言葉にナディアは『二人』と示されたルーイとラターシャを見た。この子らの傍に付いていることと、今、怖いかもしれない外へ、リコットの代わりに赴くこと。どちらが自分の役目であるべきかを迷ったようだった。

「ナディ」

 いつだって一生懸命に妹を守ろうとしている優しい長女の名を、出来うる限り優しく呼ぶ。此方を振り向くナディアの目が何処か縋るように見えたのは、そうだったらいいと私が思うからだろうか。

「リコが怖がるようだったら、すぐに帰ってくるよ」

 ナディアは視線を落とし、少し考え込んで沈黙した。そして数秒後に顔を上げた彼女は私ではなくリコットを見つめて「無理はしないでね」と声を掛ける。ついさっきまで可愛い顔を見せてくれていたのに。悲しい。勝手にしょんぼりしていたら、私の方を見て――カンナの方だったかもしれないが、「気を付けて」と言ってくれた。羨ましかったので、これは私にも言ってくれたことにしよう。何にせよいつでも優しいお姉ちゃんだよね。本当に。

「それで、どうかしたの? リコ」

 外に出て、少しアパートから離れたところで、隣を歩くリコットに尋ねる。『自分が行く』と言い出したのは子供達の傍にナディアを置いておきたいという理由だけじゃない気がしたから。「何でもない」って返事でも構わないと思っての質問だった。だけどリコットは苦笑して、少し首を傾ける。

「さっきちょっと。なんか。嫌だった」

「うん?」

 そのままリコットは俯いてしまった。今の表情がよく分からない。私の手をリコットがぎゅっと強く握った。

「私、ナディ姉より前に出られなかった」

 つまり今言った『さっき』は、あの男達に絡まれていた時のことか。

「怖くて、動かなきゃと思うのに、上手くいかなくて、でもナディ姉は」

 話すことに集中しているリコットは周りを全く見ずに俯いている。これは私の手を握るだけで危険なんか無いって信頼してくれているのだろう。擦れ違う人達に当たらないようにと安全を確保しつつ、リコットの言葉も聞き落とさぬように集中した。

「ナディ姉は、どうしてあんなに迷わずに、前に出られるの……」

 ふむ。今回の騒動、私は一部始終を見ていない。軽くカンナを振り返る。カンナは求められたことを正確に理解した様子で、一つ頷いた。

「私が見ました時には、ナディアが一番前、すぐ傍にリコットが並び、ラターシャとルーイを背後に隠す形でした。そして男がリコットへと手を伸ばした為、ナディアは間に入る形で動きました。収納空間を使ったようでしたので、例の杖を取り出そうとしていたのかもしれません」

「なるほど」

 短い説明だったが侍女様が優秀なので状況を把握。一番前にナディアが出たのは彼女の意志だろうし、リコットも状況を見て子供二人を自分より下げていたんだろう。そこで無理に前へと出たところでナディアから強めに制止されるだけだ。男が手を伸ばしてくる『前』の配置としてはそのようにしかならない。

 その上で、男が手を伸ばした瞬間、ナディアが迷わずリコットを庇ったこと。リコット自身が咄嗟に動けなかったことを、リコットは辛く感じているんだな。

 何だか少し根深い話にも聞こえたので、もしかしたら組織に居た頃にも、似たことがあったのだろうか。

「私だって一生懸命やってるのに。でも、ナディ姉の方が『必死』だってどういうこと? 何が違うの?」

 急に違う話になった――いや根本は同じなんだろう。これは魔法の『伸び』のことかな。

 素質があるはずのリコットがナディアに抜かれている。ナディアが誰より「必死だから」と私が言った。この子を傷付けるつもりじゃなかったんだけど、これは私の言い方が悪かった。

「リコット」

 丁寧に、俯いたままの子の名前を呼んだ。私の手を握る彼女の力が少し緩む。

「ナディアは格好いいね。いつも君達を想っていて、咄嗟の時にも前に出られる。……だけど今日みたいに『身を挺して』庇うナディアを見て、君は嬉しかった?」

「嬉しくないよ! だって一歩間違えたらナディ姉が」

「そう。それが違うんだよ」

 途中で遮ってしまったのに、リコットはそれを不快そうにすることなく口を噤み、私の瞳をじっと見つめてくる。

「君はナディアにならなくていい」

 私が勝手にこんなことを断言してしまうのは、良くないことなのかもしれない。だけど私は心からそう思うし、リコットには、そういう考えを知った上で悩んでほしいと思った。

「……きっとナディは『命に替えても』君達を守りたい。だから怪我なんて『取るに足らない』ってレベルで気にしていない」

 躊躇わずに前に出られるのは、自分が傷付くことに対する恐怖心のだ。

「リコ」

 考え込むみたいに彷徨さまよう彼女の視線を、柔らかな声で再び呼び戻す。私を見つめる目は、段々と弱くなっていく。

「君の中にある『怖い』って気持ちは、大事なものだよ。出来ることなら、失くしてほしくないな」

 ナディアのそれは、何処かで薄れてしまっている。それは父親から彼女が幼少期に受けていた理不尽な仕打ちのせいなのだろう。そうしなければ生きて行くのが難しくて彼女はそうなってしまったんだろうから、ナディアのその性質を責めることは難しい。

 だけど、そうではない子に、そうなってほしいとはとてもじゃないが思えない。

「ナディには、君が、教えてあげなきゃいけないと思うよ」

 ちょっと干渉し過ぎだろうか。だけど私はナディアのことも心配だし、やっぱりナディアの方にも何かしら働きかけが必要だと思った。そうじゃなきゃリコットの本当の不安はこの先も拭えないと思うから。

「今日、リコが一番怖いと思った瞬間は?」

「……ナディ姉が」

 そう声を震わせた後、リコットは言葉を飲み込んで、私の腕にぎゅっと顔を押し付ける。同時に小さく「うん」と言ったように聞こえた。

「変なこと言って、ごめん」

「ううん。偶にはそうして頼ってほしいよ」

 みんなはしっかりしていて、悲しいことや辛いことも自分で解決してしまうし、なんなら私じゃなくて女の子達の間で解決しちゃうし。お母さんは寂しいよ。そう零してみたら、リコットが「アキラちゃんがお母さんだって認識は無かったなぁ」って笑った。

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