第611話

 長女の目が届かないから――という理由でリコットを構っていたアキラだが、目が届かなくとも耳は届く。特に、静かであることの多い本屋内での会話など十中八九、ナディアには聞き取ることが出来ていた。

 だが、わざわざ移動して邪魔をしに行くほどのちょっかいを掛けていないのも分かっていたし、リコットならば本人のさじ加減で上手くあしらうのだろう。小さく溜息を零すだけで、彼女は文句を飲み込んだ。

 その後、それぞれ本屋での買い物を済ませた頃に集合して、子供達が行きたいというカフェに向かった。味はそこそこだったが――とは言え、アキラのせいでやや舌の肥えてしまった感覚によるものかもしれないが、外装や内装がお洒落で愛らしく、眺めているだけでも時間が過ぎてしまいそうになる店だった。みんなで口々に感想を言い合い、あちらこちらに視線を向けて少し長い休憩時間を過ごした。

「私はこの後アパートに戻ろうかな。みんなはどうする?」

 アキラの言葉に、女の子達はそれぞれ軽く顔を見合わせる。カンナは当然、侍女として共に戻るだろう。

「……私も、戻ろうかしら」

「あー待って、ナディ姉、ちょっと付き合ってほしい店があるんだけど――あ。私、アキラちゃんの見張りがあるんだった……」

 結果的に全員で来ただけであり、今日の見張りは自分がやるとリコットは言っていた。その手前、アキラの傍を離れるのは気掛かりらしい。リコットがきゅっと表情を顰める。

「それなら、この後は私がアキラちゃん見てるよ」

「私もー」

 しかし即座にラターシャがそう言って、ルーイも明るく続いた。二人は先程の本屋で何か気になる本を買ったらしく、早く読みたいから元々部屋に戻るつもりだったそうだ。それならばと、ナディアもリコットの付き添いに承諾した。

 ちなみにナディアが部屋に戻ると言ったのは戻りたい理由があったわけではなく、自分の居ない間にまたアキラがリコットにちょっかいを掛けるのではないかと心配したせいだった。そのリコットが自分と共に離れるなら、心配する必要は全く無い。

 アパート近くで別れる予定で、一先ず全員で同じ方面へ向かって大通りを歩く。

 通りはいつもより少し人が多く、賑わっているように感じられた。気候が良いせいで、同じ理由で外に出てきた者が多いのかもしれない。しかし普段より少し街全体がそわそわしているような空気があり、ナディアは無意識に聴覚を尖らせていた。その時。

「――あれ? アキラ?」

 声は、大きなものではなかった。けれどナディアの耳は過敏になっていたこともあり、正確にその音を聞き取った。雑踏の中、その声は再び、目当ての人を呼んだ。

「アキラ!」

 駆け寄ってくる足音。アキラが声に応じて振り返る。ナディアの目にはまだ、その姿が人混みで見えない。しかし匂いには確かに覚えがあった。反射的に尻尾が膨れ上がり、それを見止めたリコットが彼女を窺う。

「……ナディ姉?」

 心配そうに静かに問い掛けてくる声も過敏な猫耳には間違いなく届いていたけれど、この時は応じられなかった。

「ダリア! え、どうして此処に?」

 アキラは彼女に応じながらも軽くナディア達を振り返り、少し待っているようにと手振りをした。女の子達は突然のことに戸惑いつつも、歩く人々の邪魔にならぬようにと道の端に移動する。アキラも同じく、ダリアと呼ばれた女性と共に移動していた。

「こっちの台詞! アキラも、ジオレンに来てたんだね」

「うん、ワインが美味しいって聞いたからさ」

 穏やかな会話に警戒すべき点は何も無い。アキラの夜遊びの相手であることは女の子達なら誰にでも察せられたし、それだけならば気にすべきことなど何も無かった。しかし、ナディアが異様にぴりぴりと緊張感を纏っていた。女の子らもそれを察し、彼女を心配そうに窺う。

「南なら魔物が少なくて安全だって噂を聞いて、同業者達と一緒に移動してきたんだ。こういう機会でも無いと、簡単に街は移動できないから」

「あー、なるほど、確かに」

 一個人が町と町を移動しようとしても、馬車を借りるのも馭者を雇うのも高額だし、魔物の危険がある為に護衛も必要で、とにかくお金が掛かる。その為、ダリアは同業者らとお金を出し合って折半することでその費用を賄ったということのようだ。

 また、南部の魔物が減っている件は段々と噂として広がっているらしい。ジオレンは南側にある集落の中でレッドオラムから最も近い大きな街だ。前回の騒動の影響もあって、このようにジオレンなどに移動する動きは、今後増えるのかもしれない。

 二人の会話に聞き耳を立てていた女の子達がぼんやりとそんなことを考えていると。

「あっ」

 ダリアの声。直後、アキラの脇からひょいと顔を覗かせた彼女が、はっきりとナディアを視認した。

「この子がアキラの猫ちゃん? わーお、超美人!」

 無言でナディアは眉を顰め、ダリアを見つめ返す。睨んだと言っても過言ではないが、ダリアは動じるどころか笑みを深めてしまった。ナディアが不愉快そうにするほどに彼女にとっては楽しいことなのだろう。

「顔を見たのは初めてだねぇ。匂いは――」

「ダリア」

 しかし、悪乗りをしていたダリアを、酷く冷たいアキラの声が遮った。

「マナー違反でしょ? それ以上は許さないよ」

 アキラの口元はいつものように緩く弧を描いていた。声も、穏やかなものだった。しかし目が冷たく、彼女の放つ威圧感はまるで穏やかではない。感覚鋭い獣人族にとっては耐え難いほどの圧迫感。自らに向けられていないナディアですら恐ろしくて咄嗟に身を固めた。直接それを向けられたダリアは、まるで刃の切っ先から怯えて逃げるように、素早く一歩後退する。彼女の耳は恐怖に垂れ下がり、尻尾が足に巻き付いて震えていた。

「ご、ごめん、調子に乗った。もう二度としない」

「そう? なら良かった」

 短くそう言って話を切ったアキラは、すぐに威圧を解いた。

「折角また会えたんだから、この街でもダリアと一緒に遊べたら嬉しいな」

「も、勿論! 私もまだ知らない人ばっかりだから嬉しいよ」

 その後、アキラが優しい声で会話を続けたからか、ダリアから怯えた様子は次第に無くなり、結局、彼女らは今夜、共に飲む約束をしたようだった。

「行こうか。ごめんねナディ、嫌な思いをさせた」

「いえ……もういいわ」

 自らに掛けられた気遣いの声はいつも以上に優しい色をしていたのに。一度浴びた威圧感を思い出し、ナディアは小さく身体を震わせる。隣を歩くリコットは、心配そうにナディアの背を撫でていた。

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