第603話_ワイングラス
「ちなみにリコはね、酔うといっぱいお喋りするようになってねぇ、ナディはのんびりさんになる。お返事があるまでちょっと待つんだよ」
「自分が酔わないからって……」
調子に乗って勝手にバラしたら、長女様に睨まれました。でも私もちゃんと酔ってるって言ったのに。様子自体が変わらないので、楽しくはないかもしれないけど。
「ラタとルーイは、また大きくなったら分かるかなぁ。でも二人って結構、飲みそうなんだよな」
「え、そうかな……」
二人は目を合わせて首を傾けているが、姉二人はやや残念そうに頷いている。うん、ちょっとね、子供達の酒豪になる未来はまだあんまり想像したくないよね。でも、強そうなんだよな、本当に。
「だけど、いつか全員揃って飲めるなら、そんなに幸せなことはないねぇ」
心のままにそう口にしてから。――不意に、記憶の端が跳ねた。同じ言葉を、昔、聞いたことがある。
瞬間。私が手に持っていたワイングラスが割れた。手の中の感触が変わり、冷たいワインが手と腹部と脚を濡らす。
「アキラ様!!」
こんなに感情的なカンナの声を聞いたのは初めてで、呆然としていた私はそこでハッとした。
「あ、あぁ……大丈夫。駄目だよカンナ、触ったら」
「ですが、破片が。アキラ様、動かないで下さい、すぐに」
私の腹部から膝にかけて散らばってしまった破片を、カンナとお互い触るな触るなと言い合って牽制し合うことになってしまった。他四人も最初は動揺していたが、私達の慌てぶりを見て冷静になったらしい。それぞれがサッと立ち上がって動き出す。まずはラターシャが、カンナを後ろから抱いて優しく私から引き離した。
「カンナ、落ち着いて、ちょっと離れよ?」
「ですがアキラ様が」
流石にラターシャを乱暴に振り払うようなカンナではないけれど、おろおろと私とラターシャを見比べていて、あまり離れたがらない。
「大丈夫、私がやるわ。アキラも動かないで。トングを持ってくるから」
「ナディ姉も防刃手袋、あっちの部屋かな? 私のと一緒に持ってくるよ」
「そうね、ええ、お願い」
あー。なるほど。トングと防刃手袋でガラスの破片を回収してくれるなら、ナディアとリコットの手も危なくないから大丈夫だね。その説明にカンナもようやく納得したのか、ラターシャが促すのに従ってその場から離れていた。
その後ナディアとリコットが私の周囲から安全にガラスの破片を取り除き、いつの間にか箒とちり取りを持ってきていたルーイが周りを広く箒掛けしていた。小さい破片は想像以上に遠くまで行くことがあるからね。キッチンの方まで見てくれていて、なんだか三人はガラスの処理に慣れているんだなと感心する。
「アキラちゃん、手」
「うん?」
破片をひと纏めにした後、リコットが近付いてきてそう言った。私が目を瞬くと、彼女はほんの少し眉を寄せ、私の右手に触れながら教え込むようにゆっくりと「この手を開いて、私に見せて」と改めて言う。言われた通りに開いた手には、一筋の赤い線が入っていた。
「え? あれ?」
「やっぱり。手の中であれだけ盛大に割れたんだから、ちょっとは切ってると思ったんだよね」
目を丸めている私にリコットは眉を下げて笑って、私の右手を包むような仕草で両手を添える。
「回復魔法できる? 先に洗う?」
「あー、うん、えーと、そうだね、洗う」
基本的には内側から治癒が入る為、異物があったとしても自然と外に出て行き、中に破片が残ることは無い。でも余裕がある時は念の為、洗ってから処置する方がいいだろう。
何だかぼんやりしている私は、リコットに促されるまま立ち上がって手洗い場に行った。そして見張られながら傷口を洗い、回復魔法で綺麗に治癒する。
「服も着替えてよ。破片が残ってるかもしれないから気を付けてね。カンナ、アキラちゃんの着替えをお願いできる?」
「はい」
カンナの返事は早かったが、まだ少し動揺を残していた。だけど動きはいつもの彼女で、テキパキと着替えを持ってきてくれる。今日のカンナは、侍女をお休みだったのに。でも今は全員が私の為に動いてくれている状況なので、何とも言えない。
「なんかお騒がせしてごめんね……」
「はは、そんなこと気にしなくていいから」
優しいリコットはそう言ってくれるけど、脱いだ服を渡すのはやめておいた。万が一破片が残っていたらリコットが怪我しちゃうでしょ。そう言うと、何処か呆れて肩を竦めていた。
後でブラシと粘着テープで取るってナディアが言うので、大人しく言われた通りに脱いだ服はハンガーに掛けて浴室に放置する。ちなみにワインを零したシミは既に服もソファも私の浄化魔法で除去済みである。
着替えを終えた頃、少し動揺していた私の気持ちが落ち着いた。改めてソファに座り、ハァ~と息を吐く。
「カンナも落ち着いたかな?」
「……はい。申し訳ございません。本来であれば私が、きちんと対処すべきでしたのに」
すっかり落ち込んでしまっている。確かに王宮侍女様として超優等生なはずの彼女らしからぬ慌てぶりに、私もちょっと驚いた。
「アキラちゃんが怪我すると思って、びっくりしちゃったんだよね」
優しく慰めるラターシャの言葉に、カンナは言葉なくただ頷いている。私も手を伸ばして、隣に座る彼女の髪をそっと撫でた。
「私自身、グラスが割れて呆然としちゃったから、カンナがすぐに名前を呼んでくれて助かったよ」
顔を上げて私を見つめるカンナの瞳が頼りない。今この可愛さに負けて抱き締めたら、流石にみんなに怒られそうだな。撫でる以上のことをせぬようにぐっと我慢する。向かいに座るナディアが一瞬目を細めた。気付かないで下さいってば。
「それは私もそう、って言うか、全員が固まってたよね。動揺してたとは言え、最初にアキラちゃんを守ろうとして動いたのはダントツでカンナが早かったよ」
「確かにすごく早かった。私、何が起こったか全然分かってなかったもん」
私の愚かな心情には何も気付かず言葉を続けたリコットとラターシャに、ややホッとする。
さておき思い返すほど二人の言う通りで、カンナの反応は群を抜いて早かった。そして彼女が慌てふためいたことで、みんなも危機感を持って動いてくれた。
口々にみんなでそのようなことを言い合うと、カンナも落ち込んでいたところから少し気恥ずかしさも湧き上がってきたようだ。小さな身体を更にきゅっと小さくする。
「ありがとうございます。今後は、迅速かつ、……冷静に動きます」
締め括りの言葉も彼女らしくって、少し笑った。
グラスを割ってしまう前に私の脳裏を過ぎったことは、もう、すっかり消えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます