第588話

「じゃ、行ってきますー」

「はーい、楽しんできて~」

 他の子らに見送られながら、カンナと共にお出掛けです。今日は少し空気が冷たいが、風が無いから凍えるほどの寒さではないね。程よく心地の良い夜だ。

「はい、カンナ」

 アパートの軒先から出てすぐに、カンナへと自らの左肘を差し出す。彼女は一瞬固まって。恐る恐るという動きで私の腕に手を添えた。そのまま窺うみたいにちらりと見上げてくるから、そうだよと伝えるように頷く。カンナも小さく頷いて、改めて腕を持ってくれた。

 エスコート成功です。ご令嬢なら手を繋ぐよりこっちの方が応じてくれそうだったのでそうしました。寄り添ってくれるのが嬉しくてニコニコになる。

「カンナ」

「は、」

 いつも通り礼儀正しく「はい」と返事をくれようとしたカンナが顔を上げてくれるのを良いことに、そのまま顎を右手で固定して口付ける。一回だけで止めるつもりだったんだけど。可愛かったのでついでにもう一回重ねておいた。

「あの、……往来、ですので」

「そうだね。これくらいで」

 私の腕を掴んでいるカンナの手の力が少し強まった。照れ臭かったのか、カンナなりの抗議だったのか。可愛いからどっちでもいいけどね――なんて言ったら、相手がカンナじゃなければ一発喰らっていただろうな。

 さておき立ち止まっていても仕方がない。ご機嫌な足取りで、目当ての店に向かうことにした。


* * *


「――ぷっ、はははは!」

 二人のやり取りを、窓から眺めていたリコットは手を叩いて笑う。

「え、なに。どうしたの?」

 突然の笑い声に驚いたラターシャが目を瞬きながら尋ねると、笑い過ぎたせいで涙まで滲ませたリコットが部屋を振り返った。

「だって、ふふ、アキラちゃんてば我慢できなくてさ、アパート出て早速キスしてんの」

「えっ、私も見たい!」

 何故それを見たかったのかは知らないが、ルーイが同じく窓際へと駆け寄る。しかしナディアがカーテンを引いて二人の視界を閉ざす方が早かった。

「悪趣味な覗きは止めなさい」

「え~」

「あはは、もう行っちゃったよ」

 口を尖らせているルーイを宥めるように、リコットがその小さな頭を撫でる。何とも言えない顔で三姉妹のやり取りを見守っていたラターシャは、本当に楽しそうに笑っているリコットと、やれやれと溜息を吐くもいつも通りのナディアに、ゆっくりと首を傾けた。

「二人は、妬いたりしないの?」

 この言葉がナディアとリコットを指した『二人』だということは当人らも分かったようだが、その問いを向けられることには理解が及ばなかったらしい。二人はきょとんと目を丸め、「なぜ?」「なんで?」と声を揃えた。その反応を見たルーイが何処か呆れた顔をしたことに、ナディアとリコットは気付かなかった。

「私達はあの人に恋をしているわけじゃないから。アキラが何処で誰と寝ていようと、どうでもいいわ」

 まるで当然と言わんばかりにナディアはそう言い放ち、ダイニングテーブルに置いていたマグカップを持ってソファへと移動していく。特に呼ばれたわけではないものの、みんなもそれに倣うように、自分の飲み物を持って同じくそちらへ移った。

「私は流石に『どうでもいい』とまでは思ってないかな~」

 みんなが腰を落ち着ける頃、リコットはそう言って少し笑う。勿論ナディアも冷たい言い方を選ぶだけであって本心では違うのだろうが、素知らぬふりでリコットからの視線には応えない。

「でも基本的には、アキラちゃんが楽しそうならいいよ。気に入らない女だったらちょっとムカつくかもしんないけど、今回の相手はカンナだしねぇ」

 つまるところ一切の憂いも無いのだと話す二人に、やはりラターシャの理解は及ばない。改めて首を傾けている。ルーイは全員の様子をそれとなく確認してから、小さく溜息を吐いた。

「本当に教育に悪いよね。『普通』がこの家には居ないし」

 他ならぬ最年少から齎された言葉に、リコットがまた声を上げて笑った。

「異世界出身のアキラちゃんに、娼館出身が三人、もう一人は貴族令嬢だもんねぇ」

 先日の家族の話でも明らかだったが、貴族と平民では根本的に文化が違うことがある。恋愛観も、平民とはかけ離れた感覚である可能性は否定できない。

「でもエルフも特殊だからなぁ、なんとも」

 そう言ってラターシャも苦笑を零せば、みんなも何処か力が抜けた様子で笑った。この家には『平凡な一般市民』が一人も居ない。何が『普通』かを考え始めたら、最後は全員が混乱するだけの結果になりそうだ。

「そういえばさぁ」

 数拍の沈黙を挟んで、リコットが徐にラターシャの方に視線を向ける。

「ラターシャのお父さんって、今どうしてんの?」

 このような踏み込んだことを問えるのは、リコットだけだ。問われたくないと相手が感じたかどうかを正確に読み取って対応できる彼女だから、あまり気負うことなく尋ねられるのだろう。

 一方、ナディアとルーイは緊張を顔に出さないようにしつつ、ラターシャの様子を慎重に見守っていた。そんな彼女らの心情を知ってか知らずか。ラターシャは特に表情を曇らせることなく「うーん」と言って首を傾ける。

「正確なことは分からないけど。多分、今も何処かの人里で生きてると思う」

 平和な回答に、一先ず、三人はホッとした顔を見せた。エルフの里におけるハーフエルフへの嫌悪を思えば、相手となった人族には更に強い嫌悪や憎悪がありそうだと思っていたからだ。しかし少なくとも、エルフがその人族を害したような話は無かったのだと分かる。

「お母さんからは、何にも聞いてないの?」

「何にもってわけじゃないんだけど……」

 少し難しい顔をして、ラターシャが短く唸る。言いたくないとか言い難いという顔ではなく、説明が難しいという顔だったから、三人は静かに彼女の言葉の続きを待った。

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