第571話

「あ、ごめんなさい」

 不意に、じゃぶ、と水が跳ねる音がして顔を上げたら。さっきまで桶の中でとろっと傾いていたナディアが姿勢を正していた。

「アキラももう洗い終えるわね。のんびりし過ぎたわ」

 私の身体一面が泡だらけになったところでナディアはハッとしたらしい。ナディアが優先で良いですよ。場所を譲るように少し移動したら、察したナディアが桶から上がる。尻尾の毛の回収がある分、ナディアは手間が一つ多いもんね。

 ナディアが身体を流し終え、桶のお湯の処理も済ませて脱衣場に行くのを見守ってから、私も身体を流した。掃除は宿の浴室だからテキトー。自分で出した桶さえ綺麗にしちゃえばいいのだ。

 さあ、まずは髪を乾かすかぁ。

 自分の髪を乾かしてからじゃないとナディアは乾かしを拒否しちゃうので、手早く乾かしてナディアの髪に移行した。丁寧に乾かしましょう。

「尻尾もしていい?」

「……お好きにどうぞ」

 了承してもらうと私は嬉々として尻尾専用ブラシを取り出し、乾かし終えたそれに熱心にブラシを掛ける。可愛いねぇ。私の手から時々逃げようとしてふわふわと動く。反射で勝手に動いちゃうらしくて、ナディアがわざと動かしているわけではないそうだ。意地悪されているとしたらそれも楽しいと思っていたけど、勝手に動いちゃうのも可愛いな。

「よーし! ふわふわになったぁ!」

「私より喜ぶわよね」

 ナディアもいつも綺麗に整えているから艶々のさらさらだけど、私はフワフワに拘っています! そして一番に顔を埋めるのである。ナディアもこの時ばかりは何も言わない。モフ~。

 と、調子に乗って楽しく愛でていたら、徐にナディアに私の後頭部の髪を掴まれた。ぎゃあ。ごめんなさい。緊張したけれど、そのまま痛くない程度に引っ張られて誘導され、私は尻尾を下敷きにする形でナディアの膝にごろんする。膝枕、そして尻尾。なんだこの幸せな構成は。

「あなたこそ、疲れているんじゃないの。分解していたミシンはもうすっかり原型を留めていなかったわね」

 珍しいことに、ナディアはその時くすくすと笑っていた。私は慌てて視線を上げる。残念ながら豊満なお胸で口元はほとんど見えなかったんだけど。目尻がいつもより垂れていて、目を細めているのは分かった。嬉しくなって私も笑みを浮かべる。

「うん、もう完全に分解しちゃった」

「あれは元に戻るの?」

「大丈夫だよ~」

 話している間も、ナディアの手が私の頬や額を撫でている。嬉しい。今日のナディアは甘ったるい。溶かされるように、思考がふわ~としてきて、一瞬落ちそうになったところでハッとした。

「寝そうになる! お酒飲も!」

「別に寝ても良かったのに」

 なんと。そのつもりでもあったのか。危ないところだった。寝かし付けられてしまったら、ナディアとの幸せな晩酌もベッドタイムも無くなってしまう。幸せ過ぎる構成で、罠に掛けられていたようだ。心を強くして身体を起こした。

 なお、私が枕にしちゃったふわふわの尻尾は一部がぺちゃんこになっていた。「あぁ……!」って思わず悲しい声で嘆いたところ、今までに無いくらいナディアが笑って、しばらくベッドに突っ伏して震えていた。

「はあ、もう、死ぬかと思ったわ」

「そんなに笑う?」

 笑いが収まった後もナディアはまだ肩で息をしている。こんなに笑い疲れているところ、初めて見たよ。

「ナディ、あ、いや。うーん」

「なに」

 ようやくテーブルで向かい合って座って、白ワインで乾杯した直後。私は短絡的に口にしようとしてしまったことを、今更飲み込んだんだけど。ナディアがそんな半端を許してくれるわけもなくて。じっと見つめられるのに根負けして、口を開く。

「気を悪く……とか、悲しい気持ちになるなら流してほしいんだけど」

 悪あがきのように念の為、やや弱い声で前置きを付けた。ナディアはワインをひと口飲んでから、軽く頷くだけで先を促してくる。

「笑っている顔を隠す理由は、……私達が知らなくて良いこと?」

 私の問いにナディアは沈黙したが、表情も変えなくて、その感情を読むことは出来ない。

 今でもナディアは、笑う時に咄嗟にその顔を隠す。

 少しずつ見せてくれているけれど、満面の笑みは全く見せてくれない。カンナのように普段から表情が全く動かないのとは違って、ナディアは間違いなく『我慢』して、笑う時に敢えて『隠す』動作をする。

 以前に問い掛けた時、ナディアは答えなかった。だから多分こんなことは問うまでも無い。知る必要があることならとっくに教えてくれている。

 案の定、ナディアはしばしの沈黙の後で「ええ」と言った。

「だけどそんなに心配になるなら……話してしまった方がマシかもしれないわね」

 そう言ってナディアは軽く首を傾けた。あまり酷く困った顔はしていなくって、それが私に対する気遣いなのか本心なのかも、鈍い私には分からない。

 ワインをもうひと口傾けてから、ナディアは視線を落として語り始めた。

「私が笑みを見せることを、父が嫌ったのよ。特に母が亡くなった後ね」

 始まりからさっぱり意味が分からないが?

 眉を寄せると、それを見たナディアは逆に目尻を緩めて淡く笑う。

「私の容姿は、母に似ているの。瓜二つなくらい。父の要素が全く無くて、本当にあの人の娘かしらと時々分からなくなるわね。まあ……性格はどちらかと言えば、父寄りなんでしょう。あまり認めたくはないけれど」

 ナディアの父親には良い印象が全く無いし、ナディアの中にそのクズ親父の要素があるとはとても思えない。でも私はその父親のことをほんの少し語られる部分でしか知らないから、何とも断言できない。ナディア自身がそう言うなら何処かにそう思ってしまう要素もあるのか。タグは、こんな時に限って何も教えてくれようとはしなかった。

「母は、いつでも笑っている人だった。そういう印象のせいもあるのでしょうけど、私が笑うとあまりに母とそっくりで、それが父の癇に障ったみたい」

「なんでそんなことに……お父さんは、お母さんが嫌いだったの?」

「いいえ。その逆。大好きだったのよ」

「はぁ……?」

 私は首がねじ切れるかと思うほど限界まで傾ける。するとまたナディアがくすりと笑った。彼女の表情は語られる内容と相反するように、いつになく穏やかで。余計に、語られる内容が私の中に上手く入ってこないのだ。

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