第572話

 まるで穏やかな思い出を語るように優しい表情で、ナディアは話を続ける。それがやはり、聞く側になる私に対する心遣いであったことを、数拍後に知った。

「父は元々……妊娠が分かった時から、あまり私のことが好きではなかったそうなの。母の愛情を横取りしているとも思っていたようだし。何より、私が生まれてから母が体調を崩しがちになったせいもあって、母が死んだのは私のせいと言っていたわ」

「ばかか?」

 心の奥底から怒りが湧いた。どうして生まれる前から憎まれたり疎まれたりしなきゃいけないんだよ。ラターシャもそうだけど、こんな風に理不尽を冷静に受け止めている子らは、きっとそうしなければ生きてこられなかったんだって、そんな気持ちを勝手に想像して、泣き出したくなった。

 だから口を付いて言ってしまったけど。どんな人であろうとも他人の親に向かって不躾にこんなことを言うべきではない。「ごめん」と慌てて告げる私に、ナディアは目を緩めていた。

「いいえ。そう、ばかな人だった。周囲の人間から何度宥められても、『こいつが殺した』と私に向かってよく叫んでいたわ」

 気分の悪い話だ。近所の人は何度もナディアを守ろうとして、庇って、そのバカ親父を宥めてくれたそうだ。しかしバカにはそんな言葉が届くことは無く。ナディアのお母さんが死んでしまったのはナディアが生まれたせいだと言い張り、彼女に酷く当たり続けていたらしい。

 特に、彼女が笑う度、「偽物の癖に」と逆上することが多かったとか。そうして最後には自分の借金の為にこの子を娼館に売っているんだから……クソッ、今どこに存在しているんだ殺してやりたい。

 ムカムカしていたら、それを察したナディアが軽く首を振る。

「考えてもみて? 私があの人と一緒に暮らし続けていたとして、娼館よりも幸せだったと思う?」

「……それは、確かに、どっちもどっち……むしろ」

「ええ。娼館に行く前は、恐ろしい場所だろうと思って怯えていたけれど。いざ娼館で過ごしてみれば、父の傍よりずっと楽だった」

 殴られることも、無意味に怒鳴られることも無く、ただ仕事をしていれば良かった。知らぬ男のベッドの相手は、最初の内は酷く辛く感じたものの、慣れた頃には「父と家に居る時ほどのことはない」と思ったそうだ。

「でも、あの組織と比べてしまえば流石に、同じ程度につらかったかしらね」

 その言葉を聞いたら、私の内には改めてナディアの父親に対する激しい怒りが蘇る。リコットは、組織での日々を『地獄』と言っていた。それと同等とも言える辛い想いを、まだ十歳やそこらだったナディアがたった一人で耐えていたということが、苦しくて、悔しくて、許せない。

 だけどまた、ナディアは首を振った。

「笑う時に顔を隠すのは、もうただの癖でしかないの。今の私は、何も怖いと思っていないわ。私が笑って怒る人なんて誰も居ないし、……私が笑わなくても、あなた達は怒らない。そうでしょう?」

「勿論だよ」

 笑ってても笑ってなくてもナディアは可愛いので。そんなことでナディアを責めるつもりは毛頭ない。彼女が、何かを辛く思って我慢しているなら、解消する手助けをしたいと思っただけだ。私の返答に、ナディアが穏やかに頷いた。

「どちらでも受け入れてくれるのが分かっているから、『楽な方』を選んでいるだけ。わざわざ癖を直すのも、もう面倒臭いのよ」

「なるほど、それも、そうか」

 彼女の言葉には『本当』が出ていたし、私が髪を下ろさない理由にも似ていると思った。わざわざ矯正するほどのことじゃないから、そして悪影響というほどのことでもないから、そのままにしている。

 ナディアも今は何かが辛いわけじゃなく、みんながどんな彼女でも許すって分かるから、無理に直すとか変えることを考えなくなったんだ。それならいいや。そのまんまの彼女で居てくれて構わない。

「話してくれてありがとう」

「いいえ。黙ったことで、却って心配させてしまったのでしょう。悪かったわ。あなたに話すと今すぐにでも父を殺しに走りそうだから、それも面倒で……」

「うん、走るところだった。ごめんなさい」

 素直に認めたらまたナディアがふっと笑う。この話の間、ナディアはずっと笑みに近い表情を浮かべている。私への気遣いと知りながらも、彼女の柔らかな表情が見られるのは、やっぱり嬉しい。

「もういいの、だからアキラも怒らないで」

「そっか」

 ナディアがそう言うなら、わざわざ掘り返すこともないね。話を流すようにして、お互いに改めてワインを注ぎ直した。

「……そういえば」

 ワインとおつまみを堪能する為の沈黙が短く落ちた後、今度はナディアの方が話し出す。促すように私は一つ頷いた。

「カンナが御実家や城に手紙を出していたのは、大丈夫なの? 私達のことは書いていないと言っていたけれど、ジオレンに居ることは書いたと……」

「ああ、うん、大丈夫。あれは事前に私が許可したことだよ」

 彼女が来てくれた翌日、出勤表を作った時に。手紙は自由に出していいと告げてあった。そうじゃなきゃ真面目なカンナが勝手に手紙を出すはずもない。

「むしろ最初は、本人から検閲を言い出してきたくらい。まあ、私は確認する気とか無いから断ったけどね」

「……いいの?」

「うん」

 短い返事と頷きだけをまず返したが、それでナディアが納得すると思っていたわけではない。今は美味しいおつまみを頬張っていて……すみません、すぐ飲み込むので……。一生懸命に咀嚼している私を見て、ナディアは一瞬、可笑しそうに目尻を下げた。うん、ナディアの緊張を解くという副産物を得た。改めて一つ頷いて、続きを告げる。

「今でも私が城に対して隠していたいのは君らのことだけだから。ナディア達については一切書かないようにって命じてある。他は許可した」

 その説明に、ナディアは何処か複雑な表情で黙った。妹達を想えば私の対応は同意してくれるんだろうけど、私自身じゃなく、彼女らのこと心配しているように聞こえて、戸惑っているんだと思う。

 でも、私は既に城とは繋がっているわけだし、顔も姿も知られている。今の居場所を隠したところで、本気で探そうと思えば簡単に見付けられると思う。私が街に立ち寄る限りはね。

 ただし、こっちも本気で逃げようとしたらどうにでも逃げられるし、何にも不都合はない。そういうのも踏まえて、今更、場所がバレたところで構わない、と思っているのだ。

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