第570話
おどおどしながら目を瞬いているとナディアが改めて呆れた顔をしたけれど。一歩、私の方へと距離を詰めた彼女は、打って変わって優しい声を掛けてきた。
「……今日はあまり調子が良くないでしょう。心配しているの、分かるわよね?」
「ぅあ、はい、分かり、ました」
「今ね。まあいいわ」
ご指摘の通り、言われるまで心配をされてのことだと分かっていなかったというか、いや、分かっていたんだけどピンと来ていなかったという方が正しいかな。とにかく今はもう分かった。ややナディアを疲れさせてしまったようだが、これ以上はもう怒られなかった。
手早くナディアの為にお湯を用意して、おつまみを入手すべく私は再び部屋を出る。
流石に私もあまり濡れたくはないし、雨の中で長く移動もしたくなかったから、近場でお酒とつまみを揃えて十五分足らずで戻る。うん、でも思ったより美味しそうなものがゲット出来て満足です。流石はジオレンだね。何処でもワインとおつまみが豊富。
まだナディアは浴室に居るらしく、水音が聞こえた。でも私が戻って来たことは、ナディアなら浴室からでも分かっ――。
「アキラ」
「はーい」
思考にすら食い気味という速さで、既に帰宅を気付いていたらしいナディアに呼ばれました。ちょっとだけ扉が開いた。あらあら、湯気が出て寒くなっちゃうよ。ナディアを待たせて凍えさせてはいけないと、私はダッシュで扉の傍に向かった。
「ただいま。どうしたの?」
「おかえりなさい。もう上がるから、あなたも入ったら」
「えっ、はい」
一緒に入ってもいいのか。わーい。買ってきたものを雑にテーブルに放置して、うきうきと私も浴室に入り込む。
「あれ、ナディ浸からないの?」
私が洗い場に行こうとしたら、洗い終えたナディアが入れ替わるように出ようとしていた。
「……だから。尻尾の毛が浮くでしょう」
「私はいいから温まってよ。汲み上げなら別で用意するし」
先日、リコットと一緒に入った時に学習したからね。大丈夫ですよ。早速、小さめの桶を取り出して、これだよ~と見せたがナディアはまだ渋った。
「浸かれなくなるのは変わらないわ」
「いや、私はいいよ、早く飲みたいし」
だから私は浸からなくていい。そう伝えるとナディアはちょっと考えるように静止して、諦めた様子で「じゃあお言葉に甘えて」と言って大きな桶に入る。
一連の動作で動く尻尾が可愛い。最初は桶の縁を避けるみたいにひょいっと高く上がって、その後は小さくふるふるって揺れながら湯の中に消えた。はぁ。かわいい。
それにしても、こうしてナディアと一緒に浴室に居るのももう慣れてきたねぇ。ナディアもそのせいで、一緒にお風呂に入ることについてハードルが下がっている気がする。私とっては嬉しい変化である。
「ところでナディって、ミシンを触る時は長時間ずっと遊んでるけど、疲れないの?」
「まあ……流石に、少し。しばらく触っていなかったせいもあるでしょうけど」
ナディアは目の辺りを覆いながら答えた。目が疲れるのかな。一応、連日はやらずに数日を空けるなど、彼女なりに制御しているようだが、やり始めるとどうしても熱中しちゃうみたい。
「……靴も、早く作りたい」
小さな声で、ぽそりとナディアが呟いた。私に聞かせるつもりがあるか微妙だと思うくらい控えめに。
「思い出してきた?」
作っていた頃のことでもいいし、作り方って意味でもいい。
「そうね」
ナディアもどちらの意味の肯定かは言わなかった。
私達の間に短い沈黙が落ちてから、ざば、と音がしたので横目で窺う。目を覆っていた手を下ろしたナディアが、此方を振り向いた。
「ただ、初めての素材で作るのは緊張するわ。二人の分を作るには充分な大きさだったけれど、貴重なものでしょう?」
なるほどね。ブランクもあるし、魔物素材だし、二倍の不安か。
実際、なめし革は私一人じゃ作れない。その元になる素材は魔物を狩ればいいけど、加工が出来ないのだ。やり方はエルフの知恵で知っているものの、時間も手間も掛かるし、一歩間違えれば台無しになる。だからなめし革を追加で入手したいなら、自作ではなくプロに任せるべきだ。つまり容易に手に入らない素材であることは、否定できなかった。
「普通の革もあるから、先にそっちで遊んでみる?」
「……そうね。少し練習してもいいかしら。その分、二人のブーツが完成するまで、少し掛かってしまうけど」
「構わないよ」
そもそもナディアが作れると知る前は、職人探しからすることになるはずだったんだし。そんなに急いでいないのだ。
「だけど、依頼があればカンナは連れて行くのでしょう?」
「まあ、うん。でもブーツが完成するまでは私が結界で似たようなことを実現するとか、色々工夫はできるからさ」
結界で全く同じことは出来ないし、少しカンナに負担は掛けるかもしれない。しかし出来るだけその負担が小さいものになるようには、主人である私が努力することです。だから変にナディアがその責任を感じたり、焦ったりする必要は無い。のんびりやってもらって、完成したら私が大喜びする。流石にこればかりは何かお礼をしたいので、受け取ってもらう方法もちょっと考えなきゃいけないな。いつも絶対に「要らない」って言われるからな。
「ねえ、アキラ」
一度さっきの話も途切れて、私が髪の泡を流し終えたところで不意にナディアに呼ばれる。身体を洗う用の泡を手の中に作りながら、振り返った。
「ちょっとお願いがあるのだけど」
「いいよ、なに?」
「どうして聞く前に承諾するの」
「嬉しくて……」
ナディアが私にお願いするんですよ。聞くよ。苦痛を伴う事であってもナディアの為なら。
目をきらきらさせながら続きを待っていたら、「私の分の巻き尺も作って」だった。そんなささやかなお願いも、こんなに改まってしないといけないんですかナディアさん……。もっと甘えてくれていいのになぁ。
「勿論だよ。すぐに作るね。完成までは、今のやつをナディが持ってて良いよ。私はすぐに使わないし」
「ありがとう」
やっぱり洋服とか、靴とか、ああいうものを作るにあたって巻き尺は便利だよね。無いのが当たり前だった時は気にしていなかったのかもしれないが、私のせいで便利を覚え、もう無くてはならない身体になっちゃったナディアです。
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