第362話

 そして用を済ませて、のんびりと席に戻る。

 私が席を立つ直前に注文したワインは既に到着していたが、うーん、触れた形跡は全く無いな。くるりと回してまた香りを楽しみ、一口。美味しい。

 目を離したら何か盛ってくるくらいはあるかと思ったんだけど、そんなことは無いらしい。私が警戒しすぎているんだろうか。一体これは何の為の『お近付き』なんだろう。今夜はこのまま気儘に喋るだけで解散してしまって良いのかなぁ。

 さておきヘレナは今でワインが四杯目。顔色は全く変わっていない。やっぱり弱い印象は無いな。今日は私の手前、控えめに飲んでいる可能性も高いし。

「ヘレナは明日も仕事?」

「はい。お昼過ぎからですが。アキラ様は?」

「私は毎日がお休みだね~。明日も特に決まった予定は無いから、女の子達と相談かな」

 誰かの予定に付き合うでもいいし、引き続き魔道具製作に勤しむのでもいいし、ぶらぶらしてさっきヘレナに教えてもらった洋服店などの下見に行くでもいいね。

 その後も彼女とは穏やかな雑談を続け、ヘレナが五杯目を飲み終えた頃にお開きとした。私が何杯飲んだかは覚えていない。途中から数えることを放棄したので。店に入って三時間が経った頃だった。

 お会計は大銀貨二枚と銀貨三枚だね。最初の相談通り五枚出してくれたけど、二枚返した。端数だけでいいよ。

「アキラ様」

「まあまあ」

 困った顔をするヘレナを適当に宥めて受け取らせる。

「ヘレナの家はどっちの方? 近くまで送って行くよ」

 そう言って歩こうとしたら、ヘレナが私の肘当たりの服をつんと引っ張った。

 応じて振り返ると彼女は未だ私が返した銀貨二枚を握っていて、そんなに気にするなら受け取った方がいいだろうかと見下ろす。だけど私が口を開くより先に、ヘレナが顔を上げて真剣な表情で私を見つめた。

「それでしたら」

 ヘレナはナディア達と変わらないくらいの背丈だから、私とそんなに大きな身長差は無い。でも五センチくらいは違うのでやっぱり、見下ろしている、見上げてくるという感じがする。いつも思うけど上目遣いってずるいんだよね。儚く見えて、無用な庇護欲が湧き上がってしまう。

 そんなことを考えながら見つめ返していれば、肘辺りを持っていた彼女の手の平が徐に少し滑って、腕の内側まで回った。

「私の家で、少し休憩されませんか? コーヒーくらいしかお出しできませんが」

 瞳が微かに熱を持ち、ヘレナの眉が、恥ずかしそうに下がっていく。この誘い方がお友達としての距離の詰め方だって言うなら、流石の私も文化の差に頭を抱えるよ。

 でもこれは、多分、演技だと思うんだけど。まあいい。『虎穴に入らずんば』ってやつだ。

「うん。ご馳走になろうかな」

 釣り針を、鷲掴みにした気分だった。

 彼女の家はそう遠くなくて、歩いて五分くらいの場所にあった。賃貸らしい。ワンルームだけど私達の宿の部屋よりも大きくて、ちゃんとした台所がある。固有の台所があるのはいいなぁ。長期滞在なら、宿屋に拘らずともこういうので良いのかも。家具は一度揃えてしまったらその後はずっと私の収納空間で持ち運んでしまえばいいし。今度ナディア達にも相談してみよう。

「すみません、もう少し綺麗にしておけば良かったです」

「あはは、充分、綺麗な部屋だよ」

 十年以上も住んでいるにしては全体的に物が少ない印象だ。ああ、いや、『この街に』十年以上であって、この部屋とは限らないか。とにかくそのせいか、散らかっている印象も無い。テーブルの上だけはいくらか書類が積んであった。仕事のものかな。ヘレナはそれを慌てて片して、丁寧にテーブルを拭いた後、温かいコーヒーを淹れてくれる。

「ありがとう。ところでヘレナは、こうしてよく部屋に誰かを誘うの?」

 私の問い掛けに、ヘレナは少し表情を曇らせた。私は、笑ってしまうのを我慢した。

「……意地悪な質問をなさるのですね」

 その言葉にも何とも答えず、笑みだけを浮かべる。するとヘレナは更に少し、眉を顰めた。

「今回は親しくなる過程でお招きしてしまった為、アキラ様が私を軽い女をお思いになるのも、仕方ありませんが」

「ふふ」

 彼女は察しが『良すぎる』。彼女の反応は私が狙った通りではあったけれど、あまりも綺麗にはまってくれたものだから堪らず笑ってしまった。私はあんまり、笑うのを我慢するのは得意じゃないんだ。揶揄うのはこの辺にしておこう。

「同性の私をこうして部屋に上げるだけで『軽い』ってのは、ちょっと一足飛びじゃないかな?」

 指摘に、ヘレナはハッとした顔をした後、頬を染める。

 私は『女好き』だとまだ明言していない。だからさっきの『誘う』という言葉は額面通りに受け取っても不自然でなかったはずだった。

「で、ですが……アキラ様は」

「うん?」

「……女性も、対象となさる方でしょう?」

 私はそれにイエスとは言わずに、ただ微笑んでコーヒーを傾ける。少なくともヘレナがそれを確信していることくらいは、家に招く際の手段で分かっていたけどね。どうして確信しているんだろうなぁと思って、この揶揄いだったってわけ。

「受付で色んな方に接しておりますと、目で、多少は分かります。不躾な視線ではなくとも」

「あぁ、なるほど」

 図らずもヘレナは私の疑問に丁寧に答えてくれた。不躾でないと言ってくれる通り、私は別にエロい目で彼女を見ていたつもりは全く無い。けれど男性を見つめる場合との明らかな違いは、確かにあったのだろう。それは否定できないな。私はただ肩を竦めた。

「それでもあなたは、男性ではありませんので」

「うん?」

「あなたなら、と」

 ……何の話だ?

 予想とは違った言葉が零れてきて、今度は私が首を傾ける番だった。ヘレナは一度しっかりと居住まいを正し、私に向かって頭を下げる。

「お誘いした理由を何度も尋ねて下さったのに、はぐらかしてしまったことをお詫びいたします」

 おぉ。つまり今から、打ち明けてくれるってことかな。虎穴に入った甲斐があったようだ。

 何処かワクワクした気持ちで言葉の続きを待ったこの時の私は、常に自分が優位に立っていると思っていた。

 ほとんどの人は私が異世界から来た者であることなど知らず、規格外の魔力のことも知らない。タグの存在も知らない。だから自分が賭けに負ける未来を私は凡そ想定していなくって、負けたとしてもどうにでも逃げられると、甘く考えていた。

 後悔は、……どうだろう。全てを知れば、もうそんなことも出来ない。

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