第336話
夕食時に声を掛けられるまで、アキラは本当に眠っていた。泣き疲れていたのかもしれない。けれど起きた後の彼女にいつもと違う様子は全く無く、普段と何ら変わらない笑みを見せ、みんなと話していた。ただ、いつの間にか救世主の手帳は、机の上から消え失せていた。
そのまま何事も無く夜が更けて子供の就寝時間が過ぎ、大人組もそろそろ眠るべき時間が近付いた頃。
「――アキラ」
「うん?」
寝支度を進める様子無く机に向かっていたアキラに、ナディアが声を掛ける。素直に応じて振り返ったアキラは、目を丸めた。ナディアは彼女のベッドではなく、アキラのベッドの方に腰掛けていたのだ。驚くアキラを一瞥して、ナディアがベッドをぽんと軽く叩く。
「寝かし付けるから。早くして」
「え、どういう……?」
決定事項のような言い方だが、アキラには覚えの無い展開だ。しかしナディアは『何故わざわざ説明が必要なのか』と言わんばかりに面倒そうな色を含めた溜息を零す。
「今日は何度も転寝して眠くないんでしょう。だけどその調子で夜更かしをしたら、昼夜が逆転するわよ」
転寝をしなくても普段から夜更かし気味のアキラだから、少しずれるだけでも朝方まで起きていそうだと心配しているらしい。声があまりにも面倒そうで分かりにくいが、言っていることから察するにそういうことだ。
「だから、ナディが添い寝してくれるの?」
「……その方が良いなら」
添い寝までするつもりは無かったのかもしれない。寝かし付けさえすれば、自分のベッドに戻ることも考えていたのだろう。だが添い寝してもらえると分かるとアキラがぱっと表情を明るくさせたので、その選択肢をナディアは飲み込んでいた。
「じゃあ甘えようかな!」
嬉しそうにそう言うと、アキラは手早く寝支度を済ませてベッドに移動した。あまりの行動の素早さに、ナディアの方がまだ髪を編んでいる真っ最中だった。既にベッドに寝そべっているアキラに「ちょっと待ってね」と言いながら、尻尾をぱたりと揺らす。するとアキラが条件反射のようにその揺れる尻尾に顔を埋めた。
ふんふんとそこで息をされるとくすぐったくてならないが、ナディアは横目で窺った程度で何も言わない。尻尾を触らせている間のアキラは、とにかく静かで大人しい。反射的にぴくりと揺れる尻尾の先の動きまでは抑えられないものの、それも余計にアキラを喜ばせるらしく、動く度に嬉しそうに頬ずりしている。ナディアには何が楽しいのか全く分からない。けれど大人しくしてくれるならまあいいかと、時折こうして都合よく使っていた。
「寝るわよ」
「はーい」
ナディアが横になる頃には、子供達は言わずもがな、リコットももうベッドに入っていた。部屋の明かりは全て消えて、静寂に包まれる。
「……ナディ、の」
「ん?」
その中にぽつり、弱いアキラの声と、それに応じるナディアの優しい声が落ちた。
「撫でてくれる手、気持ちい」
寝かし付ける為に、ナディアは今アキラの頭を緩く撫でていた。何か答えようかとナディアが微かに唇を開くと、何故か他の三人が口々に「分かる」と答え、思わずナディアは笑ってしまいそうになる。まだ全員が起きていたらしい。声を漏らして笑ってしまえば、眠りそうになっているアキラを起こしてしまうだろう。ぐっとそれを堪え、小さく囁くように「そう」とだけ返す。間もなくアキラは眠り落ちた。
どうやらみんな、ナディアが頭を撫でてくれる手付きが好きらしい。日常的に撫でてもらっているのはルーイだけだけれど、ナディアは他の子も時々撫でる。アキラが一番回数が少なく、このように寝かし付ける時、または熱を測る時くらいだ。
ただ、そんな希少な時間を、寝かし付けに弱いアキラは長く堪能することが出来ない。すっかりと熟睡しているアキラからゆっくりと手を放して、ナディアは上掛けをそっと引き上げた。
そうしてアキラが眠ってしまった後はナディアも安心して眠り就いていたのだけど。
ふと、深夜に再び目を覚ます。彼女の猫耳が、ふる、ふる、と震えた。何かが触れている気配がして、くすぐったい。そんな動きを見止めたのか、小さく「ごめん」と囁く声があった。アキラの声だった。起きているのだと気付くと同時にナディアは手を伸ばし、前にあるはずの体温を捕まえる。少し慌てたが、眠った時と変わらない位置でそれは止まっていた。
「何処にも行かないよ。眠って」
ナディアが腕を伸ばした意図を汲み取ったらしく、アキラが静かに囁く。
「……起きていたの」
「いや、さっき目が覚めただけ。すぐ寝るよ」
答えながらアキラはナディアを抱き返し、後頭部と、猫耳を柔らかく撫でる。
「耳、触っちゃってごめん。起こしたね」
「相変わらず、それが好きね」
正直のところナディアには、アキラが猫耳を触ったから起きたのかどうかは分からなかった。確かに目覚めてすぐに感じたのは耳への違和感だったものの、アキラは至極優しく耳先を撫でていただけだ。寝ている間どのようにしていたかは知らないが、あの程度で起きたのかはやや疑問に思う。
困惑しながら返したナディアの言葉に「うん」と応える声が静かで優しく、頭を撫でるついでのように猫耳の付け根を撫でている手が温かくて、ナディアはじわじわと眠気に襲われた。
それでもナディアは心地良くなってしまう感覚に抗いながら、アキラの胸の中で何度か目を瞬き、顔を上げた。
いつも通りの優しいアキラの声。だけどさっきから、少しも『笑っていない』と思ったのだ。いつもなら、顔を見なくても口元に笑みを浮かべながら話していることが分かるような声がするのに。しかし深く抱かれた位置では、顔を上げてもアキラの表情の全てを窺うことが出来なかった。
「……アキラ」
彼女が見下ろしてくれたら分かるのに。そう思ったナディアがアキラを呼んだ声は既に眠気に包まれていてあまりに弱々しく、半分以上、音になっていない。
「うん?」
それでも、アキラは彼女の呼び掛けにちゃんと気付いた。俯くように動いてナディアを見下ろしたから、望んだ通りに顔が見えるはずだった。ただ、夜目が利くとは言え、半分眠っている目ではいつものようには見えない。瞬きを繰り返しながら、ナディアがアキラの表情を見つめる。その時、緩くアキラの口元が弧を描いたのだけは、間違いなかった。
ナディアが呼ぶから笑みで応えたのか、目を凝らす彼女が愛らしかったのかは分からない。だけどナディアはアキラが微笑んだことにやや安堵した。形だけのものかもしれないと、分かっていても。
「眠れる……?」
「平気だよ、ナディが温かくて気持ちいいから」
問いには肯定が返ったが、ナディアは再び手を伸ばして、アキラの頭を再び緩く撫でる。するとアキラは小さく吐息を漏らして、笑った。
「また撫でてくれるの? 優しいね、ナディは」
何も応えず、黙って撫で続ける。数分でアキラが眠りに落ちていく気配がして、それを追うように、ナディアもすぐに眠り就いた。
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