第335話

 アキラがそれを閉じたことで、終わりだと伝わったのだろう。リコットは椅子を退け、少し慌てた様子でアキラとの距離を詰める。

「嘘吐き」

 眉を顰めて両手を伸ばし、アキラの手を手帳ごとぎゅっと握る。目で見て分かるだけアキラのその手は、握れば顕著に震えが伝わっていた。

「心配いらないって言ったじゃん」

「……大丈夫だと思ったんだよ」

 答える声は微かに笑っているのに、少しも平気そうな声ではなくて。誰が聞いても分かるほどにはっきりと端が震えて、掠れていた。

 項垂れるように一度頭を下げた後、アキラはやんわりとリコットの手から逃れ、手帳を机に置く。一歩、アキラが彼女から離れるようにして歩いた時。手帳を置いた動作はリコットから離れ、女の子達に背を向ける口実だったのかもしれないと彼女らは気付いた。だけど気を落としたような弱い背を見たら、何も言えなかった。

 いつの間にか部屋にはオレンジの光が入り込んでいる。日暮れが近いらしい。アキラは光に誘われるように窓の方へと歩いて、外を見た。建物の影に隠れようとしている『太陽』は、アキラの世界のものと同じ形をしている。月と違って、その違いを見付けることはアキラにも出来ない。

 沈黙の中に、誰かがその背に声を掛けようと微かに呼吸をした音が混じった。けれど同時にアキラの短い嘆息が聞こえて、口を閉ざしていた。

「……私も、あの世界に要らなかったのかな」

 小さな声だった。

 ぽつりと落とされたそれは誰かに向けられたというよりは、堪らず零れ落ちてしまったような、彼女らしくない弱い声。

「別に立派な人間じゃないし、特別な役割は無かったかもしれないけど。……そんなに、どうでもいい、人間だったかなぁ」

 言葉と共に零されたのは自嘲するような笑いだったのに。直後、彼女がぐっと歯を食いしばったような気配が続く。

「あの世界に、少しも」

 彼女は大きく身体を傾け、その場にしゃがみ込んだ。絞り出された声はくぐもって、聞き取りにくかった。

 悲しい思いをしても笑うから、「分かりにくい」人だとナディアはいつか不満を口にしていた。だけどそんなアキラだからこそ、みんなに分かる形で悲しむということがどれだけ耐え難い悲しみなのかと、その大きさが突き付けられるようで、女の子達はすぐに動くことができない。

 繰り返し不定期に震える喉も、吐息も、揺れる背中も、彼女の手の平から零れ落ちていく涙が床を濡らす音も。静かすぎる部屋の中に響いて、女の子達は息を呑んでいた。

 何か言いたいのに、女の子達はぐるぐると言葉を選ぶばかりで声が出ない。

 言えないのだ。

 だって彼女らは何も知らない。救世主召喚の仕組みも、アキラが生まれ育った世界のことも。

 アキラの有能さや、人としての優しさなら幾らでも知っている。そんなアキラが必要とされない世界などあるはずがないと思う。けれどそれを口にして、万が一でも『嘘』と出てしまったら? 前代が残した仮定、その悲しみだけで崩れているアキラに、更に強く確かな傷を残してしまうだけだ。

 何も言えなくなって立ち尽くしている女の子達の中で、ラターシャだけはアキラに駆け寄って、その背中をぎゅっと抱き締めた。掛けられる言葉を何も持っていなくても。ラターシャはアキラを一人きりで泣かせたくはなかった。震える身体に呼応するみたいに、ラターシャも涙を零していた。

 この世界でどれだけのものを与えられて、愛されたとしても。アキラが失ったものを埋めることは永遠に叶わない。何一つ、代わりにはならない。

 そんな状態で何故、重ねるように余計な傷を与えられなければならないのだろうか。

 誰を憎み、怒ればいいのか全く分からない行き場の無い気持ちを胸に、女の子達はただ、呆然としていた。


「……あぁ、泣きすぎた。はは、頭が痛いや」

 長く泣いた後、アキラが最初に口にした言葉はそれだった。アキラらしいと言うべきだろうか。ぐしぐしと袖で顔を拭いている様子に、ナディアが歩み寄ってタオルを差し出す。

「ありがと」

 受け取ったアキラはそれで顔を隠すようにしたままで「顔洗ってくる~」と洗面所に消えた。ラターシャもナディアから差し出されたタオルを受け取って、照れ臭そうに笑う。

「回復魔法って便利だね~。泣き腫らしてもへっちゃらだ」

 顔を洗って出てきたアキラは、いつも通り陽気な彼女だった。目や鼻に赤みは無い。一瞬の戸惑いを飲み込んだリコットが、彼女に笑みを返す。

「そういうのにも効くんだね」

「寝不足も隠せそう」

「それは逆に心配になるからやめて」

 二人の会話にみんなも気が抜けたように笑ったのだけど、ふとラターシャを見たアキラが、眉を下げて彼女に歩み寄る。

「ラタまで泣かなくて良かったのに」

 頭を撫でた後で、頬に触れ、アキラはラターシャの目尻にも小さく回復魔法を掛けてやっていた。彼女も少し目が赤くなってしまう程度には、泣いてしまったのだ。

「頭痛いの、あれじゃない、水分が足りなくなったんじゃない?」

「あー」

 リコットが差し出してくれる水を受け取ったアキラは、軽く笑いながらそれを飲む。まだ少し喉は震わせているし、鼻もぐずらせていた。余韻はもう少し残りそうだ。

「頭痛が治るまで、少し横になったら? 眠ってしまっても、夕食時には起こすわよ」

「さっき起きたばっかりなんだけどな。でもまあ、そうしよっかな」

 転寝から目覚めたばかりだった彼女だから眠れないかもしれないが、夕食時間まであと一時間と少しだけ。短く休息を取る意味では丁度いいと思ったのかもしれない。何にせよ、少しでも頭痛があるのであれば机に向かうべきではないだろう。

 大人しく自分のベッドに向かい、ころんと横になるアキラを見送った後。リコットがラターシャを振り返る。

「ラターシャは大丈夫? 横になる?」

「ううん、私は平気」

 彼女も答える声はまだ微かに涙声だったけれど。少なくとも頭痛などは無いらしい。しかし無言でルーイが水を渡していて、ラターシャはまた少し笑いながら受け取っていた。

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