第334話

 密着する部分が増えて、抱く力は強まって。リコットに放す気が無いことを理解したのか、アキラの手はただリコットの腕に添えられる形で止まっていた。

「アキラちゃん、内容を教えて」

 懇願するようなリコットの声。アキラは耳元に囁かれたその言葉を受け止めて、ひと呼吸を置く。そうして返ったのは至極静かな、優しい声だった。

「……みんなにとっても、楽しい話ではないよ」

「それでも知りたい。私達じゃ読めないから、お願い」

 部屋は再び静まり返る。ナディア達はテーブルで二人のやり取りをただ黙って聞き、成り行きを見守っている。止めに入らないということは、同意なのだろう。彼女らが本当に知りたいのはおそらく手帳の内容ではない。アキラが悲しんでいる、その詳細だ。彼女一人きりで悲しんでほしくない、願っているのはそれだけだった。

 しかし『一人きりで抱えたい』と願うアキラにそれを求めることは、酷なことなのかもしれない。静寂が続く中、リコットにも躊躇いはあった。けれどアキラは小さく息を吐いた後、「分かったよ」と優しく呟き、また一つ、リコットの腕をぽんと軽く叩いた。

 アキラは手帳を手に取って、強引ではない動きで立ち上がる。腕が解かれ、アキラが振り返った。

「リコ。もうそんな顔してて、本当に大丈夫?」

 そう言ったアキラが少し困ったように笑う。救世主の話を聞くのはこれからであるはずなのに、リコットはすっかりと眉を下げて、まるでもう傷付いてしまった『後』かのようだった。

「私が心配してるのは、アキラちゃんだから」

 この言葉も、やはり泣き出してしまうのかと思うほどに揺れていた。彼女の言葉に笑みを深めるようにしてアキラは目を細め、そっとその頭を撫でる。

 それから少し横に移動すると、アキラは椅子ではなく机の方に軽く腰掛けて、手帳を開いた。無人の椅子がリコットとアキラの間にあり、二人の距離を保つ。テーブルの方に居る三人がアキラの表情を窺うには丁度良かったのかもしれないが、今のアキラは温もりを求めていないと言っているようにも感じられ、リコットはその場で足を止めた。

「元の世界に居た頃から使っていたものみたいで、前半はメモとか手記だから要約でも良いかな、長いし」

 手帳に目を落としたまま、アキラが言う。視線が上がる様子が無かった為、女の子達は言葉にして了承を口々に伝えた。頷くアキラの表情は動かない。今、全員が彼女の些細な変化を見付けようと目を凝らして、耳を澄ませていた。

 しかし、あらゆる覚悟と緊張を抱いてアキラの言葉を待ったはずだったのに。第一声から女の子達は目を見開くことになった。

「この人に、もう家族は居なかった」

 数拍、誰も反応できなかった。言葉が部屋全体に沁み込み、ラターシャが「え?」と無防備に零した声が聞こえてから、戸惑いと驚きが広がる。この時おそらく全員が同じ画を思い浮かべていた。その一枚の写真を、アキラが手帳から引き抜く。

「この写真ね。ずっと前のものだったみたいだ。手帳に挟んで大事にしていたところを見ると、最後の家族写真だったんじゃないかな。二人共、こっちに来る亡くなってる」

 先程もアキラが言ったがこの手帳は日記ではなく、思ったことを思うままに綴ってある手記でしかない。日記のような言葉があっても日付は無く、ふと思い付いたことが書き出されているだけ。今アキラが述べた内容はそのような言葉の中から読み取れるものだった。

「理由は?」

 やや緊張を含む声で、ナディアが問う。アキラはちらりとナディアに視線を向けた後、右眉だけを軽く上げ、再び手帳の中に視線を落とした。

「詳しくは書かれていないけど、お子さんについては、病気か事故だと思う」

 曰く、手記の中には、子供を『守れなかった』という後悔の言葉が多いものの、自責の意味合いばかりで他者に対する怒りや憎しみらしいものが一切見られない。その為、事件によるものでは無い――とアキラは予想し、そう語った。

「旦那さんも同時期に、戦争で亡くなっているね」

「戦争……」

 女の子達は、意外そうな声を漏らした。アキラが時折語り聞かせてくれるアキラの世界は、魔物も居なければ争いの気配も無く、此方の世界からすれば夢物語と思えるほど、常に平和な印象だったからだろう。その戸惑いを汲み取って、アキラも微かに笑う。

「私が生まれるずっと前にあった戦争だよ。この人が飛ばされた頃には、もう終結してる」

 手帳の持ち主である救世主は、アキラの世界にとっても七十年ほど過去の人だ。それだけの時間があれば世界情勢くらいは変わるだろう。女の子達も納得した様子で軽く頷いた。

 そこで不意にアキラが手帳を捲っていく音が響いて、女の子達は沈黙する。アキラの表情と手帳を、注意深く見つめた。随分とページを先へ進めてから、ようやくアキラがその手を止め、口を開く。

「日記じゃないから、この世界へ飛ばされた頃の所感なんかは何も無い。ただ、これを封印する直前に書いただろう言葉がある。それだけ読めば良いかな?」

 それを除けば、この世界に関することはほとんど何も記載されていなかったのかもしれない。女の子達が了承を示したところで、またアキラは頷いた。

 その時、一瞬だけアキラはみんなの方を見て微笑んだ。浮かべたのは確かに笑みだったのに。そこに綴られている言葉こそ、アキラが理由なのだと女の子達は直感していた。


『この不思議な世界へと召喚されてから、もう二年が経ちました。

 当初は戸惑いと恐怖しか無かったけれど、今は、この美しい世界を守りたいと心から思っています。

 最早、生きる意味も失ってしまっていた私へと与えられた、唯一の役目だったのですから。

 あの人は、お国の為に戦い抜きました。きっと最期まで気高く、勇敢であったことでしょう。託されたはずの子を守れなかった不甲斐ない私とは違います。私はあの人へそれを伝え、謝罪することも出来ませんでした。あの子だって、小さな身体で苦痛に耐えながらも、最期まで生きることを諦めない、強い心を持っていたのに。誇るものが何も無いのは私だけ。

 だからこれは、天が授けて下さった情けなのでしょう。この役割を果たすことで私も、もしかしたら二人の場所へと行ける。私も頑張りましたと、言えるかもしれない。勿論、子を守れなかった謝罪が先でしょうが。何一つ誇れぬままでは、顔を見せることすら叶いません。

 元の世界で私はもう必要の無い人間でした。守るべきだった者も支えるべきだった者も失い、裁きのような死を待つだけ。けれどこの世界の人々は、私の力を必要としています。だから此方に呼ばれたのかもしれません。天で待つ二人に誇れるように、今度こそ、戦い抜きましょう』


 淡々と読み上げられた内容に、女の子達は言葉を失った。

 アキラが読み上げた言葉は、開いたページの右側、最後の行でぴたりと終わっている。左側に、まだほんの少しだけ続きの言葉があった。けれど彼女はそれを、静かに手帳を閉ざした。

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