第309話

 しかしそんな無用な苛立ちを胸に抱える私とは違い、リコットにとってはただの仕事でしかない。呆れているだけで、ちっとも気にしていないみたいだった。

「お客だからさ、もう娼館に来なきゃいいでしょ、とは言えないし」

「そりゃそうだ」

 そんな風に言ったことがバレたら、普通に考えるとオーナーとかに怒られちゃうよね。頻繁に通うことが二年も続く常連で、暴力を振るったり支払いを渋ったりはしていなかったみたいだし、店からすれば間違いなく良い客だったのだろう。

「日々、小さなことでも奥さんを褒めてあげた方が良いんじゃないかとか、こんな贈り物はどうかなとか。当たり障りのないことをね」

「偉いねぇ」

 何だかんだ、ちゃんと相談に乗ってあげるところがリコットらしい。

「次に来た時には、奥さんの反応とか報告されて」

「めんどくせえ~」

 つい本音が出ちゃった。でもリコットも頷きながら笑ってた。面倒くさいとは流石のリコットも思っていたんだね。

「でも二年くらい経ったらちょっと来ない期間があって」

 週に一度は必ず来ていた男が一か月も来なくなったそうだ。

 自分で不実に気付いたか、誰かに指摘されたか、単にお金が回らなくなったか、それとも奥さんにバレたか。来ていないと気付いた時にリコットは少しそんなことを考えたものの、あんまり気にしていなかったと言う。当時のリコットはもう客が多かったから、気付いたのも少し遅れてからだったんだって。しかし結局ひと月が過ぎる頃、そいつは再びやって来た。

「理由は何だったの?」

「奥さんにバレた」

「……嘘でしょ、なのにまた来たの」

「そう」

 再び来た時点で、その理由だけは無いと思ったのに。私が目を丸めているのに同意するように頷きながらも、リコットは可笑しそうに顔をくしゃくしゃにして笑う。

「それがさ、もう一回来た理由がめちゃくちゃ面白いんだよ。『妻から、娼館の娘に不誠実を謝って来いと言われた』」

 私は軽く声を上げて笑ってしまった。店内だと気付いてすぐに抑えるが、笑いが止められるわけじゃない。肩が大きく震える。

「じゃあ、その日は謝っただけ?」

「うん。正座してる男をベッドから見下ろしてるだけで、お金貰っちゃった」

「アハハ! 最高」

 結局、笑い声を上げてしまった。いやこれは面白すぎて無理だよ。娼館に、ほぼ土下座のような謝罪だけをしに訪れた男。みっともなさ過ぎる。

「奥さんも真面目っていうか、変にズレてるな~って感心しちゃった。何だかんだ、お似合いの夫婦だったのかも」

「確かに。そうかもね」

 私もこの話を聞いて「リコットに不誠実な奴だなぁ」とは思ったけど、謝りに行くのもどうなんだ。リコットとしては何もせずにお金を貰えて楽な仕事だったと言うので、まあ、良いのかもしれないけど。

「ルーイも言ってたけど、客に既婚者は多かったの?」

「多かったねぇ。でもまあ、いちいち『奥さん居るんですか?』とかは聞かないから、勝手な予想だけど」

「ああ、それもそうだね」

 ちょっとした会話の中で奥さんや子供が出てきたら、ああ既婚者なんだな、とか、子持ちなんだな、と思うんだって。

「既婚者と言えばさ――」

 この後もリコットは、娼館での面白話を幾つか聞かせてくれて、二人で過去にあれこれツッコミを入れながら、しっかり飲み食いした。

 その後、二人で休む宿はまた適当なところを押さえた。一晩寝るだけだから食堂の有無とか他のサービスは気にしなくていいけど、不潔な場所はダメだ。だから出来るだけ、外観がしっかりしている宿をいつも選ぶ。今回も部屋は清潔に整えられていた。まあでもあんまり信用していないのでベッドは必ず、浄化魔法を掛けるんだけどね。

「リコ、体調は?」

「大丈夫だよ」

 入浴を済ませてベッドに入りながら尋ねる。リコットはナディアよりもしっかりと量を飲むので、少し心配なのだ。でも言葉通り表情はけろっといつも通りで、タグも『本当』が出ていた。大丈夫そうかな。

 額と頬に口付けを落とし、彼女の顔色も体温も問題ないことをしっかりと確かめてから、覆い被さる。リコットは私の背に腕を回してくれた。

「ねえ、アキラちゃん、ナディ姉とは――」

「だめ」

 何かを言い掛けたリコットの唇に人差し指を当てて、言葉を留める。リコットは思わずと言った様子で言葉を止めて、目を何度か瞬いた。

「なに?」

「今、他の子の話は聞きたくないな。私はもうリコのことしか見えてないよ」

 私の言葉にリコットは目を丸め、先程よりも忙しなく目を瞬いた後で。すっとそれを細めた。笑ったような、呆れたような目だった。

「一度も呼び間違えないし、話題にもしないと思ったら。それ拘りなの?」

「ううん」

 元の世界でも、似たようなことを何度か言われた。他にも女の子は沢山居るのに、呼び間違えないんだねって。間違えるわけがない。腕の中に居る女の子はいつだって一人きりだ。

「拘らなくても、見えなくなるんだよ」

 自分の腕の中に居てくれる女の子のことが、私はいつだって堪らなく愛おしい。

「リコット」

 丁寧に、彼女の名前を呼んだ。

「私のことだけ見て。今だけで良いから」

「……それ、アキラちゃんが言うの」

 リコットが呆れた目で私を見上げることをまるで分からないとは言えないけれど。それでも私はずっと、元の世界に居た時から『こう』だった。

 自分のことを見てほしいと妬いてしまうのは私の方だ。今此処で抱き締めているのは私なんだから、他の子に目移りされたら悲しい。小さく息を吐いたリコットは、何処か悪戯っぽく笑う。

「まあ、アキラちゃん次第じゃない?」

 返された言葉に私も笑った。うーん、敵わないね。

「努力します」

 今この時だけは、リコットが他の何も考えられなくなるように。私の返答に目を細めた彼女が、背に回した腕に力を込めたことを再開の了承と受け止めて。改めてリコットへと深く覆い被さった。

 この夜のリコットはやけに甘えん坊で。何度も何度も擦り寄ってくれるから。まあ、何て言うかね。調子に乗っちゃって。うん。翌朝、盛大に寝坊しました。

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