第308話

 ゆっくりとテーブルに向かって項垂れていくリコット。その愛らしい頭を眺めながらワインを傾けて、私はふと「あ」と声を漏らす。

「これ、ナディに言わないでね? 次から教えてくれなくなっちゃう」

「二度と話題にされたくないから告げ口したいけど……本当だったらどうしたらいいか分かんないじゃん……」

 とうとうリコットが頭を抱えてしまった。可愛いねぇ。

 だけど立ち直りも早い。がばりと身体を起こしたリコットが、諸々の憂いを払おうとするように、赤ワインをぐっとあおる。

「ルーイとかラターシャの方は何か無いの?」

 あら。他の子の恥ずかしい話を聞きたがるなんて悪い子だねぇ。恥ずかしい話とは言われてないけどねぇ。しかし私も楽しくなってきちゃったから、ご要望にはお応えしましょう。

「ラタはねぇ、童話を読んでる最中に百面相してて可愛いって話、いつも細かく報告してくれるよ」

「分っかる! 私もアレ好き~。つい見ちゃうんだよねぇ」

「ふふ、ナディもそう言ってた」

 あの子が本を読んでる時はそっちが気になって自分の本に集中できないって、愛おしそうに目尻を下げていたなぁ。あの表情だけでワインボトルが十本は空けられちゃうね。勿論、ナディアが教えてくれるラターシャの様子も可愛いんだけどさ。

「ルーイの話も多いけど、語り始めると、濃いよ」

「濃い……?」

 どういう意味だ、という顔をされる。うん、ピンと来ない気持ちは分かるんだけどね、私も他に言いようが無かった。

「時々、ナディが髪やってあげてるでしょ」

「うん」

 ルーイは毎日色んな髪型をしていて、普段は自分で綺麗にセットしている。けど時々ナディアがちょっと凝った可愛い髪型にしてあげることもあって、その光景がまた微笑ましくて幸せなんだ。そして後日、その時の気持ちをナディアが聞かせてくれるんだけど。

「やや斜め後ろから見える頬のラインの可愛さについてしみじみと語られる」

「濃っ……いけど、分かる、から何とも言えないなぁ!」

「ふふ。私も分かる。あれは確かにもう美術品の域だよねぇ」

「って相槌してるアキラちゃんまで想像できる」

 ええ。そう相槌しましたとも。だって事実、ルーイの肌の透明感はすごいんだよ。あれは神が創りたもうた最高傑作だと思う。しみじみ。でもこの発言を私がするんじゃなくてナディアが語るのは面白くて可愛いでしょ? そう言うとリコットは笑いながら深く頷いていた。

「あと、料理やそのレシピについてはよく話すよ。最終的にはこれも『みんなの話』って言えるかな。どの料理を誰が気に入っていたとか、こういうアレンジもみんな喜ぶかも~みたいな」

「……ナディ姉ってなんか、徹底してるというか、心配になる」

「それだけ君達が愛おしいんだよ」

「分かってるけどさー」

 心配と思うことをまるで理解できないとは言わないけどね。彼女の思考はほとんど彼女自身に向かない。唯一、そうだ、本の趣味だけは彼女個人のものかも。

「偶に、読んでる本の感想も言い合うね」

「確かにそれは私らの前では出来ないやつだねぇ」

 怪奇やホラー小説は、他の子らが大の苦手で私以外は誰も聞いてあげられない。つまり語る相手が他に居ないから、ナディアも渋々私を相手に選ぶのである。渋々とか自分で言ってて悲しいな。喜んでくれていることにしよう。

「私やナディだって内容が怖くないわけじゃないんだよ? 怖いから面白いわけだし」

「後半がまるで分かんない。痛いのが好きって言われてる気がする」

「あー」

 言われてみれば、部類としては同じなのかも。ゾクッとするのが快感なので。言うほどに引かれそうだからこの話はこの辺にしておこうかな。それに、これは私の感覚であって、ナディアも同じかどうかは聞いていないから分からない。

 そうして話す間も、お酒は進んでいく。私は当然、食事も進んでいく。

 さくさく飲んで食べる私達に、店員はやや引いているけれど。教育の行き届いた高めのお店なので極力、顔や態度に出さないようにしてくれているらしい。追加注文をしても衝撃を飲み込んで粛々と持ってきてくれる。

「今日はよく飲むね? 平気?」

「平気です~。こんなもんじゃない?」

 もしかしてこの子は赤ワインと相性が良いのかしら。それにまあ、カクテルのちゃんぽんは、普通に酔いやすいからね。でもしばらく飲み進め、グラス六杯を飲み干して七杯目に入ったところで、リコットはやや饒舌に変わった。

「それでさ、私のところにめちゃくちゃ通うくせに、そいつ奥さんのこと大好きなの」

 二人きりになると時々リコットは娼館で働いていた頃の面白い話を聞かせてくれる。望まず身体を売るのは本当に辛かったろうし、その中で唯一の支えだったお姉さんも亡くしていて、思い出したくないことも数え切れないほどあるはずだ。だけどリコットはその中からひと握りの、『笑ってしまえる』思い出を口にする。きっとそれが彼女の、『痛みの誤魔化し方』なんだろう。

 過去の消化の仕方なんて、人それぞれだ。上書きして忘れる人も、押し込めて忘れる人も居れば、リコットのようにわざわざ振り返って、一部を笑い話にしてしまって乗り越える人も居る。

「いっつも奥さんのことばっかり喋ってて、その癖やることはやるし、挙句、終わった後に『どうやったら妻はもっと俺のことを好きになってくれるんだろう』だって。そもそも娼館通いを止めろって話じゃん?」

「しょうもない奴だねぇ。通いは長かったの?」

「長かったよ~。二年くらい私のとこに通ってたんじゃないかなぁ」

 それは、長いかもしれないな。妻に愛されたいと言うくせに娼館通いをしているって矛盾と不実を、気付かないのが二年も続くのはすごい。いやまあ、私も妻を持ったところで娼館には通うだろうが、それならそれでちゃんと娼館の女の子も愛しますよ。しかしリコットが話すにその男は行為の最中もずっと奥さんの名前しか呼ばないらしいので、正直、ばかだなと思った。奥さんは勿論、リコットにだって失礼だろうが。お金を払って相手をしてもらうからって、礼儀を忘れてはいけません。私はリコットの過去の客に無駄に腹を立てていた。

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