第288話_祈る意味
「ナディ姉は」
部屋が静かになってしばらくしてから、不意にリコットが話し掛ける。ナディアは声に応じて顔を上げて、首を傾けた。
「どうして、救世主様のお祈りとか、今まで隠してたの?」
娼館に居た頃、彼女らの間には接点が無かった。とは言え、顔を合わせることは何度もあったし、食事のタイミングが揃うこともあった。そしてリコットとルーイ同様、ナディアも娼館内では目立っていた子だ。彼女が食事前に祈りを捧げるようなことがあれば、必ず一度くらいは目に止まっていたはず。しかしそれが無かったというのはもしかしたら、ナディアが敢えて『隠していた』のではないかと、リコットは考えていた。
「……隠していた、と言うほどのことではないけれど」
慎重に問い掛けたリコットに、ナディアは少し回答を悩んだ様子でまた首を傾ける。
「娼館に居た頃はまだ、心の中では続けていたわ」
心の中では。
つまりナディアはリコットの予想通り、娼館では周りに分かる形で祈りを捧げていなかったのだ。
「正直、自分でもそれを少し『愚かなこと』だと思っていたの」
そう語るナディアは何処か遠くを見つめて、当時を思い出すように目を細める。その瞳には、何の感情も宿っていなかった。空虚。ただそれだけがあった。
「世界が幾ら平和でも、私はどれだけ幸福なのかしら。この世界の全部が魔物に壊されてしまったとして、私はそれを不幸と思うかしら。だったら何の為に祈るのかしらって」
自らが救われる未来など、当時のナディアには少しも考えられなかった。身請けにより娼館から解放される未来はあったかもしれない。けれどそれは自らを『支配する人間』が変わるだけであって、自由ではない。大体、高級娼館ではなくわざわざ下級の店を選んで身請けするなんて、半端な金持ちか、『使い捨て』が欲しい大金持ち。どう転んでも、ろくなものではない。望み薄も良いところだ。
娼婦として売り物にならない年齢になれば、今度は別の手段で身を削って働くだけ。娼館に自ら入った者ならばともかく、『売られた』者が自由になるというのは極々稀なことだった。
ましてあの麻薬組織のような場所がその身請けをしたのだから。用済みになってしまえば自由になるどころか、おそらくは口封じに殺されるだけ。『世界の』平和のことなどどうでもよくなるにつれて、ナディアは祈りを忘れていった。誰の為に、何の為に祈るのかが分からなくなり、祈っている暇があればリコットやルーイを此処から逃がす方法を探るべきだと考えるようになった。いっそ大きな戦争でもあれば混乱に乗じて逃げることも出来るかもしれないなどと何度も考えていた彼女にとって、平和の象徴である『救世主様の祈り』は、日に日に、無用のものとなったのだ。
「それだけよ」
淡々と語ったナディアに、リコットは酷く申し訳なさそうに眉を下げ、俯く。
「……変なこと聞いて、ごめん」
ぽつりと呟かれる謝罪に、ナディアは目尻を下げて優しい笑みを浮かべた。その瞳にはもう空虚など何も無く。ただただ深い愛情を宿すだけだった。
「おかしなことよね」
返された静かな呟きは、言葉通りに笑いを含む。リコットは顔を上げて、笑みを浮かべていたナディアに首を傾けた。
「祈りを忘れて平和を呪うようになっていた私が、当代の救世主様に救われた、なんてね」
「あー、確かに? でもアキラちゃんが起きてたら、自分は救世主じゃないって言いそうだね」
「そうね」
ナディアはまた少し笑い、肩を竦める。そしてちらりと、横になったままのアキラへと目をやった。
「でも私達を救った人間であることには、変わりないわ」
「うん」
また少しの沈黙が落ちた後、アキラから視線を外したナディアが軽く天井を仰ぐ。
「救世主様への祈りなんて、本当に何の意味も無かったのね」
「身も蓋も無いこと言うじゃん」
リコットは大きな声で笑い出しそうになって、慌てて口元を押さえてそれを封じ込めた。アキラがまだ眠っているのだ。起こしてはいけない。そう思って肩を震わせるだけで我慢をしたのに。部屋の中に、くすくすと笑い声が転がった。
「……起きていたの?」
「今さっきね」
笑い声はアキラのものだった。『今さっき』がどのタイミングを示すのかは知らないが。アキラは寝転がったままで少し手足を伸ばしてから起き上がり、乱れた髪を結い直す。
「別に、祈ってもいいと思うよ。何も叶えてはくれないだろうけど、彼らがこの世界の為に戦った人達であることは変わらないでしょ」
髪を丁寧に櫛で梳いて、結い上げていく。その動作の中で淡々と呟かれたそれは独り言のようで、二人は一瞬、反応が遅れた。ゆっくりと、アキラの言葉を胸の内で反芻していた。
「私には、ただの死者だから。『どうか安らかに』って、それだけ。この世界の人達なら、まあ、『ありがとう』とか?」
「……そう、そうよね。彼らは過去の人なのだから、過去に対して、私達はお礼を言えば良かったのね」
未来の為に、何かを与えてくれと願うのではなくて。ナディアはようやく腑に落ちたかのように、何度も頷いていた。アキラという存在を知り、今までの救世主様に対する認識を何処か申し訳なく思っていた彼女にとって。この回答は少し心が楽になるものだったのかもしれない。
「ところでアキラちゃん、体調は平気?」
「何とも~。でもよく寝たっぽい。本当に疲れてたのかもねー、リコはすごいねぇ」
ベッドから立ち上がりながら、アキラがそう言って笑う。よく寝たと言っても、二時間も経っていない。しかし確かに顔色はもう良さそうだった。
「うーん、元気だから明日は魔物狩りでも行こうかな?」
魔物に関する本を読み、事実を確認するのに実際に会いに行きたいらしい。
「いや、元気になり過ぎでしょ」
リコットの指摘に、アキラが楽しそうに笑う。その笑顔にはもう先程のような憂いの色など、僅かにも残っていなかった。
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