第287話

「何の本?」

「これ? 魔物の本だよ」

「ふーん?」

 相槌しながら、リコットがアキラの手元の本を覗き込む。そこには難しいことが小さい文字でびっしり書かれていた。リコットが読んでも全く楽しくなさそうな内容で、「うぇー」と言って顔を顰める。アキラは笑った。

 その一方でリコットは、アキラが読んでいた本の内容を少し意外と思っていた。

 大聖堂で様子がおかしくなった直後にアキラが本屋に行きたいと言ったことから、救世主に関する本かもしれないと予想していたのだ。もしかしたら今はただ収納空間に仕舞い込んでいるだけで、そのような本も購入してはいるのかもしれないけれど。

 本の記載内容ばかりを慎重に確認していたリコットは、そこでようやく視線を上げてアキラの横顔を見つめた。この場所は少し影となっていて、気付くのが遅れた。リコットが眉を寄せる。

「アキラちゃん」

「ん?」

「なんか顔色、悪くない?」

 ぐっと距離を詰め、リコットはアキラを間近で見つめる。明らかに、普段よりもその色は青白かった。頬に触れてみればいつもよりもやや冷たく感じる。

「もう宿に戻ろうよ、体調悪いんじゃないの」

「そうかな、分かんないけど……」

 眉を下げて笑う顔も、やはり力が無い。言葉を選んで少しリコットが黙ると、ゆっくりと傾いたアキラが、リコットの肩に頭を埋めた。

「……アキラちゃん?」

「ううん」

 距離が近すぎて、もうアキラの顔色が分からない。でも冷たいと思ったアキラの身体はちゃんと温かくて、触れ合う部分には確かな温もりが宿っていた。

「リコが優しいから、甘えてみただけ」

 穏やかに囁く声。少し安堵したのはリコットの方だった。凭れ掛かる重さに微笑んで、普段は自分より少し高くにある頭をゆっくりと撫でる。もう、アキラの手にあったはずの本は消えていた。いつの間にか収納空間へと入れたらしい。

「――こんなところで何をしてるのよ」

 ややすると、扉の開閉音と同時に、呆れた声が掛かる。ナディアを先頭に、三人が揃って店から出てきた。アキラが身体を起こす。声に応じてナディアを振り返っていたリコットは、離れた温もりを追うように再びアキラを振り返った。その視線の先で、彼女はおおよそいつも通りに柔らかく笑っているけれど。

「みんなも買い物は終わり?」

「ええ」

「じゃあ、宿に戻ろうか。……ああ、いや。他に何処か行きたいところがある人は別行動でも良いけど、私は戻るよ」

 アキラが立ち上がるのに合わせて、リコットも立ち上がる。アキラの表情はよく見えない。彼女は立ち位置と顔の向きで、それをさり気なく隠しているように見えた。

「私は一緒に帰る。アキラちゃんの具合が気になるし」

「具合?」

 はっきりと話題を向けられれば顔を背け続けることも出来ないのか、軽く振り返ったアキラが困ったように笑う。

「少し、アキラちゃんの顔色が悪くて」

「だから凭れて休んでいたの?」

「そういうわけじゃないよ。……もう戻ろう」

 誤魔化すようにアキラが言うと、ナディアは不満気に眉を寄せ、詰め寄るように彼女へと近付く。

「アキラ」

「ナディ姉」

 しかし食い下がろうとしたナディアを、リコットが間に入って制止した。

「後で良いじゃん。もう戻って、休ませてあげようよ」

 問い詰めたい気持ちはリコットにもあったけれど。つい先程、顔色が悪い状態を確かに見てしまっただけに、アキラの体調を優先したかったのだ。ナディアの視線がちらりとアキラに向く。二人が自分の話題で対峙しているのも知っているはずなのに、彼女は二人を見ていなかった。唇を噛み締め、ナディアは息を吐いた。

「……そうね。ごめんなさい。一度みんなで戻りましょうか」

 彼女の言葉にラターシャとルーイも頷いたから、全員で宿へと戻った。

 ところが宿に着くと、具合を心配されていたアキラはいつも通りに机の方へと座った。製図をするつもりか、もしくは先程の読書の続きをするつもりか。リコットがそっと傍に立つ。

「具合は? 休んだ方が良いよ」

「……平気なんだけどな」

 そうは言うけれど、振り返って微笑むアキラはやっぱりいつもと違って、何処か元気が無い。掛けるべき言葉を考えてリコットがまた少し黙る。それを見て、アキラは眉を下げた。

「でもリコが不安そうにするから、休もうかな」

「うん。お願い」

 改めてリコットが願えば、アキラは軽く頷いた。そして机に広げている図面らをそのままに、大人しくベッドに移動する。服は上着を脱いで少し着崩した程度で、着替えまではしないようだ。そのまま、シーツの上から寝転がっていた。布団の中にも入らないらしい。身体を丸めたアキラに、リコットは毛布だけを掛けてやった。

 実際にアキラの具合は悪かったのか、または疲れていたのかなど、定かではない。しかし一時間ほど経った頃にはもう彼女は寝息を立てていた。

「さっきはどうしたの?」

「分かんない、私が見に行った時にはもう、ちょっと顔が青くて」

 みんなの視線がアキラに集まる。アキラはしっかり布団に入って眠るとき以外、髪を下ろさない。今も横向きに丸くなっているアキラの後頭部で、一つに結ばれたままだ。「何の拘り?」と一度リコットが聞いた時には回答をはぐらかしていた。以来、誰も聞いていない。アキラに対し、かつての世界のことや彼女の過去を問うことは、やや気を遣う為に難しい。悪い意味でなければいいと各々祈っているだけだ。

「とりあえず、出掛けたい人は行ってもいいけど、まだ慣れない街だから二人以上でね」

 長女らしくナディアがそう言うと、リコットは軽く首を振ってから先程買ったばかりの雑誌を開いた。

「私は部屋で過ごすよ」

 本音ではアキラがまだ心配なだけだろうけれど。そんな彼女を横目に、ラターシャとルーイが顔を見合わせた。

「どうしよっか、ルーイ」

「うーん」

 結局二人は少し相談してから、外へ遊びに行った。子供二人だが、特に心配は無いだろう。そもそもルーイはローランベルでも一人で歩き回って食糧などの買い出しもしていた為、危ない雰囲気の場所はちゃんと察知できる子だ。ラターシャも世間知らずとは言え元々の性格が臆病で慎重なので、滅多なことは無い。

 そしてナディアも、部屋に残るつもりなのだろう。「二人以上で」と言い出した本人が一人で出掛けるとも思えない。リコットが雑誌から視線を上げた時には、同じく本屋で買ってきたらしい新しい本を開いていた。

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