第241話

「いただきまーす」

「リコット」

 何か言うんだと思ったんだけど、普通に食事を始めるというのは予想外。呆れたみたいなナディアの声が続いた。

「えー、だって私は怒ってないし。パスで。怒ってるならナディ姉が仕切るべきだと思います! うわ、このサンドイッチ美味しいよー」

 発言が面白すぎるんだけど。私は立場上、絶対に笑っちゃいけないのですごい試練だった。微かに震えた肩が誰にも見付かっていないと良いなぁ。

「うーん。私も怒ってないから、頂きます」

 そしてリコットに続いたのがルーイであるのも更に面白い。普段はナディアに合わせる意図で黙って彼女に付き合うことが多いのに。頭を下げたままでも、残されたラターシャがおろおろしている気配を感じる。

「えぇっと、私も怒ってはいないんだけど、うーん……」

 案の定、動揺していた。そわそわと動くラターシャの足が視界の端に入り込む。言葉を選ぶラターシャが何も言えないでいると、ナディアが仕切り直すように小さく咳払いをした。

「私が怒っているのは」

 ラターシャを待たずに説教が始まるらしい。判断としては正しいだろう。ラターシャがこの状況で「じゃあ私も頂きます」とナディアを置き去りにはしないだろうから。

 怒りを抑えようとしたのか抑え切れずに漏れたのかは分からないけれど、言葉を続ける前にナディアは一度短く息を吐く。

「一番は、あなたがラターシャを泣かせたことよ」

 その言葉で一気に昨日のラターシャの泣き顔や震えた声が思い起こされて、息が詰まった。

「ナディア、だから、私は別に」

「この子は優しいからこう言うけれど。あなたはこの子の保護者でしょう? もっとちゃんと見て、考えてあげて」

 本当に仰る通りです。ケイトラントにも言われたし、弁明の余地はまるで無い。あれは完全に私の落ち度だ。頭を下げたまま短く「はい」と言う。

「二番目は」

 あ、続くんだね。そう思ったのを顔にも態度にも出してはいけない。不満が一つであるわけがない。それくらい私は振り回したんだから、不満はありません。ちょっと面白かっただけ。でも既に朝食を進めているリコットがくすっと笑ったのが聞こえた。多分ナディアには即座に睨まれているだろう。

「みんなに心配を掛けたこと。食べない飲まない眠らないなんて。子供じゃないんだから、自分の健康管理くらいちゃんとして。この子達が心配性だってことも知っているでしょう」

「はい、ごめんなさい」

 結局ナディアが怒る理由は全部『みんな』のことであって自分のことじゃない。そういうところも大好きなんだけど、自分の為にも、もっと怒ってくれたって良いのに。深夜に目覚めた時にも思ったけれど、私はナディアにも大変な負担を掛けてしまったんだから。

 その時、不意に私達の方へ、ザクザクと足音が近付いてきた。

 音に応じて顔を上げたら、視界の端でみんなも音の方に顔を向けたのが見える。やってきたのはケイトラントだった。

「良妻は恐妻だな、まあその方が家庭は安定すると聞くが」

「ケイトラント、おはよう」

「ああ、おはよう」

 私の傍でナディアがぎゅっと眉を寄せた。昨日みたいに妻ではありませんって言うかなって思ったけど、もうケイトラントにこのネタで揶揄われているのは気付いているらしい。口を噤んでいる。

「サンドイッチ食べる? 門番お疲れ様」

「良いのか? なら一つ」

 私が差し出したお皿から、お肉が挟まっているサンドイッチを一つケイトラントが手に取って、かぶり付く。一口が大きくて豪快で、美味しそうに食べるなぁ。そして咀嚼後すぐにパチパチと瞬く目がちょっと可愛い。

「驚いた、めちゃくちゃ旨いな」

「良かった。私の自信作だよ」

 ケイトラントの口にも合うのは嬉しいね。また機会があったら差し入れに作ろうっと。

「もう休むの?」

「普段ならな。今日はお前らを見送った後にする」

「あはは、ありがとう。朝食が終わったら、退散するよ」

 私の言葉にケイトラントは頷いてから、もう一口でぺろりとサンドイッチを平らげた。

「モニカさんがお前に伝えたいことがあると言っていた。声を掛けてくるから、食事を終えても少し待っていてくれ」

「そうなの? 分かった。のんびり待ってるから急がなくて良いって伝えてね」

「ああ」

 何の用だろう。昨日までのやり取りで心当たりは特に無いものの、今回の騒動を受けて何か欲しい資材でも出てきて、依頼があるのかもしれない。いずれにせよ私達も移動を急いでいるわけではないから、全く問題ない。ケイトラントはサンドイッチの礼を簡単に告げてから、私達の傍を離れて行く。

 ところでナディアはケイトラントに話の腰を折られた形になってしまった。視線を向ければ、軽く項垂れている。私は頭を上げてしまっているのだけど、もう一回下げ直した方が良いだろうか。迷っていると、ナディアがまた溜息を吐いた。もしかして溜息が多いのは呆れているんじゃなくて疲れているのか。それを表すように、続けられた言葉は酷く弱かった。

「とりあえず私が言いたいのはそれだけ。ラターシャのことは曖昧にしないで、ちゃんと、この子と話して」

「えっ」

 戸惑った声で応じたのはラターシャだ。ナディアは彼女へと向き直り、何処か心配そうな顔で、ラターシャの肩を撫でる。

「私は、流してしまわない方が良いと思っているわ。ラターシャが嫌なら、無理にとは言わないけれど」

「嫌ってつもりじゃ、ないけど……」

 困惑しているラターシャの頭を撫でたナディアは、もう自分の用件は終わりと言わんばかりに、誰にともなく「頂きます」と言って朝食を始めた。最後の一人にされてしまったラターシャは少し視線を彷徨わせてから、「ううん」と可愛く唸る。

「やっぱり私もあんまり怒ってなくて、今は少し、ホッとしてる」

 私は真っ直ぐにラターシャを見つめる。彼女は困った顔をしていたけれど、口元は柔らかく微笑んでいた。

「だけど、ナディアが言うみたいに、話した方が良いってことも……うん、分かる」

 少し下を向いて、言葉を選んでいる。だけど次に視線を上げて私を見ても、ラターシャが浮かべたのは笑みだった。

「今じゃなくて、夜にまたゆっくりお話ししてもらっていい? まだ上手く話せないから」

「勿論。私も、そうだね、ラタには改めてゆっくり謝らなきゃいけないと思う」

 私がこの子を泣かせてしまった。ケイトラントに怒られて、ごめんとは謝ったけど、私がラターシャにしてしまったことは、一言で済むようなことじゃない。改めて今夜、二人でゆっくり話そうと約束をして。私とラターシャも朝食を取るべくテーブルに向かう。

 そうして食べ始めて十分足らずで、ケイトラントがモニカを連れて戻って来た。

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