第238話

 目を開けたら、逆光で表情はよく見えなかった。でもピンと張った猫耳がシルエットでも愛らしくて、クリーム色の長い髪が重力に従ってふわふわと落ちてくる。

「……ナディ?」

「あなたね。お風呂では寝ないで。溺れるわよ」

「ごめん」

 ナディアさん、怒ってました。眠ってはいなかったんだけど。わざわざ中まで声を掛けに来たってことは、きっと衝立越しに何度か呼んでくれたのに気付けなかったんだろう。振り返ったら衝立の傍からリコットが顔を出した。ラターシャとルーイの影も、うろうろしている。

 本当にごめん。上せていないのかを何度も確認されつつ、自分でちゃんと立ち上がる。呼びには来てくれたのに立ち上がったら背を向けられてしまった。女の子達が私の裸を頑なに見ないのは何故なんだ。身体を拭きながら、傍で揺れてる尻尾を指先で突く。すぐに睨まれた。

「なに」

「可愛くて……」

 素直に理由を述べたのに、眉を寄せたナディアに即座に尻尾を奪い取られてしまった。でもナディアの身体に尻尾が巻き付く様子もとても可愛いです。

「大丈夫なら私は戻るから。もう食事は用意できているわ」

「はーい」

 ちゃんと服を着て髪を乾かし整えて、衝立を出たら、何故か逆に入ろうとするラターシャの姿。ラターシャもこれから入るのかな。お湯を抜いてしまった。改めて入れた方が良いかを聞こうと足を止めれば、同時にラターシャも驚いた様子で私を振り返った。

「……片付けたの? やろうと思ったのに」

「え、あぁ、うん」

 自分の身支度のついでに癖で全部やっちゃった。そう言うとラターシャが項垂れる。何かごめん。でも代わりにやってくれようとしたんだね。ありがとうね。撫でようね。

「もー、撫でるのも良いから。早くご飯食べて」

「はい」

 テーブルまで腕を引かれる。流石にテーブルの位置くらいは分かるんですが。要介護状態である。

 なんて、冗談で思っていたことだったんだけど。食事の間、私は何度も食べ物を零した。みんなが見張ってくれているお陰で全てをひっくり返すほどの真似はしていないものの、器を傾け過ぎてスープが少し漏れたり、口に入れようとした野菜が一つ落ちて転がったりという状態。作ってくれたのに勿体ない。本当にごめんなさい。そしてこんな失敗をするのは記憶している限り初めてでめちゃくちゃ恥ずかしい。

「アキラちゃん、本当に大丈夫?」

 心配をしたラターシャが口元まで拭いてくれようとするのを、丁重にお断りした。それは自分でやります。出来ます。

「大丈夫なんだけど、なんか、瞬きすると視界がちょっとぶれる……」

「あー。それで持ってるものを落としちゃうんだね」

 着替えたばかりの服が汚れなかったのは幸いだが、見兼ねたナディアがナプキン代わりにタオルを私の首元に巻き付け、膝にも一枚置いた。これはかなり辛い。でもこれだけやらかしちゃったら仕方がない。

 そんなこんなで、思った以上に大変だった食事を、いつになく時間を掛けて終わらせる。最後まで服を汚すことは無かったので、歯を磨いたらすぐにベッドに入ります。

「どっかで起こす?」

 シーツに包まった私を見下ろしながら、リコットが私の髪を撫でた。みんなは食事の後片付けをしてくれているらしい。リコットは寝かし付け係なのかな。

「んー、丸一日経っても起きなかったら?」

「いやそれは普通に怖いよ。……でもまあ、分かったよ。好きなだけ眠って」

 確かに二十四時間ずっと起きてこない人間が居たら怖いよね。でも正直それくらい眠れそうな気がするほどに眠い。苦笑をしながら、リコットは優しく肩を撫でてくれた。

 本当の意味で『眠れる』のかは分からない。さっき木風呂で心配させてしまったみたいに、記憶や知恵に意識が吸い取られる状態になるだけかもしれないけど。とにかく今はそれ以外の全てをシャットアウトしてしまいたかった。身体から力を抜いて、傍にあるリコットの気配が薄くなる。ゆっくりと息を吐き出して目を閉じたところで。今、自分が何処に居るのかという認識すら消えて行った。


* * *


「――眠った?」

 テントから出てきたリコットを振り返り、ナディアが問い掛ける。リコットは笑って軽く頷いた。

「しばらく難しい顔して丸まってたけどね、今はスヤスヤ寝てるよ」

 彼女の言葉にラターシャとルーイもホッとした顔で笑う。リコットが寝かし付ける為にテントに入ってから、もう小一時間が過ぎていた。つまりアキラがなかなか眠り就かなかったのだ。本人の意識はもうエルフの知恵の中で、リコットの存在すら認識できていなかったようだけれど。

「それで、ラターシャ、今日のアキラの話に足りないところは無かったかしら?」

 リコットもテーブルに着いて四人が揃ったところで、ナディアが切り出した。彼女らはいつもこうしてアキラの見張りの結果の報告会をしていた。

「必要なことは、話してたと思うよ」

 柔らかくそう答えるラターシャは軽く肩を竦め、報告不足は無かったと告げる。だがアキラがあの場で語らなかった出来事もある。ラターシャは少し考えた後で、結局、起こった順に、全て彼女達に打ち明けた。

「……昨日は、うーん、葛藤してたのかなぁ」

 聞き終えて沈黙してしまった女の子達の中で、やはり最初に言葉を発するのはリコットだった。エルフらの前でアキラがピリピリとしていた理由については理解が出来る。だがそれは、昨日から今朝に至るまでの、女の子達に対してすら冷たかった態度の説明にはならない。

「ナディアお姉ちゃんは、どう思う?」

 難しい顔で沈黙を続けていたナディアに、ルーイが問う。ナディアは彼女に対して柔らかな視線で応えてから「そうね」と言葉を選んだ。

「悲しかったのかもしれない、とも、思うけれど」

「かなしい?」

「ええ、自分がラターシャを傷付けてしまったことが」

 ラターシャにその発想は無かったのか、続いた言葉に目を見張っていた。そして、眉を下げる。もしもそれが理由でアキラが塞ぎ込んでいたなら、ラターシャにとっても悲しいことだと感じたのだろう。

「私は別に、アキラちゃんに傷付けられたりは……」

「でも『自分が泣かせちゃった』とは、思ってると思うよー」

「あの人が泣かせたのは事実でしょう」

「ナディア……」

 昨日、酷く泣いてしまったラターシャについては、ナディアは少しもアキラを許していない。この子があんなにも泣いてしまう前に、保護者として出来ることは幾通りもあったはずだと思っていた。

「やったことを悔やんでたか、選ぶべきことを迷ってたか。……少しでも話してくれると良いねぇ」

 色んな負担を抱え込んだ彼女は今、休息を取っている。目覚めれば、話を――もとい、謝罪をすると本人は言った。その中に。昨日の彼女についての説明は入るのだろうか。いまいち期待が出来ないと思う彼女らは、顔を見合わせて少し苦笑していた。

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