第234話

 契約の書の魔法陣は、魔力を籠めるほどに下書きの線がじわじわと赤く染まっていき、全てが染まったところで完成するそうだ。一つの魔法石を使ったヒルトラウトが「十個足らず」と言った予想通り、それは九つ目の魔法石を使ったところで完成した。

「アキラちゃんは一日で九個の魔法石、作れるよね……」

「他に何もしなかったら、作れるねぇ」

 それが、この里のエルフらが三か月掛けて籠める魔力に匹敵することになる。彼女らの会話を聞きながら、部屋は静まり返った。そんな人を「怒髪天を衝く」と言うまで怒らせたということが、ただただ恐ろしくなるだけだ。

「アキラちゃんってどれくらいの魔力があるのかな……数値化できたりするの?」

「うん、できるよ。ウェンカイン王城で見た宮廷魔術師の中で一番魔力があった人で六千くらい。私は百万を超える」

 雑談が出来る程度にはラターシャもこの場に慣れてきたようだ。アキラの空気が緩んでいることにも起因するのだろうけれど。しかし今の回答にそんな彼女も静止して黙り込む。そして数秒後、衝撃を飲み込んでゆっくりと一つ頷いた。

「……数値化されてもピンと来ないことだけは分かった」

「正確には、一〇六万と少しかな」

「端数で十倍あるんだね」

 ラターシャはアキラの突飛さにもう、慣れてはいるのだ。衝撃がゼロにならなかっただけで。今も受け止め切れているとは言い難いだろうが、真剣に考えることは放棄したらしい。

「長く生きているエルフは少し魔力が高いと思いますが、この部屋に居る者であれば、どうなのでしょう……あ、いいえ、確認にご負担がなければ」

 思わずと言った様子でヒルトラウトが問う。つい先程までのピリピリしていたアキラならば当然このような問いを向けることすら難しかったことだろう。だが今のアキラはすっかりとリラックスした様子を見せ、お茶を傾けている。彼女が付け足した懸念にも「平気」と軽く返していた。

「うーん……魔力が一番高いのは、あなたかな」

 アキラはヒルトラウトの背後に立っている魔術師らしい格好をした男性を指し示す。昨日もヒルトラウトの傍に付いていた男性の内の一人だ。やはり服装から察していた通り、この里で最も優れた魔術師らしい。見た目も六十代ほどに見える為、ヒルトラウトの言う通り「長く生きている」はずだ。

「八千を少し超える。今まで見た中でもダントツ高いねぇ」

 感心したようにアキラがそう言うけれど、それでも一万にすら全く届いていない。一層、部屋に居るエルフらが青くなっている。彼の魔術師としての実力ならば嫌と言うほど知っているからこそ、アキラという圧倒的な存在を改めて確認させられた形になる。

 だが、実際のアキラはこの一〇六万という並外れた魔力を一息に扱える魔力回路を持たない為、数値ほどの力の差は無い。しかしアキラがそんなことをわざわざ此処で明かすはずもないので、彼らが恐怖を払拭できる日は来ないのだろう。

 また、八千の魔力を持つ彼も毎日八千が使えるわけではないし、他のエルフも然りだ。これだけの差があるなら、彼らが三か月でこの書を完成させようとしていたこと自体、少し無理のあるスケジュールであったと思われる。彼らもそれだけ必死だったということだろう。

「それでもう、いつでもこれは発動できるのかな」

 慄いているエルフらの空気を少し堪能した後、気を遣ったのか飽きたのかは定かでないが、アキラが話題を元に戻す。ヒルトラウトも少しハッとした顔で、背筋を伸ばした。

「すぐにでも。此処で行ってしまって宜しいでしょうか?」

「うん、お願い」

「畏まりました」

 エルフ全員へ影響するような魔法をこの場だけの了承で進めてしまって良いものかアキラには分からないけれど、交渉の場に着く前に他のエルフらや他の里とはある程度、話を付けているのだろう。どうあれアキラには関係の無いことだ。アキラが頷くのに従って、ヒルトラウトも覚悟を決めたような顔を見せた。

 ヒルトラウトが契約の書の正面に立ち、先程の魔術師の彼が補助をする形で、魔法を発動する。最初に契約の書が青白い光を放ち、それが伝播するように他のエルフらの身体も淡く光を帯びた。隣に居たラターシャも同様だ。

「発動、成功いたしました」

「……ラタ、大丈夫?」

「うん、ちょっとびっくりしたけど、何も変な感じは無いよ」

 彼女にもエルフの血は流れている。この書で影響を受けるのは仕方がない。当然、特に悪影響があることでもない。ラターシャがスラン村の者達を傷付けようと思うことがあるわけがないのだから。

 その後、アキラは入念に真偽のタグを用いて契約が正しく結ばれていることを確認した。間違いなく、彼らは二度とスラン村に害を及ぼすことは出来ないようだ。

「これでもう危険は無いね。助かるよ。それで、知恵と技術を教えてもらうのは、どういう方法にしようか?」

 村の安全はもう保証された。次は、今回の騒動に対するお詫びとしての知恵・技術の提供だ。

「我が里の守る秘宝の力を用い、お伝えすることが可能です」

「へえ、植物の成長促進だけじゃないんだね」

「そちらは副産物とでも申しましょうか……此方が本来の力となります」

 植物の成長促進があまり目立ったものでなく「言われてみれば」程度であるのも、副産物であることが理由だそうだ。真の役割がそれであれば、もっと明確に周囲の植物が巨大化するような大きな影響が及んでしまうらしい。

「秘宝の保管場所へ、ご案内いたします。どうぞ此方へ」

 ヒルトラウトの言葉にアキラが軽く頷いて立ち上がる一方で、ラターシャがやや緊張の顔を見せた。エルフとして生まれ育った彼女からすれば、里が守る秘宝を目にするということの貴重さ、恐れ多さは人族が感じる程度のものではない。アキラはそんな彼女の肩を、ポンと軽く叩いて微笑む。

「『私』ほど貴重じゃないでしょ」

「……自分で言う?」

 呆れたような声を返しながらも、アキラの言葉にラターシャは思わず笑ってしまった。だが事実、『救世主』ほどの貴重さは、この世界には一つも存在しないのだろう。

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