第233話

 持ち込まれてきたのは、ユレフの肩幅ほどある立派な木箱だ。貴重な品であるから、このように丁重に保管されているのだろうか。中からは一枚の羊皮紙が取り出された。

 この世界はアキラの世界ほど上質な紙が出回っているわけではない。だが広く利用されている紙の製法はほぼ同じものだった。原料が木材に統一されてはおらず、麻のような植物から作られる紙も少なくないし、歪なものも多い。それでも書くには困らず、どれも羊皮紙に比べれば安価で平民が気負わず利用できていた。

 しかしそのような一般的な紙は、重要な契約を取り交わす場合にはあまり利用されない。それには必ず、羊皮紙または石板が利用された。これはただ伝統という形骸的な意味合いではなく、普通の紙より遥かに魔力伝導率が高く、劣化を防ぐ術が通り易いことが理由だ。

 つまり今回のように契約自体が魔術を必要とするのであれば、羊皮紙が使用されるのは当然とも言える。

 ヒルトラウトがテーブルの上に広げたそれは、A4サイズか少し縦に大きいくらいのもの。上部には四行ほど文字が書かれ、中央から下は全て、魔法陣になっていた。

「これが、血の契約を結ぶ為に利用する書です。上には契約内容を記載しております。下の魔法陣はまだ下書きであり、術の発動に必要な魔力を籠めれば完成いたします」

 丁寧に説明されるそれに、アキラはのんびりと頷く。もしかしたらタグで幾らか追加の説明も出ているのかもしれない。視線はずっと羊皮紙へと向けられていた。

「此方に、村の名をご記入いただけますか?」

「うん」

 この記述にも特殊なインクを用いるとのこと。エルフの血が混ぜられているらしい。アキラは渡されたペンとインクで、スラン村の名をしっかりと書き込んだ。

「此方の魔法石をどれほど用いれば発動できるかは分かりません。一つ、試しに利用させて頂いて宜しいでしょうか?」

「いいよ」

 先程テーブルの上に無造作に転がした一つをアキラが拾い上げ、ヒルトラウトへと差し出す。彼女は恭しく両手で受け取って頭を下げると、懐からリボン上の布を取り出して、何かを書き込んでいく。小さくてよく見えないが、丸くない魔法陣のようだ。次はそれを魔法石に巻き付け、その状態で契約の書の中央に置いた。

「では」

 短い言葉と同時に石が輝き、その光がまるで書へと吸収されていくように動いた。今リボンに書かれていたものは、どうやら魔法石の凝固を解く術のようだ。光が収まると、ヒルトラウトと彼女の後ろに控えるエルフらが一斉に驚きの声を漏らす。

「……途轍もない量の魔力が含まれておりますね。十個足らずで、発動できそうです」

「そう。じゃあ此処の分で足りそうだね」

 呑気にそう返すと、アキラは此処に訪れてから初めて、エルフらが出していたお茶に手を付ける。ラターシャも小さくエルフらへ会釈するように頭を下げてから同じく手を付けた。一応、アキラが手を付けるまでは待っていたらしい。その様子が愛らしかったのか、アキラが微かに目尻を下げていた。

「あ、今更だけど、これって此処の里のエルフに限定される?」

「いえ、『エルフ族全て』に適応されます。その為、数百年ぶりに他の里にも連絡を致しました。他の里全てから、了承の意が返りました」

「そう」

 血の契約ほどの強制力が与えられるとは言え、他の里からすれば行動制限の対象となるのは遠くにある一つの小さな村とその住民のみ。今後も他の種族に対して不干渉を続けるつもりならば、彼らにとって大した影響ではない。ウェンカイン王国との争いにも発展しそうだったところをそれで手打ちに出来るかもしれないと聞いて、二つ返事で受け入れたのだろう。

「あの、お連れ様についてですが」

「ん?」

 不意に、ヒルトラウトが視線をラターシャに軽く向け、恐る恐る口を開く。アキラは柔らかく応答したが、ラターシャの方は当然、少し緊張した様子で身体を固めた。

「……以前、住まわれていた里が、謝罪の意志があると申していたのですが」

「要らない」

 被せるようにして答えたのはアキラだった。声が一瞬で低くなり、色を変える。

 そもそもハーフエルフは個体数が少ない。救世主がハーフエルフを連れており、そのハーフエルフが褐色の肌をしている若い娘だったと伝えられているのならば、該当する里は流石に一つだろう。エルフの里にも救世主信仰はある。今回の騒動の説明を受ける中、ラターシャへの無礼は自分への無礼と同等だと告げたアキラの言葉まで伝わっているとすれば、該当の里は真っ青になったに違いない。

「詫びる気持ちがあるなら全員死ねって言っといて」

「アキラちゃん……」

 ようやく少し柔らかくなったところだったアキラの雰囲気がまた尖り始める。ラターシャが宥めるように名を呼ぶが、彼女の怒りの原因が自分自身に関することでない限り、それで機嫌を直すような彼女ではない。

「関わるな。私が望むのはそれだけ。その里のエルフが私の前に来たら、生まれたことを後悔するまで痛め付けて殺す」

 部屋の壁がやや軋んだ。

 アキラの怒りに応じてまた魔力が膨張しているのだ。部屋のエルフらは、恐怖で震える身体を必死で抑え込んで圧力に耐えている。

 そして今の彼女の言葉を聞く限り、カルリトスを一息で殺めたアキラの選択はまだ彼女にしては優しいものだったと窺い知れる。あの時、カルリトスは痛みを感じる暇も無いほどの圧倒的な一撃で殺された。苦しませずに殺したのだ。それは彼が子供だったからか、犯した罪がアキラ側から見ればただ一度であった為かは分からない。

 何にせよ、ラターシャを十六年近く苦しめたエルフらに向けるアキラの怒りは、その程度に収まるものではないようだ。

「この子は生まれてきただけで疎まれて殺されそうになったんだ。この子が許すと言っても私は許さない。この子が望まないから積極的に殺しに行っていないだけ。目の前に居たら、堪える自信は無い。永遠に隠れてろ」

 アキラの袖を、ラターシャが緩く掴んでいる。しかしラターシャは何も言わないで俯いた。これ以上、アキラに何を望めるだろうか。アキラはこれだけの怒りを抱えていても、ラターシャを尊重してそのエルフらを殺さぬようにと自らの行動を制限していたようだ。ラターシャはゆっくりと力を緩め、袖を放す。

 ヒルトラウトはその一連の動作を見守ってから、静かに息を吐いた。

「申し訳ございませんでした。そのように、伝えておきます」

 頭を下げた彼女を見て、アキラは軽く首を振ると、短い溜息を一つ零した。

「怒る対象は君らじゃない、怖がらせてごめん」

「とんでもございません」

 アキラが威圧を解くと、圧迫されていたらしい部屋の壁は元の形に戻る為にまた小さく軋んだ。

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