第218話

 身体を清めて服を着せてあげた後、私はいつまでもナディアの唇へと口付けを落としていた。応えたり、ただ受け止めたりしてくれていたナディアは、五分ほど付き合ってくれたところで私の顎の下を軽く押す。

「ぬあ」

「キスが多い」

 堪らず唇を解放して変な声を漏らす私へ、被せるように文句の言葉が続いた。

「はは、ごめん。キスは苦手?」

「今夜はやけに多いと思っただけ。何?」

 理由を問われる。そして『今夜は』とナディアは言った。うーん、そっか。指摘は『今』しつこいって話じゃないんだね。

「むしろ今夜のナディが、いつもより見つめてくるから」

 ナディアは微かに目を細め、眉を寄せる。自覚が無かったのか、それとも自覚した上で、理由としては分からないという意味か。何にせよ、私は今夜のナディアに対してそう感じていた。行為の最中、やけに私の顔をじっと見つめてくるなぁって。普段はそんなことしないのに。

「こんなに綺麗な瞳が見つめてきたら、つい見蕩れて近付いてしまうよ。そうして近付いたら、甘そうな唇が欲しくなるものでしょ?」

「……よくもまあ、臆面もなく」

 つらつらと述べてみた言葉にナディアは一つの溜息。照れる様子も一切無く、ただ呆れているようだ。少しも響かないって寂しいねぇ。

「まあ、うん。後半は嘘だけど」

 正直に白状したらすっごい睨まれました。怖い。いやでも流石に顔が近付いたらそれだけでキスしてしまうほど飢えてない。したい気持ちになることは否定しないが。

 さておき。このまま誤魔化してもナディアは納得してくれないだろうな。枕の横に肘を付いて顔を上げ、たわむれを諦めて話す姿勢を取った。

「その聡明な目で見つめられると、今度は一体何を見透かして責めてくるのかって気がして、ついね」

「人聞きの悪い。元はと言えば自業自得じゃない」

御尤ごもっとも」

 本当、言い返す余地が無いよ。彼女に何かしら見つかって責められたケースは例外なく私が悪い。その経験が一度や二度に留まらないことも、明らかに問題だろう。

「何か今、責められる覚えがあるの?」

「うーん……考えれば、沢山、色々、あるかもなぁ」

 私の回答に、ナディアが黙った。呆れている気配がひしひしと伝わってくる。

 いや、別にね、「絶対にこれだ」と思うほどの大きな案件は無い、うん、多分、無い。けれど細かいことならあれもこれもと思い付ける。日頃から不誠実に生きているせいだから、やっぱり私が悪いんだけどさ。

「ナディに嫌われたら、被害が大きいねぇ」

「なに、被害って」

「まず妹たちは間違いなく、君の味方だ。一緒に出てっちゃう」

 ちょっと極端な想像だろうか。だけどナディアに愛想を尽かされた日には必ず訪れてしまう未来だと思う。

「他ならぬナディの言葉だと、ラタも一緒に行っちゃうかなぁ。うーん、一人ぼっちだね。あ、サラとロゼは居てくれるかな?」

 流石にあの子達は私が買ってきた馬だし、みんなも奪って行ったりはしないだろう。つまり私の傍にはあの子達しか残らない。悲しい未来だなぁ。項垂れていると、ナディアが長い溜息を吐いた。

「見つめられた程度でそんなに不安になるなら、怒られるようなことを日頃から慎みなさいよ」

「ははは」

 本当にその通りだとは思うよ。だけどさ。私みたいなのがどんなに気を付けてみたって、結果は変わらないと思うから。

「夢は、いつか覚めるよ」

 呟けば、戸惑うような金色の瞳が、私を見つめた。夜、明かりの無い場所でも必ず彼女の目はきらきらと光る。それをこんなにも近い距離で見つめられる時間は愛おしくて、『夢』のようだ。

「私が真面目でも、不真面目でも。どうしたってね」

 ナディアは少し迷うように唇を震わせてから、眉を寄せた。

「あなたにとって、今は『夢』なの?」

 そうだよと答えることが望まれていないことだけは、馬鹿な私にも分かる。湧き上がった真っ直ぐ過ぎる肯定は飲み込んで、ただ穏やかに笑みを向けた。

「そう思うくらい、君達と一緒だと幸せってこと。こんなに可愛い人を腕に抱けるなんて、本当に幸せな夢だよね」

 夜目の利く彼女に顔を見られないように、抱き締めて腕の中に閉じ込める。微かに身じろいだナディアは顔を上げようとしていたようだけど、数秒で無理だと悟って、力を抜いてくれた。しかし安堵も束の間。更に数秒の沈黙の後、思いもよらない言葉が返ってきた。

「私達の方がずっと、今は『夢』のようよ。解放されて、自由に過ごせるなんて」

 思わず息を呑んでしまった。多分この距離じゃ、誤魔化しようが無いくらいはっきりとナディアに聞き取られている。言葉が出なくて、きっとそんな私のことを分かっていて、彼女は続けた。

「この夢が覚めてしまえば、また地獄ね」

 咄嗟に何も言葉が出てこなかったけど。感情が先に立って、私は強くナディアを抱き締める。

「以前が悪夢だっただけだよ」

 自分で思うよりずっと感情的な声が出てしまったから、一瞬びっくりして言葉を止める。でも、どれだけみっともなくても、ナディア達にそんな未来を見てほしくない。例え夢の中でだって。

「君達が傷付けられることなく生きていられる今が、本来のあるべき形だ」

「物は言いようね」

 そう返すナディアの声は、少しだけ笑っていた。声に憂いはあんまり含まれていなくて、私が思うほど悲観していないように聞こえる。ちょっとだけ、ホッとした。

「二度とみんなを、誰にも傷付けさせないよ」

 ナディアを安心させるつもりで重ねて言えば、また少し腕の中で彼女が笑ったようだ。自分の都合で閉じ込めたんだけど、笑顔が見たくて腕を緩める。ナディアが顔を上げた。少しだけ目尻が下がっていた。

「……私は今の夢がいつか覚めるとは、もう思っていないわ」

 ローランベルを発って間もなくは、不安そうにしていたナディアだけど。今はもう、私の傍で守られていることに慣れてくれたって意味だろうか。組織から奪ったお金も全部渡したから、当分、三姉妹は遊んでいても充分に暮らせる。王様に換金してもらった分も全部あげたからね。いや、お金のことじゃないって怒られそうだから、言わないけど。

「あなたが夢だと言うから、揶揄っただけ」

「そっか。ごめん」

 謝ると、またちょっと呆れた色を瞳に宿してから、ナディアの手が私の頭を緩く撫でた。珍しい行動に、目を瞬く。

「もう寝たら。目覚めても私達が傍に居ることを、証明してあげるわ」

「ふふ」

 優しいなぁ。寝かし付けるみたいなナディアの手の動きに、急に睡魔が襲ってきた。うーん、抱いた後の女の子は、私が寝かし付けたいんだけど。そんな考えが浮かぶが早いか、眠り落ちてしまうのが早いか。あっという間に意識が沈み込む。直後、ナディアの唇が額に触れた気がして。

 ……慰められてるなぁって、思った。やっぱり、ほら。夢みたいだよ。

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