第186話

 みんなと夕食を済ませ、三人を風呂に入れてやった後で、アキラとナディアが宿を出る。朝に約束していた『外泊』だ。

「ナディ~」

「……はいはい」

 夜道に出てすぐ、アキラが手を差し伸べてきた。ナディアは渋々とその手を取る。柔らかく握り返してくる手はナディアのものよりも少し大きくて、不思議といつも温かい。

「今日は優しいねぇ、どうかした?」

 以前、アキラが手を繋ごうと手を伸ばした時には無言でそれを避けていたせいだろう。どうして今回は避けずに握り返してやったのかを自らの胸の内のみで答えたナディアは、結局それを口に出すことはしなかった。

「いつも優しくしてるでしょう」

 もし此処で「何でもない」と答えていたらタグはきっと『嘘』と示してしまい、何かあると勘繰られてしまう結果になっていた。思い付きで口にしたそんなナディアの返答に、アキラは酷く楽しそうに笑い声をあげる。

「そうだね、ナディはいつも優しいよ。ありがとう」

 笑いでアキラの声が震えていた。別に笑わせるつもりではなかったナディアはやや居心地が悪そうに肩を竦める。

 不意に、酒場が賑わう通りの近くでアキラが歩調を緩めた。約束したのは『外泊』でしかないが、二人で夜に出掛ける際は必ずお酒を飲む。だから店を迷っているのだろうと思い、ナディアは特に気にせず隣で並んで立ち止まった。数秒後、アキラがのんびりとナディアを振り返る。夜目は利くナディアだが、街灯の明かりがちょうどアキラの真後ろにあって表情がよく見えない。ただ、口元が微笑んでいるのは分かった。

「今夜は真っ直ぐ宿に行こうか? 部屋でワインでも飲もう」

「私は何でも良いけれど……」

 店に行くかどうか自体を悩んでいたらしい。了承すれば、何も言わずナディアの手を引いて再びアキラが歩き出す。もう酒場の気配に足を止める様子は無い。

「どうかしたの?」

「んー、今夜はあんまり、ガヤガヤしてるところは気分じゃなくて」

「……そう」

 気分だと言われてしまえば、ナディアには納得するしかない。そのまま二人は、東の端にある別の宿に部屋を取り、狭い二人部屋へと入り込む。ここ最近は四人部屋や五人部屋という広い部屋ばかりを見ているせいで、ナディアには部屋がやけに狭く見えた。数か月前までの暮らしを思えばひどく贅沢な感覚だ。

 外で遊び慣れているアキラは当然、そんなことに違和感など何も抱いていない。部屋の奥にあるテーブルへと真っ直ぐ歩き、徐にそのテーブルの上に何かの装置を置いた。

「何、また魔道具?」

「ううん、小さいかまど

「これが?」

 ナディアは怪訝に眉を寄せてアキラの手元を覗き込む。金属と石で形作られた、両手で包めるくらいの丸い塊にしか見えなかったが、上から覗けば中が空洞になっていた。よく見れば横穴もある。その空洞へ火を入れて、上に乗せたものを温める仕組みらしい。上は金属製の網が固定されていた。

「ワイン温めようかなと思って。ミルク用に作ってあったんだけど、ワインにも使えるでしょ」

「つまり、今夜は単にこれを使ってみたかったの?」

「ふふ。そうだね、そうとも言う」

 肯定したアキラは、直前に一瞬だけ無防備な顔を見せた。それを見たナディアは、今の言葉は嘘なのだろうと思った。時々、アキラは必要も感じられないような小さな嘘を吐く。いちいちそれを問い詰める気にもならなくて、ナディアも何も言わなかった。

 テーブルの上で、小さな鍋に注がれた赤ワインが温められる。野外なら分かるが、室内でこの状況を見るのも面白い。中で揺らめく火をナディアもぼんやりと見つめた。

「そういえば、ナディの火操作は順調?」

「……何とも言えないわね。浸透は出来ていると思うのだけど、どうしても振り落とされる感じよ」

 あの日、ナディアは揺れる火の先端を捕まえられなかった。もっと火の根本で試せば逃げられる心配も無いのでは、と思ってやってみるが、先端以上に難しい。アキラが言うには、根本は先端よりも制御に高濃度の魔力が必要になるそうだ。そうしてあの日は結局、悩んだ末に振り出しに戻っただけで終わった。

 以来、改めて揺れる火の先を魔力で捕まえようと試みている。捕まえることは出来るようになってきた。これもアキラのアドバイスのお陰であってナディアには少し悔しいが、曰く、待ち伏せするように言われた。火が揺れている場所の何処かに魔力を集中させて、来た時に浸透させる。言われた通りにすれば魔力の浸透は出来た。だが、揺れている火が再びその場所を離れてしまうまでの短い時間で、制御下に置けていない。

「まあレベルが上がると難しいものみたいだからね、生成ほど早く、出来るようにはならないかもしれないし……もしかしたら、そもそも出来ないかもしれないし?」

「嫌なことを言わないで」

「ふふ、ごめん」

 けれどその懸念はナディアも頭にあった。そもそも属性魔法のレベル1が出来るだけで、一般人としては稀有なことだ。自らにそんな才があるとは思っていなかったのだから、それだけで十分に幸運なことだと思える。だが、いざ扱えるようになってくると、更に上のレベルも出来るようになりたい欲は出て来てしまう。

 せめて、組織の男達が使っていた攻撃魔法までは扱えるようになりたいと、ナディアは思っていた。

 彼らはもう存在していないのに、心の奥底に残る言葉に出来ない憎しみが、そんな対抗心を抱かせる。勿論、一番の理由は『妹達を守れる手段が欲しい』というものだけど。

 ナディアの表情が微かに曇ってしまうのを見たアキラは、少し眉を下げて優しい声を出す。

「正直、レベル2までは全員扱えるようになると思ってるよ」

「……本当に?」

「うん」

 ただの慰めかもしれないという思いで訝しげに問い返すナディアに、アキラは迷いなく頷く。小さい嘘は吐く人だけど、こういう嘘を吐く人ではない。真っ直ぐに見つめ返してくれるだけで、ナディアの不安が小さくなる。それを自覚すればまた、ナディアにはやや気恥ずかしいのだけど。

「全身で魔力を練る練習も、並行して続けてね。地味な練習だし、劇的には変わらないかもしれない。だけど徐々に魔力の濃度が高められるはずだから。続けていれば、必ずレベル2は出来るようになるよ」

 この言葉から新しい何かの教えを得たわけではない。けれど事実、ナディアはその『全身で魔力を練る練習』を続けていたお陰で、火花を出すのは最初の頃と比べてかなり楽に出来るようになり、火花も強くなった。数日では全く成長を感じられなかったものの、最初に魔法を教えてもらってから既に二か月以上が経過している。自らの成長をきちんと感じているからこそ、アキラの言葉にも説得力を感じていた。小さく頷いたところで、アキラが立ち上がる。どうやらワインが、温まったようだ。

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