第154話

 いつになく不機嫌で朝食中に一度も喋らなかったナディアは、部屋に戻るなり先程放り投げた袋を回収し、浴室の方へと向かう。

「ナディ、洗濯だったら自分でするからさぁ」

 やんわりと呼び止めてみると、ナディアは足を止めてくれたものの、視線を一瞬だけ私に向けて、振り返ろうとはしない。

「匂いが気になるのは私の勝手だから。それに」

「ん?」

「……何でも無いわ」

 何かを言い掛けたようだが、結局そのまま浴室に入ってしまった。この宿の部屋では洗濯場と浴室は兼用になっている。普段ならば洗濯中に扉を施錠することは無いのだが、今、明らかに扉は施錠された音がした。ナディアは追って入られたくないらしい。ううん……。

「妬いてるんじゃないの?」

 全く声量を落とす様子無くリコットがそう言うのに苦笑いを零す。止めなさい。ナディアの耳だと聞こえてるかもしれないでしょうが。扉の向こう側では今頃ナディアが、もうそれ以上寄せられないよってくらい眉を寄せている気がした。大体、あり得ないってことは私よりもリコットの方が良く知っていると思う。

「無いでしょ……私が何処で誰と寝ても気にしないって前に言ってたし」

 あの時、間違いなく彼女の言葉は『本当』だとタグが示していた。そんなにストレートな『よくある』理由じゃないだろうと思う。でも、ダリアの匂いを付けてきたことが気に入らないのは、間違いないんだよなぁ。長い溜息を吐き、指先で眉間を揉んだ。

「まあ、ナディが出てきたら、ちゃんと話すよ……」

 どう転んでも私の行いが彼女の不機嫌を引き起こしたのだから、私がきちんとナディアと向き合って話す以外には無い。リコットが私の背を軽く叩いて、「がんばってね」と励ましてくれる。でもちょっと楽しそうな顔もしてるよね。

 その後、私以外のみんなが出掛けて居なくなった頃、洗濯を終えたナディアが出てきた。三人は、気を遣って出て行った気もする。そして部屋の端に私の上着を丁寧に干しているナディアが三人の不在を気にする様子は無い。やっぱり、こっちの部屋の会話は大体聞こえていたんだろうな。

「ナディ」

 歩み寄って手を伸ばす。すると振り返ったナディアは少し嫌がるみたいに身を竦めた。咄嗟に手を止める。

「ごめん。触られたくなかった?」

「……驚いただけ」

 その返答に対して、真偽のタグが出なかった。嘘とも本当とも判断が難しい微妙なラインだったようだ。そういう場合、タグは上手く働いてくれない。

 彼女が何を怒っているのかも分からないのに、とりあえず抱き寄せるみたいな対応は良くないかな。伸ばした手を引っ込めようとしたら、引き下がっていく手をナディアが一瞥した。

「別にいいわよ。触っても」

 ちょっとバツの悪い顔をしている。そしてタグが『本当』を示した。迷いが無かったわけじゃないけれど、結局私は改めて手を伸ばし、ナディアを引き寄せて腕の中へと閉じ込める。

「匂い、そんなに強かった? 苦手なの?」

「犬系自体の匂いが苦手なわけじゃないわ。……匂いは強かったけれど」

 そもそも、ダリアはわざと付けたからなぁ。自然に付くよりは、やっぱり強かったのかもしれない。

「まだ匂いする?」

「かなり」

 即答だった。そんなに残っているのか。お風呂にも入ったし、上着以外は着替えているし、そして上着も奪われてしっかり洗濯されたはずなのに、それでも強く残っているなんて。一体何処に付いているのやら。

「どうやったら匂いって付くの?」

 匂いを付ける、と言ってダリアがしたことは私に擦り寄ることだった。だけどそれで付くなら、触れた場所だけに付きそうなものだけどなぁ。私の腕の中で、ナディアは小さく息を吐く。

「……教えない」

「えぇー」

 言いたくないようなことなのか? よく分からない。獣人族の常識が分からない。一冊の本にまとめてくれたら十五分でインプットするから至急用意してほしい。なんて、無いものねだりで現実逃避をしても仕方ない。

「じゃあ、うーん、どうやったら消えるの?」

 付いてしまったものは仕方がないとして。今のナディアのご機嫌を取るには一刻も早く消すしかない。そう思って尋ねてみたら、腕の中でナディアが少しもぞもぞした。可愛い。今はそんな場合じゃないのは分かっているんだけどね。分かっているから、視界の端で揺れている尻尾には理性を総動員して手を伸ばさないように我慢をしています。

「他の匂いで上書きするか、あとは時間が経てば消えるわ」

「ナディの匂いで消せる?」

「……まあ」

「じゃあ、好きに消しちゃってね。君と過ごす時間の方が長いんだから、そんなに嫌な顔はさせたくないよ」

 慰めるみたいに、ナディアの背中をよしよしと上下に撫でる。私の腕の中で大人しくしていただけのナディアは、応じるみたいに私の方へとゆるく身体を傾けてくれた。

「匂いを付けてきたこと自体を、怒っていないわ。あなたには分からないことだから」

 少しだけ、声が優しい。

 あ、私は怒られていたわけじゃなかったのか? そう思った直後、またナディアの声がめちゃくちゃ低く変わった。

「腹が立つのは、相手の女よ」

「おぉ」

「私を挑発するみたいな匂いの付け方。匂いに気付いたからって、別に、こんなことしなくて良いでしょう」

「あー、うーん……」

 ダリアに怒ってたのね。物凄く怒ってらっしゃる。怖い。

 そして大体、経緯がバレてるということにも、恐々としていた。匂いにも種類があるのか。今度はナディアの後頭部をよしよしと撫で、必死にご機嫌を取る。この件、私、悪くないことはないね。ダリアが上書きすると言い出した時も、何も知らないで簡単に考えていたんだから。ナディアがこんなに怒ってしまうってことは、ダリアの悪戯はかなり嫌な気にさせる種類のものだったらしい。軽く捉えてしまっていたことを、大いに反省していた。

「あなたが気に入って抱いたひとを、悪く言ってごめんなさい」

「えっ、ううん。それは全然。嫌なことは、嫌でいいんだよ」

 沈黙していたら何故かナディアの方が反省を示してきてびっくりした。君こそ何も悪くないでしょ。

 ナディアの髪を撫でて、額に一つ口付ける。同時に、ふと私は扉の方へと視線を向けて、ナディアから大きく一歩、離れた。急に私の腕から解放されたナディアが、不思議そうな顔で首を傾ける。

「アキ、」

「ただいま~」

 唐突に扉が開き、リコットが帰って来た。気を遣って出て行ったわけじゃないんかい。すごいタイミングで帰ってくるじゃないですか。笑いを噛み殺しながら、私はリコットへと「おかえり~」と軽く返して、何事も無かったかのように自分のベッドへと座って収納空間から本を取り出した。私が離れた訳を理解したナディアが、小さく息を吐いた音がした。

「あれ、ごめんナディ姉。なんかびっくりさせた?」

「いえ、大丈夫……私が勝手に」

「そう?」

 見れば、ナディアの尻尾が二倍くらいに膨らんでいた。ナディアは自らの尻尾を引き寄せ、元の形に戻るようにと撫で付けている。可愛い。そんなにびっくりしたんだね。

 さておき、獣人族の匂いがどうやって付くのか、本屋で調べたら怒るかなぁ?

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