第2話 麻倉家
麻倉 蛍(あさくら ほたる)の現在唯一の楽しみは読書をすること。
一年前に通い始めた大学ではとある出来事が原因で友人達と関係がもつれて現在休学中。
なかなか外に出る気にもなれず、大学入学と共にこの地へ引っ越してきたため周りに友人もいない。初めは暇を潰すのに始めた読書だったが今ではすっかり日々の楽しみとなっていた。
ーーそんな、ある夏の日のこと。
エアコンの効いた部屋で文庫本に夢中になっていた蛍は、喫茶店のシーンを読み進めながらふと冷凍庫にあったアイスを思い出した。
確か一昨日買ったチョコのアイスがまだ残ってたはず、と栞を挟んで足取り軽く台所へ向かう。
古い家のため廊下を歩くたびにギシギシと床板が軋むが、蛍はこの家が嫌いではなかった。どこか懐かしい木の香りが今日は暑さのせいか一層濃く感じられ、ガラス越しに見える庭先の風鈴がそよそよと揺れていて心地良い。
そうして台所に入ると、よそ行きの格好をした祖母がカゴで出来た鞄にいくつか野菜を詰めているところであった。
「あれ、おばあちゃんどこか行くの?」
「丁度良かったわ、今日は佐々木さんのお家でランチをご馳走になるのだけど、蛍ちゃんも一緒にどうかしら?」
「ふふ、大丈夫だよ。ご飯は自分で用意するからゆっくりしてきて」
祖父が亡くなって10年、一人きりでこの家を支えてきた祖母は周りの人たちとの関わりが多くとても社交的な性格だった。
自分とは違うことを羨ましく思うけど、私はおじいちゃん似だからなぁと不器用で物静かな優しかった祖父を思い出しながら冷凍庫を覗き込む。
「あれ、ないや」
「もしかして、チョコのアイス?さっき小次郎さんが来た時にお出ししちゃったわぁ、ごめんなさいね蛍ちゃん」
「大丈夫だよ、小次郎さん来てたんだね」
「うふふ、採れたてのお野菜を沢山頂いたのよ」
「朝から会えて良かったねおばあちゃん!」
「あらあら蛍ちゃんたら」
木造平家のこの家は、先祖代々から受け継がれているらしくこの近辺でも立派な日本家屋である。
しかし、その住人といえば、祖母の満代(みつよ)と蛍の二人きり。
他に頻繁にこの家に出入りする者といえば、満代の親友の近所に住む聡子(さとこ)と、晩年の恋人である小次郎の二人くらいだったが、二人とも蛍のことをまるで自分の孫のように可愛がってくれていた。
アイスの代わりに氷をひとつ舐めながら祖母の支度を手伝う蛍は、佐々木さんへの手土産にとお菓子を取りに仏間に立ち寄り、ついでに母と祖父の仏壇に本日二回目の焼香を済ます。
これ二人で食べて、とお菓子を渡して一緒に玄関に向かうと、引き戸の外から既に熱気が伝わってきて思わず唸る蛍であった。
「ドア開けてないのに熱気がすごい……日傘置いておくね」
「ありがとう、本当毎日暑いわねぇ。あ、ここまでで大丈夫よ?」
「折角だし外まで送るよ」
サンダルを履いて意を決して玄関の戸を開いた瞬間、ぶわっと吹き込んできた生暖かい風に思わず眉を顰め、靴を履いている祖母へと振り返った。
昨日の夕食の時にテレビで見た高齢者の熱中症の特集を思い出してハラハラとしながらも祖母が立つのに手を貸す。
「やっぱり佐々木さんの家まで送って行こうか?」
「大丈夫よぉ、すぐそこだから」
「熱中症とか今多いから気をつけてね」
「ありがとうね、蛍ちゃんもちゃんとお昼ご飯食べるよの」
「はぁい」
灼熱の空の元、心配そうに手を振り見送ってから玄関の置き時計に目をやると既に11:30を指していた。
本を読み始めてから二時間も経っていたことに驚きながらも、丁度キリのいいところまで進んだのだから少し早めの昼食を取るのも良いだろう。と朝の残りのご飯で大きめのおにぎりを二つ握り、同じく残りの味噌汁とたくあんを用意する。
おにぎりの具は蜂蜜漬けの梅干しと、シャケフレークだ。
冷たい麦茶と一緒におぼんに乗せて居間に運んだところで、ふとスマホを部屋に忘れてきたことに気付いて小走りで自室へと戻る。
ここまで蛍がアイスを取りに部屋を出てから、僅か40分程の時間しか経っていなかった。
「ーーえっ」
開けた襖を静かに閉めた。
そしてまた、今度は少しだけ開けて、その隙間から部屋を覗き込む。初めは目の錯覚を疑った蛍であったが、二度目に覗いた時にも変わらずそこに仰向けで倒れている人間に、腰を抜かしそうなほど驚いてその場にへたり込んだのであった。空いた口が塞がらないとはまさにこのような時に使うのだろう。
口はぱくぱくと声にならない声を絞り出している蛍がいい例だ。
「(どうしよう、私の部屋に知らない人が倒れてる……!)」
慌てて、しかし静かに居間に駆け込んで、台所に置いてある護身用の竹刀を手にした蛍は、再び自室へ戻って果敢にも部屋の外からぐっと腕を伸ばして竹刀の先でチョンと突く。
びくともしないことに安堵しながらも、意を決して声を掛けることにした。
「あ、あの……どちらさまですか」
返答はなく、その姿はまるで死んでいるかのようだったが、胸が上下しているので眠っているのだということが分かる。
警察に連絡するべきではないか?とも思ったが、クラスメイトともまともに話す事も出来ないのだから警察となんて話せるとは思えない。事情聴取などもってのほかだった。
なにより、袖のない黒のハイネックに、サルエルのようなズボン、色とりどりの綺麗なネックレスや指輪をしているこの端正な顔立ちの美青年が泥棒とは思えなくて、躊躇しているのもある。
もしかして祖母の知り合いで、なにか事情があるのではないか?と淡い希望を抱きつつあった。
クーラーの効いた部屋で、無防備な格好のまま床に倒れているので、風邪をひいてしまうかもしれないとドキドキしながらもベッドから布団を引き摺り下ろして掛けてみる。
反応はなし。
「だ、大丈夫ですか?」
何度か声を掛けてみたものの、身じろぎひとつせず眠り続けるので蛍も少しずつ警戒を解いていき、襖を半分開けたまま部屋と廊下の境目に座って彼を観察し続けていた。
「そういえばご飯置きっぱなしだった」
少し目を離しても大丈夫だろうか、一時間ほど放置していたご飯が心配になったらついでに小腹も空いてきた。もうお昼なのだからそれもそうだろう。戻って来るまでは寝ててくれることを願って、すっかり冷めてしまった昼食を取りに居間まで戻るのであった。
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