エピローグ
窓から入って来た風に、ふわりと髪が揺れ、頬をなでる。
書斎を照らす柔らかな陽射しが、薄紫の瞳にきらめく。まばたきをし、安楽椅子の背に預けた頭を彼は上げた。
開かれた本に、視線を戻す。右手は目次に添えられたまま。それ以上ページはめくられていない。
シオンは、色が変わった紙を優しくなでた。
埃を吸い、ざらつくような手触り。それは遠く過ぎ去った日々との時の隔たりを感じさせた。
しかし、あの遠い夏は今もシオンに微笑みを与え、未だ記憶は色褪せてはいない。この本を手に取ることはなくても、あの窓からながめた景色は鮮やかに甦る。
だが、この本には……。
シオンの手が紙をめくり、開いたページ。そこに、もう一枚の短冊に記されるはずだった、願いが記されていた。
『願わくば両想いに、とは言わない。今の、曖昧な関係のままで良い。彼にとって、一番近くに居られますように』
シオンは本を閉じ、椅子から離れ、壁の本棚の前に立った。
ぎっしりと詰まった蔵書。真ん中の棚の中央の一段だけ、同じ装丁の本が並んでいる。
そこからシオンが抜き出した、一冊。
それは、今朝届いた色褪せた本の、かつての姿だった。
その本が届いたのは、最後に会った日からずいぶん後だ。シオンが父の背を越えた姿で、故郷へと戻る朝だった。
共に海を越えたこの一冊は、何度も読み返したとは思えないほど、その時の姿を保っていた。贈られた者と同じく、時を重ねた形跡を失ったかのごとく。
それと見比べれば今朝届いた本は、誰の目にも、みすぼらしく映るだろう。だがシオンにはこの傷んだ本に、二人が過ごせなかった年月が封じ込められているように思えて愛おしかった。
短冊に書ききれない、願いの全てが託された、亜美の遺した本。
二冊の本を並べて本棚に収め、シオンは一歩下がって、その本棚をながめた。揃えられた背表紙に記された言葉は古今東西に及び、それがこの段に並ぶ本たちの、唯一の違いとなっている。
「貴女の願いを……。叶えることが出来たかな、私は」
先ほど収めた二冊を除き、どの本の表紙にも名前が二つ、並んでいた。
作者と……訳者として。
「貴女の思う一番近くとは、違うかもしれないな」
シオンは微笑むと本棚に背を向け、書き物机へと歩いて行った。
今なら。白紙のまま七夕を過ぎてしまった短冊に、あの日の願いをどう書くだろうかと、思いめぐらせながら。
(今の私とは、反対になりたい……か)
確かに、願いは思う通りには叶わなかった。
体は丈夫になったけれど、シオンは今でもあの時のまま、自分の思いを伝えることが苦手だ。
けれども、もう一度だけ短冊を手にすることがあるなら。
シオンは幾度となく胸の内で言葉にしてきた思いを、そのまま心に戻した。書き物机に向かい、仕事を再開する。
開かれた窓から、紙を滑る万年筆の音が森へと流れ出る。
シオンが奏でる言葉を綴る軽やかな調べ。他に物音一つしないこの館では、その音だけがこの静かな森で時を刻んでいる。
彼が一日のうち一番長く過ごす書斎で、傍らにある、幾多の願いが込められた本たちに聞かせるように。
そして、これからも過ごしていくだろう、静かな日々に寄り添うように。
あの夏の想い出を貴女の言葉で記した本たちが、私の傍に居てくれるから。
いつか、その日を迎えたら、その時こそ貴女に伝えよう。
この変わらぬ思いを。
願わくば貴女に おしまい
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