貴女に





 八冊もあったのにと、シオンは自分を笑った。

 ついさっき、押し付けられた貸し本の最後の一冊を読み終えて、シオンは先生が来るのを待っていた。言いつけを守らず、カーテンを開けた窓辺に座って。

 一昨日よりも高さを増した雲。昨日の夜いくらか降ったせいか、雲間に見える空は明るかった。

 しぼんだ笹の葉はそれ以上丸まらないようで、シオンの側で微かに乾いた音を立てている。短冊はというと相変わらず棚に置かれたままで、笹飾りの仲間にはなっていなかった。


 車が私道を上がってくる音がした。音が、いつもより大きい。

 クリーム色のてんとう虫が門の前を通り過ぎて止まり、その後ろに黒いボンネットが現れた。後部座席が門の前に来ると、止まった黒い車の窓に、こちらを見上げる姿が見えた。


(なんで、一緒に乗って来ないんだ?)


 自分の車から降りた先生は門の前で立ち止まり、シオンへと顔を上げた。その顔に、答えに困る冗談を言われたような微笑みが浮かんだ。


(なんで。いつもと違うんだよ!)


 シオンは読書室を離れると、一気に玄関まで走り出た。そこから門までは、なんでもないような振りをして、でも早足で、黒い車へと歩く。

 先生は門の側で見守っていた。今度こそ、ひどく怒ってもいいはずなのに、シオンを止めずにいる。

 シオンは、開いたドアへと黙って目をやった。


 白のレースのリボンが付いた藍色のワンピース。肌の白さが一層、際立つ。亜美はシオンに、いつもの笑顔で話しかけた。


「いいの? 外へ出て」


「大丈夫。結構、調子良いから。ほら、今日は曇ってるし」

 と、シオンは笑う。


 それを聞いて亜美は空を見上げた。車の屋根の陰が横顔に掛かり、表情はシオンからは、よく見えない。


「短冊ね、まだ書いてないの。でも、まだ間に合うんだって。旧暦でね、八月七日まででも良いみたいなんだ」


 乾いた音がして、お馴染みの香りがした。座席から取り上げた短冊の無い小さな笹を、亜美は見つめた。


「それまでに……また遊びに来れると思ったんだけど。姉さんの、知り合いの先生に診てもらえる事になったの。早い方が良いから、すぐにって」


「うん、良かった」


 明るい声で、シオンは答えた。後部座席の足元に置かれていた大きな旅行鞄に、とっくに気付いていたのに。車のトランクの方には、しばらく使っていなかった車椅子が入っているのだ。

 声が明るさを失わないうちに、シオンは軽口をたたいた。


「図書館が近いといいね。先生の貸本屋めぐりが収まるように」


「あら。私の楽しみは変えないわよ。お堅い図書館には探偵少年シリーズ、すぐには置いてくれないんだもの」


 二人のやり取りと、それを聞く亜美の笑い声が光を呼んだのだろうか。一瞬の陽射しが、垂れ込めた雨雲の間から降りそそぐ。

 短いけれど、いつも通り本の話をし、時間だからと車は去って行った。手紙の約束も、再開を祈っての握手も……特別なことは無いままに。

 ただ、いつものように手を振らない亜美の代わりに小さな笹が揺れるのを、シオンは見送った。





「願い事ってね……願った通りに叶うとは限らない。思う通りになんてね」


 白いボックスから血液が満たされたパックを取り出して、手際良く輸血の準備を進めながら、先生は独り言のようにつぶやいた。


「自分が医者になるとは思わなかったな……亜美が元気になりますようにって、短冊に書いた時は」


 遠い目をして話す先生を、読書室のソファーに横たわり、額に汗を浮かべたシオンが見上げる。その淡い紫の瞳に笑いかけ、先生は言う。


「知ってた? びっくりするぐらい元気に笑うのよ、亜美。シオン……あなたの事を話す時はね」



『妹も本が好きなの。連れて来ても良い?』



 あの時。軽くうなずいた事で、こんなに全てが変わるとは、シオンに分かるはずもない。

 退屈を紛らわすための読書が本当に楽しくなって。夢中で話す事が、自分にもあるんだと気が付いて。ただ、恨めしく見ていた外に。



 君が居ないか探すんだ。気が付くと、いつも。



 そして、シオンは願う事が怖くなった。

 健康になる。

 それはシオンにとって、陽射しを浴びて過ごせる、人と同じ暮らしが出来る、という事だけでなく。

 長い、ただただ永い時を、長過ぎる孤独を受け入れる、という事だった。



 この家には、吸血鬼がいるんだ。



 それは僕だと、先生のように冗談めかして言う。今しがた読んだ物語のように亜美に全てを語れたならと、シオンは幾度となく考えた。けれど、その度に思う。

 何も変わりはしない。別れが来る事に、変わりはないんだ。



『まったく。吸血鬼病なんて、皮肉めいた名付け方だわ。吸血鬼の伝説自体、この病気を誤解した昔の人が作ったデマなのに、ね?』



 初めて会った時、先生は明るい口調でシオンに喋りかけ、安心して下さい、と彼の両親に笑顔を向けた。

 安定した治療が受けられる環境を求め、海を渡って来た家族にとって、偏見の無い医師に出会えたのは幸運だ。

 吸血鬼の名が災いしてか。生れ故郷でシオンの病を理解してくれる者は少なかった。

 何よりも彼の身にこの先起こる事が、あまりにも皮肉な……理解しがたい運命だったせいだ。


 ――吸血鬼病。

 原因は未解明。なぜ、日光に過敏な反応を起こすのか。どうして、その血液が壊れ失われていくのか。突き止められた者はいない。

 治療法は輸血のみ。足りない血を補い、日々をしのぎ、症状が出なくなるのを待つ。

 そして『健康』が戻った、その時に……なぜか『老化』が失われているのだ。

 ひとり変わらない姿で、今生まれて来た者たちの死を見送っても、尚。長い時を重ねていく日々が待っている。

 もう充分過ぎるほどに、一人の時間を過ごして来たというのに。




「読んでいる間も書いている時も。楽しいから本が好きだって、言ってたのよ」


 束の間の夢から覚めたかのように、シオンは先生の顔を見上げる。


「でも話し相手がいると、やっぱり違うのね。ありがとう、シオン」


 ふと真顔になった先生の表情がシオンには悲しげに見えたのは、急に空が暗くなったからかもしれない。先生が、チューブに繋がれた針を手に取る。


「待って! 左腕に。左にして下さい」


 シオンは先生にそう言うと、左腕を差し出していた。思わず出た声の大きさと頼んだ言葉に驚いたのは、シオン自身だ。


「良いわよ。ただし! 起き上がるのは痛みが引いてからね」


 先生は、いつもよりもずっと明るく、シオンに笑いかけた。


 大粒の雨が降り出した。勢いを増し、庭に叩き付ける雨音。立ちのぼり、風に乗って流れ来る土の匂い。

 薄く開かれた窓の側で、笹が揺れる。じっと、それを見つめ、シオンは願い事を考えていた。

 ただ今度は、あまりにも願う事が多過ぎて。溢れて来る思いが強過ぎて言葉にならない。

 土に当たる雨が、にぎやかに音をたてる中。シオンの側で静かに落ちた赤い一滴が流れてゆく。

 願いを全て叶えたい。そう思うシオンに、深く染み込んでゆく。







 言葉を上手く見付けられないうちに、願いを掲げる季節は過ぎた。

 会いに行くことも叶わないうちに、時は過ぎ去ってしまった。


 でも……

 あの時、あの夏……言葉に出来ずにいた願いは。

 今なら形に出来るんだ。


 今なら……

 あの思いを何と言えば良いのか。


 私には分かるから。





『貴女に。思いを伝えられるように。貴女を愛していても、可笑しくないように。今の私とは反対になりたい』





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