願わくば
あの夏。書けない願いがあった。
あの時。言えない言葉があった。
二つの笹と二枚の短冊に、二つの願いが託されていたら。
何かが変わっていただろうか?
自分でもまだ、受け止めきれなかった事を話していたら……
どんな物語を、貴女は残してくれただろう。
短冊に何を書くか?
しおれて、しぼんだ笹の葉をながめ、薄い紫色の瞳を瞬かせて、シオン少年は悩みに悩んでいた。
七夕のお願い事なんて、したことがない。十四回目に迎えた今年の夏が、初挑戦だ。ましてや、短冊が手元にあるこの一枚きりでは悩むのも無理はない。
鉛筆を放り出し考え込む少年と、しぼんだ笹の葉を、湿った風がなでる。色紙の輪飾りが幾つか付いた小さな笹は、爽やかな香りを放って窓辺で揺れていた。
日本人離れした容姿の母と、一目で日本人でないと分かる父。両親によく似たシオンが、白い洋館の窓辺にもたれ、物思いにふける。
どんよりと垂れこめた雲さえ晴れれば良く手入れされた庭に光が溢れ、この家に飾られた絵画のような光景が出来るだろう。
ただしその時は、シオンは窓辺にも座れず、カーテンを引いた暗い部屋で日が暮れるのを待つより他なくなるのだが。
生垣の向こうに、丸っこいフォルムをしたクリーム色の自動車が止まった。巨大なてんとう虫みたいな車から、背の高い黒髪の女性が降りて来る。
門を開けようとした若い医師は顔を上げ、シオンに気付くと腰に両手を当てて、おおげさに怒ったポーズを取った。
「曇りの日でも紫外線は強いのよ。せめて、レースのカーテンは引いておいてくれるかな? 私の、お肌のために」
部屋に来て早々、先生の冗談めかした一言に、シオンは困ったような半笑いの顔で応える。
厳しく怒られないのは嬉しいが、笑っても良いのだろうか。先生は、お肌の曲がり角は越えた歳だと前に言っていた。
本棚に置かれた短冊に気付き、先生はレースのカーテンを引きながら、何食わぬ顔でシオンに尋ねた。
「あら、シオン。短冊、まだ書いてないのね。やっぱり、恋の願いは吊るすには恥ずかしい?」
突拍子もない発言に、シオンは読書室のソファーの上で、ひっくり返る。
「ち、違います! 一枚しかないから決められなくって!」
先生は、さも意外そうな顔で振り向き、
「同じこと言うのね。あなたたちは」と、短冊を手にして笑った。
悩んでいたのは、シオン一人じゃなかったらしい。
日本に来て七夕を初めて知ったシオンのために、小さな笹と短冊が一枚贈られた。その贈り主も願い事を決められず、お姉さんにからかわれたようだ。
「亜美も、ノートに挟んだままなのよ」
作家になりたいとか書けばいいのにと続けると、先生はシオンの短冊をテーブルに置いた。
読書室には昼寝も楽しめるような寝心地の良いソファーがあって、そこはシオンの指定席となっている。
「調子はどうかしら? 顔色は良いみたいね」
手早く診察を始めた先生は、にこやかに笑って言う。はいと返事をして差し出されたシオンの右腕を取ると、輸血の痕が残る皮膚を診た。痕以外には変色は見られない。
「うん。もう二、三日は延ばせると思うけど……良いの?」
シオンは少し考え、伏せ目がちのままで、うなずいた。先生の表情はほんの少し陰ったが、すぐさま、いつものように明るく笑う。
「さて。今日のお土産ですが……明後日返却なんだけど。シオンならすぐ読めるわよね?」
テーブルの真ん中に次々と、少年探偵シリーズの本が積み重なっていく。
「またー。借り過ぎですよ、先生。読む時間ないのに次々借りちゃって。貸本屋さんの良い客ですね」
「だから! 無駄にしないように、おもしろかったか、シオンに先に読んでもらってるんじゃない。亜美にも後で勧めるし、文句ないでしょう」
「客じゃなくて。貸本屋さんの回し者でしたか、先生は……」
レースのカーテン越しに車を見送ると、シオンはソファーに腰掛け、ため息をついた。いつもなら本を手に取り、すぐに読み始めるのだが、今は……。
そよ吹く風に笹が揺れる。テーブルの端に置かれた、一枚きりの短冊が滑り落ちた。
七夕。願い事をする日。
そんな日が無くてもシオンは、星に、神様に祈ることが今までに何度もあった。
晴れると一人だけ外に出してもらえず、薄暗い家で過ごすことが嫌で、雨を願った。突然の陽射しに目がくらみ倒れた時も、怖くて怖くて、こんなのは嫌だと健康を願った。
足りない血を求めるように、のどが渇き、頭が骨が、体中が痛み、我慢できずに声を上げる時も……。
早くこんな体に別れを告げて、他の人と同じ、今とは反対の自分になりたいと、いつでも強く願っていた。
でも今は、願うことが怖い。
何の願いが叶えば良いのか、分からなくなっていた。あれほど願った事が叶いそうな今は……。
シオンは短冊を拾い鉛筆を添えて、本棚の空いた棚に置いた。そのまま窓辺の椅子に腰掛ければ、そこは即席の書き物机になる。
夕焼けが消えて、空の色が深く変わっていくのをながめて過ごすこの場所は、先生が門を開けるのを待つ間、車の中からシオンに小さく手を振る亜美の姿がよく見えた。
シオンはしばらく、人通りのない道をカーテンを透かしてながめていたが、ソファーに戻り、本を手に取った。
厚みを増した雲が、七夕の日に雨が降る予報を確実にしていた。
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