きせつの本 そのほか

sorasoudou

願わくば貴女に

プロローグ





 さわりと風に揺れる度、みずみずしい緑の香を放つ深い森。その静けさへ潜むように建つ石造りの館。

 開け放たれた二階の窓からは、万年筆の走る音が途切れることなく聞こえてきていた。その音以外、人の気配は無い。

 窓の内は左右の壁が本棚となった書斎だ。どっしりとした書き物机とビロードが美しい安楽椅子が、それぞれ窓辺に置かれている。

 机と椅子の間には、丸天板の木のテーブルがひとつ。広い書斎に家具はこの三種だけだが、どれも使い込まれた一級品の味があった。


 中世に建った館には負けるが年代物で貴重な木の机に向かった主は、紙の束に言葉を書き連ねていた。

 翻訳を仕事とする彼は古い書物と付き合いが長いせいか、年若い容姿に、どこか古風な雰囲気を漂わせている。

 磨かれた革靴。灰色で細い縞柄の仕立ての良いシャツ。ジャケットこそ椅子の背に掛けていたものの、ベストのボタンをきっちりと留めている。この館にあつらえたかのように、彼のたたずまいも静かだ。


 昔ながらの手書きにこだわる翻訳家は、メモ用紙から視線を外さずペンを置き、ティーカップに右手を伸ばした。不意にその手を止め顔を上げると、カップの向こう、テーブルに置かれた茶色の小包へ目をやった。

 送り先の趣味を心得ているのだろう。今朝がた届いた紙に麻紐をかけただけの長方形の包みは、数か月そこへ置かれていた物かのように、すでに書斎へなじんでいた。


 書斎の主はテーブルへと向かう。中身は紐を解かなくとも一目瞭然。書き物の仕事をしていると、古書を扱う店主とは顔なじみになることも多い。得意先の好みを分かっていて、こちらから出向く前に目当ての本を送ってくれる者たちが、方々に居た。

 その気遣いに感謝し、紐を解く。


 包み紙を広げた手が色褪せた表紙に優しく置かれる。柔らかなまなざしが、薄汚れた一冊の本に注がれた。

 端が擦りきれた背表紙。かすれた本のタイトル。色が変わった紙。ページの側面に押されたスタンプは、どこかの蔵書になっていた事を見る者に告げ、幾人かの手を経て今ここにたどりついたのだと、その痛み具合が教えてくれた。


 本を手に、安楽椅子に腰掛ける。表紙を開き、ページをめくった指で目次を追う。読みたい物語がどこにあるかは分かっていたが、こうして題名を探すのが、彼の読書の常となっていた。

 埃とインクと、時間が作り上げた独特な香りを漂わす紙の上で、人差し指が止まる。




『願わくば貴方に』



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