〈五月〉裏庭の妖精

 ――世の中には不思議なことがあるもので……私が今年入学した高校にも、ミステリアスな噂があったの。

 でもそんなの私は信じてなかったし、通い始めてひと月も経つと噂のことなんかすっかり忘れちゃったくらい。

 かく言う私は森内もりうち美映みえ。十五歳と九か月の高校一年生。獅子座のA型。でもって、なぜか今、演劇部員。

「私がそばにいるから、元気を出し……いてっ」

 私は思わず声を上げた。仲條なかじょう先輩が、私の頭を台本でぽこっと叩いたのだ。

「いったーい。何すんのよー!」

「台詞が違うっ。いつになったら覚えるんだ、ボケッ」

「ボケはないでしょ! 私は演劇部になんか入りたくなかったんだから! それをあんたが無理矢理入部させたんじゃない――この役をやれるのは君しかいないんだ、とか何とか言って」

「眼鏡違いだったな」

 しれっと言い放つ仲條先輩。

「何ですって!」

 も――うむかつくったら!

 ――あーあ、何で引き受けちゃったんだろ。この、演劇部部長、三年の仲條桜樹おうじゅ先輩に懇願されて、つい「うん」って言っちゃったのよね。あんまり必死だったから……熱意にほだされちゃったのよ。

「はああ……美映は盛大なため息をついた。こんな目に遭って、かわいそうな私。あの時断っとけば良かった。ぶつぶつ」

「うるさい。一旦引き受けたからにはちゃんとやれ。ほれ、最初から。台詞間違えずに」

 騙されたあ――!

「おいおい二人共、一応ロマンチックなラブストーリーをコントにするなよ」

 副部長の元屋もとや先輩がフォローしに来た。

「少し休憩入れよう。美映ちゃん、まだお昼も食べてないだろ」

 仲條先輩は渋々引き下がり、舞台を下りて行った。

 私は元屋先輩と一緒にその場で軽い昼食を取った。あんパンと牛乳。張り込みかよ。

「美映ちゃん、ごめんね」

 元屋先輩が、サンドイッチの包みを剥がしながら切り出した。

「あんのあなひれすか?」

「桜樹の奴も悪気はないんだよ。ただ、今度の劇には思い入れがあるらしくてさ」

 私はあんパンの最後の一口を牛乳で喉に流し込んだ。

「思い入れ?」

「美映ちゃんの演じるこの役、桜樹の初恋の相手なんだよ」

「えーっ、これって実話なんですか?」

 びっくり仰天。あの仲條先輩に初恋なんてかわいらしい経験があったってところから驚きだけど、この話、かなりファンタジーな感じじゃない?

「ああ、それは桜樹が芝居用に脚色したんだろ」と元屋先輩。

「ふうん。じゃあ、この女の子が霧の中からスーッと現れたり、空に溶けるように消えてったなんてのは、ただ盛り上げるための演出なのね」

「どうかなー。あいつにもよくわからないらしいんだ。まるで夢でも見てたみたいだって言ってたし。ほら、美映ちゃんも知ってるだろ、裏庭の……」

「森内ィ! いつまで休憩してるんだ。第二場行くぞ!」

「はーいはいはい。今行きますよー、オニの仲條先輩!」

 それにしてもこの話が、仲條先輩が実体験を元にして書いたノンフィクションだったなんてね。しかも初恋物語。意外過ぎる。

「君は……誰?」

 仲條先輩が私を見つめる。

「まるで妖精のようだ」

「そうよ。あなた、こんなところで、一人で何してるの?」

「君こそ……」

 私と仲條先輩の手が触れ合う。

「俺を慰めに来てくれたのか……?」

 つまり、先輩は自分で自分の役をやってるわけね。うわあ……照れないのかな、この人。

「森内」

「へ?」

「台詞。また忘れたな――!」

 ちょっとぼけっとしてただけでしょお。もう!



「ねえ、元屋先輩」

「ん?」

「この話って、主人公が妖精の女の子と再会したところで終わってますよね。そのあと、二人はうまく行ったんですか?」

「いや、桜樹はその子とは一度会ったきり、会えてないらしいよ」

「……台本では、ちょうど一年後の同じ日に再会することになってますね」

「そう。五月三十日……この芝居の上演の日」

「それって……」

「もう一度会いたいって願いを託してるんだろうね」

 もしかして、初恋の相手がこの芝居を見て、仲條先望が自分を探していることを知ったら、きっと名乗り出てくれると、そう思って……?

「現在進行形の初恋なのね。もっと昔のことなのかと思った。意外と奥手なのねえ、仲條先輩って」

 元屋先輩は苦笑い。

「でも、この学校の生徒じゃないかも。もう卒業してたり……」

「桜樹はそれはないって言い張るんだよ。台詞にもあるように、彼女は新入生らしきことを言ってたらしい」

「劇を見に来ないかもしれないわ」

「この俺が主演するんだ、見に来ない女子なんているわけないだろ……ってことらしい」

「……」

 なんて自信過剰で高慢な人なの。

 ――演劇部に入ってくれ。俺の芝居に出てくれ!

 あの熱意は、真剣な瞳は彼女のため。

 ――君しかいないんだ。君は……彼女のイメージそのものだ!

 よっぽど惚れてるのね――別にどうでもいいけどさ。

「森内」

「……」

「森内!」

「……へ?」

「へ、じゃない。何度呼ばせる気だ」

 仲條先輩の顔がすぐ近くにあった。

「うわ!」

 私は激しく仰け反った。

 やば。ミーティング中だった。また怒鳴られる。……と、思ったのに、予想に反して仲條先輩は心配そうに覗き込んで来た。

「どうした。どこか具合でも悪いのか?」

「いえ、ただよそ見してただけです」

 あ、しまった。つい本音が出ちゃった。

「へえ、よそ見ね……」

 ぽこん! と台本で頭をぶたれた。

「お前も部員なら、部長が話をしてる時はちゃんと聞け!」

「いったいなー、もう。バカになったらどうしてくれるのよ」

「お前は元々バカなんだから、バカからアホになるくらいのことだろ」

 ひど過ぎない?

「で、話の続きだが」

 明日から裏庭で練習する、と仲條先輩は宣言した。

「本番まで一週間ないのに、お前ちっとも良くならないからな。衣装着て、本物の裏庭で演じてみれば、少しは雰囲気が掴めるだろう」

 あっ、なるほど。

 昼飯食ったらすぐ来いよ――とな? はいはい。遅れるなって? 遅れませんよ。裏庭でお昼食べるもんね。ついでに台本読み返しとこっと。

 そんなわけで翌日の昼休み、私はおべんと持って裏庭まで行ったのよ。校舎と校舎に挟まれてるから、かなり早い時間でも薄暗いのよね、この裏庭。んっ、でも今日は太陽がてっぺんに来てるから、結構明るいかも。

 さて、お目当ての石段は……っと。あそこに腰掛けておべんと食べよ。あ、衣装着とかなきゃね。

 私はおべんとを石段に置き、茂みに隠れて――誰もいないけど、念のため、ね――仲條先輩に渡された白いレースの、ふわっふわの衣装に着替えた。うーん、妖精って感じ。

 茂みから出て、ちょっとびくっとした。何これ。周り中、霧が立ち籠めてる。裏庭の霧……あれー? 何か噂なかったっけ。脳が答えに到達する前に、私の興味は別のものに移った。

 私がさっきおべんとを置いた石段に、誰かが座っている。霧が濃い上にその人物は俯いているものだから、誰なのかわからない。体が小刻みに揺れている。泣いてる……みたいだ。私はそっと、その人物に近付いた。

「あの……どうしたの?」

 その人物が顔を上げた……ら、仲條先輩じゃない!

 えー? 先輩が、裏庭で一人で泣いてるなんて……あ!

「君……誰?」

 なーんだ、早速劇の練習ってわけ。びっくりして損しちゃった。

「妖精?」

 あー、はいはい。やりますよ。やりゃあいいんでしょ。

「そうよ」

 私はにっこり微笑んだ。

「あなた、こんなところで、一人で何してるの?」

「君こそ……」

「私はここ、好きなの。落ち着くし。よく来るのよ。……と言っても入学してまだ二か月も経たないけど」

「そうなんだ」

 仲條先輩は顔を背け、そのまま黙り込んでしまった。ちょっと。台詞の続きは?

「……ごめん」

 え、そんな台詞ないでしょ。どうしたの? 先輩が台詞間違うなんて。

「……」

 どうも様子がおかしい。演技に身が入っていないと言うか、何かつらいことがあって落ち込んでいるように見える。笑顔を作っても、長くは表情が保てないみたいだった。

「ねえ、どうしたの? 何かあったの?」

 俯いた仲條先輩の目から涙がこぼれ落ちた。

「ちょっと……」

 先輩は私の肩に手を置き、震えた声で囁いた。

「しばらく、こうしていていいか」

 泣きながらも、演技を続ける仲條先輩。無理しなくていいのに。て言うか、こっちがお芝居どころじゃない。でも、続けないとあとでまた怒られそうだったので、私は台詞を言った。

「何かつらいことがあったのね。私がそばにいてあげるから、元気出して」

 背中を撫でてやると、先輩は堪えきれなくなったかのように、声を殺して嗚咽し始めた。苦しそう。私は懸命に先輩の背中をさすり続けた。落ち着いて。大丈夫。先輩が泣き止むまで、私、ここにいるから。

「……う……。……っ」

 どうしたんだろう。何があったんだろう。こんな先輩、初めて。何だか痛々しくて、守ってあげたくなるような……こんな気持ち、初めて……。

 やがて、仲條先輩がゆっくりと顔を上げた。目が真っ赤だ。

「ありがとう……」

 まだ演技を続けるべきか迷いながら、私は頷いた。――次の瞬間。

 突然のことに、私、頭真っ白。思考停止。だって、何? 仲條先輩、顔を近付けて……私に、キス……した!

 数秒の間。そのあと、私はがばっと立ち上がり、ぴゅーっとその場を走り去った。

 何。何? 何っ? 何よ、急に――! 何なのよ。何のつもりよ。何の……そうよ。何のつもりか問い詰めなきゃ。

 私はぴたっと足を止めた。

 しっかりしろ、私。逃げ出してどうする。私らしくもない。何のつもりか、仲條先輩を問い質してやらなきゃ。

 私は即、踵を返した。

 仲條先輩は、石段の同じ場所に、まだじっと座っていた。でも、さっきとは違う。さっき泣いた烏がもう笑……いや、怒っている。目が吊り上がっている。稽古の途中で逃げ出したからか? でも、あれは普通なら逃げるでしょ。普通なら、怒るのはこっちの方だと思うんですけど!

 何を言ってやろうか考えながら、仲條先輩の前に立った時――。

「遅い!」

 浴びせられたひとこと。

 ……は?

「昼飯食ったらすぐ来いと言ったはずだぞ!」

 ……はあ?

「何わけわかんないこと言ってんのよ、あんなことしといて――!」

 仲條先輩は目をぱちくりさせた。

「わけわかんないのはこっちだ。何だ、あんなことってのは」

「とぼけないでよ、キスしたくせに! 台本にはなかったじゃないっ、どういうつもりよ!」

「……え」

 何が「え」よ。まさか本当に重大性に気付いてないわけ? 先輩にとってはただの挨拶? うまく出来たご褒美のつもりだったとか?

 ……というわけでもないみたい。仲條先輩はロ元に手を当て、明らかに動揺していた。

「……何で……何で、知ってるんだ? そのことは元屋にも言ってないのに」

「誰にも言わなくたって、された本人は知ってるのよ」

 仲條先輩の、元々大きい目が、更に大きくなった。

「……お前だったのか?」

 おい!

「気が付かなかったって言うの? まさか本当に妖精だと思ったとでも言うんじゃないでしょうね」

「だって……じゃあ何で言わなかったんだよ、入学式の日、廊下で会った時」

 ……はああ?

「あの時、確かに彼女にそっくりだって思った。でも、話をしても知らない様子だったし、新入生だって言うから……」

「あの……何の話、してます?」

「だから、あの妖精、お前だったんだろ。一年前に、ここで会った……」

「一年前じゃなくて、ついさっき!」

「は?」

「おーい、何揉めてんだよ!」

 校舎の方から元屋先輩が駆けて来た。

「ずーっと上から見てたけど、美映ちゃんすごい剣幕で怒ってるからさ」

「ずっと見てたのっ?」

 すごい剣幕の私に眼前まで迫られて、元屋先輩はたじたじ。

「う……うん。俺のクラスから裏庭見えるんだ」

「どこから見てたのっ?」

「だから、三年一組の教室から……」

「どの場面からって意味よ!」

「……美映ちゃんが弁当そこに置いてってから」

 言われて初めて気が付いたというように、仲條先輩が私のおべんと箱を取り上げた。ぞうさんの模様が付いた、お気に入りの青い包み……そんなことはどうでもいい。

「一度来たのに、弁当置いたままいなくなって、どこ行ったんだろーって思って」

 茂みの陰で着替えて正解だったわ。

「そのあとも全部見てたんですね?」

「そのあとったって……ほら、途中すごい霧が出て来ただろ、あれで見えなくなっちゃって……」

「霧?」

「俺が来た時は霧なんて出てなかったぜ」と仲條先輩。

「うん。霧が晴れたあと桜樹が現れて……」

「待って。それ、ヘーん! 私が戻って来たら、仲條先輩、ここにいたのよ。まだすごい霧だったわ」

「本当に俺だったのか?」

「そうよ。先輩がここで泣い……」

「それって一年前の話だろ?」

 仲條先輩が慌てて遮る。

「さっきだってば」

 何でこう噛み合わないのかなあ。

 元屋先輩が口に手を当て、もったいぶった様子で私と仲條先輩を見比べた。

「美映ちゃん、もしかして裏庭の時空に巻き込まれたんじゃ……」

「何ですか、それ」

「あれ、噂知らないの?」

 ――思い出した。

 先輩達の話してた噂……この学校の裏庭って不思議なのよー、たまーに変な霧が出るんだけど、その時うっかり入ると、時間を越えちゃうの。霧が時空を捻じ曲げるってのかなー、まあ、裏庭を出れば元の時間に戻れるらしいけど……。

 それじゃまさか本当に、さっきの仲條先輩は一年前の仲條先輩で、私が先輩の初恋の妖精だったってこと?

 私は仲條先輩をちらっと見た。先輩は私以上に呆然とした様子で頭を抱えている。

「つまり……彼女は俺の台本を演じてる森内であって、俺が恋してたのは、俺自身が作り出した幻想だったってことか?」

 話す声からも、先輩の落胆振りが伝わって来る。

「らしいですね」

 何となく投げやりな気分で私は言った。

「先輩を慰めたのは、台本に書かれた紛い物の言葉。先輩が焦がれた妖精のような女の子なんて、初めから存在しなかったのよ」

「あれが、演技だなんて……」

 途中からちょっと本気になっちゃったけどね。

「あの子が、幻……」

 仲條先輩、相当ショックだったみたい。ぶつぶつ言いながらふらふら立ち上がり、そのままよろよろと歩いて行ってしまった。

「そっとしとくしかないな」

 元屋先輩がため息混じりに言った。

「ねえ、元屋先輩」

 仲條先輩に目を向けたまま、私は尋ねた。

「さっき……いや一年前? 仲條先輩、泣いてたんだけど……」

 元屋先輩はそれを聞いても驚かなかった。さもありなんとばかりに頷く。

「理由、知ってるんですか?」

「んー……まあ、理由は色々……母親が病気で入院したり、親父さんがリストラされたり、桜樹自身、小さい弟たちの面倒を見なきゃならなくて、劇の主役降ろされたり……一時期は授業にすらほとんど出られなくて。実際、あの頃の桜樹は見てらんなかったよ」

「……そんなに大変だったんだ」

 俺が話したって内緒な、と元屋先輩は付け加えた。

 私はついさっき会った仲條先輩の様子を思い返した。苦しそうだった。震えてた。そんなにつらいのに、無理して笑ったりして。

「今は? ……今も?」

 今も、本当はつらいのに無理してるんじゃ……。

「今は大丈夫。母親の病気も回復に向かってるし、先月、親父さんも新しい勤め先が見つかったって」

「そうなの、良かった」

 元屋先輩はくるっと私の方を向いた。

「もし、台本がなかったら……何も知らずに一年前の桜樹に会ってたら、どうしてた?」

 私はちょっと首を捻った。もう一度さっきのことを思い返してみる。もし、芝居じゃなかったら……。

「芝居だろうが何だろうが、あいつが美映ちゃんの言葉に元気付けられ、心を奪われたのは事実だよ。あいつもいつか気付くんじゃないかな」

「何の話ですか?」

 元屋先輩はにやっと笑った。

「思わず、キスまでしてしまった理由に、だよ」

 ……本当に見えてなかったんでしょうね?

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