夏の小夜曲

〈六月〉日曜日、彼と

 雨模様の休日、お兄ちゃんに付き合ってショッピングモールまで出掛けた。

 最近お兄ちゃんは気になる子が出来て、誕生日にプレゼントを贈るつもりらしい。私に女の子が喜びそうな物を選んで欲しいのだけれど、面と向かっては頼めないみたいだった。それとなくこれはどうかと聞いて来る。私は素知らぬ振りで、適当に相槌を打っていた。そのうちにお兄ちゃんは不機嫌になり、もういいからあっちへ行けと言い出した。勝手なんだから。まあ、いつものことで慣れたけどね。

 エスカレーターに乗った時、携帯電話が鳴った。

 液晶画面を見ると、知らない番号だ。誰だろう? とりあえず、通話ボタンを押してみる。声は聞こえない。何度かもしもしと呼び掛けてみたけれど、返事はなかった。いたずら?

 ……いつまで待っても通話が切れないので、こちらから切った。もう、電源も切っちゃお。そうそう大事な電話が掛かって来ることもないだろう。

 知らない番号には出なければいいのかもしれないけれど、でも、もしかしたら……友達が誰か番号を変えたのかも……番号を間違えて覚えている人がいて、知り合いに掛けているつもりなのかも……などと考えて、結局はいつも通話ボタンを押してしまうのだった。

 一階に降り、携帯電話を鞄に仕舞って出口へ向かう。ふと、扉の脇に立つ男の子に目が行った。

 小柄な男の子……私よりも二つ三つ下の中学生くらい。なかなかかわいい顔立ちをしている。……いや、そんなことはどうでもいい。明らかに具合が悪そうで、壁に寄り掛かって顔に手を当てているのだ。そばに家族らしき人はいない。

 苦しそうに息をしているのを見かねて、声を掛けた。

 彼はびくっとしてこちらを見た。じっとりと汗を掻いた顔は青い。

「大丈夫です。ちょっと気分が悪くなっただけですから」

 彼の出した声はひどくしゃがれていた。放って置いて下さい、と言いたげだ。放って置けるものならそうするけれど……。

 立っているのがつらそうなので座るよう促すと、彼は素直に従った。

 迷惑そうだし、このまま立ち去った方がいいかも――とは考えたものの、体を丸め、くしゃみを繰り返しているのを見ると、やっぱりそれは出来なかった。冷房が利き過ぎているのだ。表の方が暖かいだろう。私は彼を建物の外に連れ出した。

 彼はベンチに座ると、膝の上で組んだ両手に顔を伏せ、動かなくなってしまった。こんな状態の子を見捨てたら、人でなしじゃない、私。

 ——病院に行った方がいいんじゃないかな。今日日曜日だっけ。でも、急患診療所なら……。

 お兄ちゃんを呼びに行こうとした時、頬に冷たいものが当たった。雨が降って来たのだ。慌てて引き返し、彼の手を掴んだ。濡れたら良くない。避難させなきゃ。私はお兄ちゃんから車のキーを預かっていたことを思い出した。車の中なら雨も防げるし、温度の調節も出来る。

 そう勧めたけれど、彼は立とうとしなかった。立てなかったのだ。億劫そうに首を振った。

「歩けません……ここにいます。じき、気分も良くなるから」

 そんなわけないでしょう、と怒鳴りたくなった。さっきより顔色が悪いし、服の上からでも腕の熱さが伝わって来る。ここで雨に当たっていたら、ますますひどくなるだけだ。私があれこれ言うと、ようやく彼は立ち上がった。

 私の手を払い除け、「一人で歩けます」と言ったものの、すぐによろめいて転びそうになる。ベンチの背に手を突いた彼は、駐車場までの距離を測るように眺めたあと、諦めて私に寄り掛かって来た。

 大分しんどそうだったけれど、彼は何とか車まで歩き、中に入った。シートに体を沈めると、ほっとした様子で目を閉じた。眠ったみたいだ。私は急いでお兄ちゃんを呼びに行った。

 ——お兄ちゃんは買い物を終えて、エスカレーターで下りてくるところだった。

 駐車場へ戻りながら、私は彼のことを話した。車を出して欲しいと言うと、お兄ちゃんは嫌な顔をした。

「赤の他人だろ? 何で俺たちがわざわざ病院に連れてってやらなきゃならないんだよ」

 ふらふらで一人では歩けそうにないからだ、と説明しても、お兄ちゃんは首を縦に振らなかった。

「お節介もいい加減にしろよ、舞子まいこ

 何て薄情なんだろう。そんなんじゃ彼女に振られるわよ。……と、言いたいところを我慢してもう一度手を合わせる。でもお兄ちゃんは聞かない。そればかりか、彼が後部座席で寝ていることを知ると、勝手に人の車に、と目を剥き、引き摺り出してやるとまで言い出した。私はお兄ちゃんの腕に縋って止めた。病人なのよ、と怒鳴り付ける。二人で争うように車の前まで行き――。

 ――覗き込んだ後部座席に、彼の姿はなかった。



 一週間経っても、彼の顔が頭から離れない。無事に家まで辿り着いたんだろうか。途中で倒れたりしなかっただろうか。あんなふらふらで、ちゃんと歩けたんだろうか。立っているのもやっとの様子だったのに。

「本当にそんな奴いたの? 煙のように消えたとか、それって幽霊だったんじゃないのー」

 お兄ちゃんが縁起でもないことを言うので、思い切りつねってやった。きっと遠くからでもお兄ちゃんが鬼の形相で近付いて来るのがわかって、怯えて逃げ出したに違いない。かわいそうに。

「赤の他人だろ」って、お兄ちゃんは言ったけど、袖振り合うも多生の縁だよね。あの時お兄ちゃんなんて頼らず、私がおぶってでも病院に連れて行けば良かったんだ。ごめんね。もう元気になったよね。どうか、こじらせていませんように。あ――、どうしてこんなに気になるんだろう。赤の他人なのに……やだ、最初に戻っちゃってる。

 あれから何度もショッピングモールに出向いては、彼の姿を探してしまっている。けれどあれ以来、一度も会うことが出来なかった。元気にしていればいいんだけど……。

 それにしても、毎日暑い。雨が上がり、本格的に夏が始まろうとしていた。

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