〈七月〉約束

 広恵ひろえはぼんやりと目を覚ました。

 いつの間にうたた寝してしまっていたのだろう。頭が重い。ゆっくりと体を起こし、ソファーの脇の鏡を覗いてみた。目が赤くなっている。夜中よるじゅう起きていたせいだろうか。今日は大事な日だというのに。

 そう。ちゃんと覚えている。六年前の約束……。

 ――君原きみはら正次まさつぐは広恵より五つ年上の少年だった。

 心臓の病気でずっと入院生活を送っている彼と出会ったのは、広恵が交通事故で怪我をした時だった。手術が怖いと言って泣く広恵を、彼は優しく励ましてくれた。

「手術をすれば、また元気になれる。俺は手術の日が楽しみだよ」

 そうして広恵は無事手術を受け、元気になった。事故に遭う前よりも活発になったくらいだと母は言った。

 広恵は休みの日になると、親にせがんで病院まで連れて行ってもらった。

 正次は病気とは思えないほど、明るく豪快な人だった。正次との思い出の背景には、いつも大きく青い空があった。

 広恵を見ると大きな手をぶんぶん振って名前を呼んでくれた。

 広恵が正次のお嫁さんになると言ったら、「嬉しいなあ」と顔をくしゃくしゃにして笑っていた。

 正次は広恵に会う度に言った。

「広恵ちゃんは俺を元気にしてくれる。君に会えると、その日一日中、俺は幸せな気分でいられるんだよ」

 広恵は嬉しくなって答えるのだった。

「私も。だって正次くんのこと、大好きなんだもん。これからも会いに来るよ。ずっとずっと、一緒にいようね」

 そんな、ある日――。

「お誕生日おめでとう、広恵ちゃん。ぬいぐるみを作って置いたんだよ。広恵ちゃんはウサギが好きだって言っていたから」

 正次は笑ってぬいぐるみを渡そうとしたが、広恵は黙って俯いていた。

 正次は心配そうに首を傾げた。

「どうしたの?」

「私――」

 広恵はベッドに飛び込むように、正次に抱き付いた。

「――引っ越すの。今日は、お別れを言いに来たの」

 広恵はシーツに顔を埋め、涙声で言った。

「私、嫌だって言ったのに。ごめんね、正次くん。私、ずっと会いに来るって言ったのに」

 泣きじゃくる広恵の頭を、温かい手が包んだ。

「また会えるよ」

 正次は広恵の耳に、囁くように言った。

「約束しただろう? 俺は君をお嫁さんにするって。君が十六歳になったら、迎えに行くよ。そう、今日からちょうど六年後、君の十六歳の誕生日に」

「本当?」

「本当だよ」

 涙でびしょびしょの顔のまま、広恵は微笑んだ。

「約束だよ。六年後の今日、きっときっと迎えに来てね」――

 懐かしい思い出に、広恵はふっと頬を緩めた。

 何年も前の、たった一度きりの約束。それでも、信じていた。正次は嘘なんかつかない。必ず今日、会いに来てくれると。

 広恵は手を洗って料理の準備を始めた。この日のためにたくさん練習したのだ。

 ――確か、正次くんはバターケーキが好きだと言っていたっけ。あんまり甘くないやつ。うん、もう何回も作ってみたから大丈夫。ほら、生地は簡単に出来たでしょ。あとは焼くだけ。スイッチを入れて――。待つ間にハンバーグも焼いて置こう。

 広恵は寝不足なのも忘れてごちそう作りに励んだ。

 正次は何時頃来るだろう。時間までは決めていなかった。まあ、いい。いつ来ても、迎える準備は整っている。

 広恵は正次との約束を守るため、今日まで誰も好きにならないようにして来た。人付き合いも、なるべく避けていた。嫌われても構わなかった。正次さえいれば。正次とまた一緒にいられるなら、それだけで良かった。他のことはどうでも良かったのだ。

 全ての準備を終え、再びソファーに腰を下ろした広恵は、ふと、玄関に目をやった。郵便受けに、一通の封書が差し込まれている。

 こんなに早く、郵便屋さんが来たことなんて、あったっけ?

 時計を見てみる。十時。広恵は立ち上がり、玄関まで歩いて行った。



 広恵へ



 ――お母さんの字だ。

 母には誕生日は家にいないでと言って置いたので、昨日から旅行に行っているはず。どうして手紙なんて……。

 手にした途端、嫌な感じがした。なぜか、読んではいけないような。

 糊が弱かったのか、封筒の封は簡単に剥がれた。広恵は中の便箋を取り出し、ゆっくりとそれを開いた。



 ごめんなさい、広恵。もっと早く言うべきだったのに。

 これまで、何度も何度も言おうとして、広恵の目を見ると言えなかった。  

 許してね、広恵。お母さんの口から言うことは、どうしても出来ない。だから、手紙にしました。

 どうしてもどうしても、あなたの十六歳の誕生日までには知らせなくてはと、重い指を両手で動かして書きました。

 あなたを傷付けたくなかった。まっすぐ、純粋に彼を待っているあなたを見ていると、どうしても……。

 でも、あなたはもう小さな子供ではないはず。落ち着いて、事実を受け止めて下さい。あなたの待っている君原正次くんは、五年前に亡くなりました。十六歳でした。手術は成功しなかったのです。

 今まで言えずにいてごめんなさい。どうか、早く立ち直って。



 同じところを何回も見返しながら、最後まで読んだ。目を上げ、息を整える。それから、もう一度読もうとしたが、手の先に文面はなかった。広恵は便箋を取り落としていた。

 ――え……何? 何のこと? 意味がわからない。どういうことなのかわからない。

 正次くんが、死んだ――死んでいた? 私が会うのを心待ちにしていた間、もう既にこの世にはいなかった。

 広恵は両手で顔を覆った。

 母の言葉が頭の中で繰り返し渦巻く。

 正次くんは、亡くなりました――亡くなりました――。

 広恵は長いことその場に座り込んでいた。目は便箋に落としたまま、両手を強く握り合わせて。

 正次くん……。また会えるって信じていたのに。今日、会いに来てくれるって……約束したのに。

 弾かれたように、広恵は立ち上がった。台所へ向かう。あった。さっき、りんごを剥くのに使った包丁。

 ――俺、広恵ちゃんをお嫁さんにするよ。

 正次の明るい声が耳に蘇る。

 広恵は包丁を両手で握り締めた。

 私の六年間は一体何だったの? 正次くんを待って、待って待って、六年間、正次くんのことだけを考えて来た。正次くんの存在が消えたら、私の存在も消えてしまったのと同じ。もう何もない。

 思い切り包丁を振り上げた、その時――。

 広恵は手を止めた。

 初めてじゃない。この感じ……。確かに前にも同じことをした。心の底から死にたいと思って、包丁を握った。気のせいじゃない。でも、どうして……。

 ポーン、と玄関の呼び鈴が鋭く鳴った。少なくとも、広恵にはそう感じられた。飛び上がったほどだ。我に返って床を見て、ぞっとした。包丁が足下に落ちている。今、これで胸を突こうとしていたのだ。

 ポーン。

 再び呼び鈴が鳴った時、広恵は足をもつれさせながら、玄関まで走って行った。

「ハッピーバースデー!」

 ドアを開くと同時に、威勢のいい声が響いた。クラッカーの紙吹雪が頭の上に降って来る。目の前には、リボンの掛かった箱やら花束やらを抱えた人、人、人……。みんなバイト先の先輩たちだった。

「十六歳おめでとう、広恵ちゃん。これ……プレゼント」

 広恵は差し出された紙包みを、ただただ呆然と眺めていた。

「広恵ちゃん?」

「受け取ってやってよ。こいつ、妹付き合わせて店何軒も回って必死で選んだんだぜ」

「今日の言い出しっぺもこいつだし」

「ちょ……何で言うんだよ」

「照れてるよ、こいつ」

 先輩たちの笑顔を見ながら、広恵は思い出した。

 ――そうだわ。私は昨夜、あの手紙を見つけて読んだんだ。泣いて泣いて絶望して、包丁を手にした。

 それなのにどうして、ソファーで眠ったりしたんだろう。どうして手紙の内容を、忘れてしまったりしたんだろう。

 広恵は何かを聞いた気がして振り返った。

 窓の外に、正次の姿があるように見えた。七月の光に包まれた青い空の向こうに。

 ――笑ってる……。

 あなたがやったのね……。私に、自分の分も生きろって、そう言いたくて。

 窓の方を向いて動かない広恵を、先輩たちが心配そうに見つめる。

 今の友達を大事にしろって、そう言いたいのね。

 窓の向こうの正次が、微かに頷いて消えて行った。そして、広恵はその声を聞いた。

 俺の分も生きてね、広恵。君が元気でいると、俺は永遠に幸せな気持ちでいられるんだよ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る