〈八月〉二人で紅茶を飲みながら

 夏の日差しが照り返していた。今日もいい天気になりそうだ。

 白樺並木の道を空を見ながら歩いて行くと、坂の上にかわいい家が見えて来た。――今日からあそこが私のおうち。白い壁と緑の屋根の……あれ?

 家の前に誰かいる。男の子だ。私より三、四歳年上っぽい感じ。この家の子かしら?

「こんにちは」

 男の子が挨拶したので、私もさっとお辞儀を返した。

「こんにちは。私、エリカよ。今日から夏休みの終わりまで、ここで暮らすことになったの。あなたはこの家の子?」

 男の子は微かに笑った。

「そうだよ。レイっていうんだ」

「おじさんとおばさんはいらっしゃる?」

「今は誰もいないけど、もうすぐ帰って来ると思うから、入って待っておいでよ」

「ありがとう」

 屋根と同じ緑に塗られたドアを開けると、中からはパンの匂い。

「お茶を飲む?」とレイが尋ねる。

「ええ。……あっ、待って。私が淹れるわ。紅茶を淹れるの、得意なのよ」

 食器棚にはジャムやコーヒーが並んでいる。

「紅茶の葉っぱは……あ、これね」

 しばらくすると、パンの匂いに混じって、甘ーい紅茶の香りが漂い始めた。

 私は二人分の紅茶をテーブルに並べた。

「いい匂いだ」

「さ、いただきましょう」

「ちょっと待って」

 レイはカップに伸ばし掛けた手を止め、ポケットから小さな懐中時計を取り出した。

「ごめん。もう行かなきゃ。時間が……」

「大丈夫よ。私、一人で待てるから」

「ごめんね。それじゃ」

 レイが出て行き、しばらくするとドアが再び開いた。

「あ! おじさん、おばさん。お帰りなさい」

「おや、もう来てたのかい?」

「ええ、おばさん、紅茶お飲みになる?」

 お茶が済むと、私は食器の片付けを始めた。

「この家、結構広いのね」

「狭いくらいだよ。三人もいるんだからね」

「えっ、じゃあ私が増えたら、もっと狭くなっちゃうわね」

「……あんたを入れて三人だよ」

「四人でしょう。私とおじさんとおばさんと、それにレイ」

 おばさんの顔色が変わった。

「屋根裏に行ったのかい? 肖像画を見たんだね」

「屋根裏? いいえ」

「ならどうしてレイのことを知っているんだい?」

「さっき会ったからよ。家の前にいて、私を中に入れてくれたの。何か用事があって出掛けちゃったけど」

 おじさんとおばさんは顔を見合わせた。

「ケンゴかジュンヤだろう。あのいたずらっ子が」

 おじさんが低い声で呟いた。

「ケンゴとジュンヤ?」

「近所の悪ガキだよ」

「じゃあ、私騙されたの?」

「どうやらそのようだね」

 ため息をつきながらおばさんが言った。



 洗い物を終えて外に出ると、いい気持ち。今度川に泳ぎに行こう。

「君! 君!」

 誰かが呼んでる。振り向くと、二人の男の子が走って来るのが見えた。

「なあに」

「君、アンナおばさんのとこに来た子だろ」

「ええ。あなたたちは?」

「俺、ジュンヤ」

「俺はケンゴ」

「よろしく。……ねえ、このへんに川はある?」

 二人は顔を見合わせた。

「一番近いところに案内するよ。付いておいでよ」

 それから私たちは川で遊んで、日が暮れた頃に帰って来た。

 ケンゴとジュンヤにさよならして家に入ると、おばさんが言った。

「どっちだい?」

「何が?」

「ここへ来た時レイの振りをした子だよ」

「あの二人じゃないわ」

 私は流しで手を洗いながら答えた。

「今夜のお食事、私が作るわ。お鍋はある?」

「屋根裏だよ」

 屋根裏は薄暗かった。お鍋は柱と柱の間に隠れていたけれど、すぐに見つかった。お鍋を持ち上げた時、脇にある絵が目に入った。

「まだ見つからないのかい?」

「おばさん」

 絵を見たまま私は呼んだ。

「どうしたってんだ」

 おばさんはぶつぶつ言いながら上がって来た。

「おばさん。――この子よ」

「エリカ」

 逆光で顔は見えなかったけれど、おばさんの声は固かった。

「この子は、レイは十二年前に死んだんだよ」



 それから四、五日は何事もなく過ぎた。

 八月の二週目の終わりに、おじさんとおばさんがお友達のパーティーに呼ばれた。

「なるべく夕方までには帰るけどね、お昼をきちんと食べるんだよ。それから戸閉まりを忘れないようにね」

「わかってるわ、おばさん。私ももう十二歳だもの。何もかもちゃんと出来ます」

 おじさんおばさんが出掛けると、私は家中の掃除を始めた。

「きれいにして置いて、びっくりさせちゃうの」

 私が雑巾掛けに夢中になっていると、誰かが後ろから肩を叩いた。

「やあ」

「まあ、レイ! どうしたの?」

「週末だし、時間の都合も付いたから、帰ってみたんだ。父さんと母さんは?」

「お出掛けよ。お友達にお呼ばれしたの」

「そうかあ 、残念だな。久し振りに戻ったのに」

「ねえ、この間飲み損なった紅茶、一緒に飲みましょう。今箒を片付けて来るから」

 私は手早く掃除を済ませた。

 屋根裏に箒を仕舞いに行き、何気なく絵を見ると、描いてあったはずの男の子の姿がなくなっていた。真っ白なキャンバスがあるだけだ。

「どうぞ」

「ありがとう」

 レイはお礼を言って、私の淹れた紅茶を飲んだ。

「おいしい。こんなにおいしいお茶は初めてだよ」

「そう言ってくれると嬉しいわ。……あら、誰かが来たみたい。ちょっと待ってね」

 ドアを開けると、ケンゴとジュンヤが笑っていた。

「あら。いらっしゃい」

「おばさんたちが出掛けたって聞いて、一人で寂しいんじゃないかと思ってさ」

「一人じゃないわ。レイが帰って来てるの」

「レイだって?」

 ケンゴとジュンヤは顔を見合わせた。

「この間いたずらしたって奴だな! とっちめてやろうぜ、ケンゴ」

「ああ、そいつのおかげで俺たちアンナおばさんに疑われたんだから!」

 二人はずかずかと家に入って来た。けれど、そこにレイの姿はなかった。テーブルの上にティーカップが二つ並んでいるだけ。

「……誰もいないじゃないか」

 私は少し考えて――ああ、そうか。わかったわ。

「きっと絵の中に戻ったのよ」

「絵?」

「来て。屋根裏にあるの」

 私は屋根裏に上ると、あとから付いて来たケンゴとジュンヤに両手を広げて指し示した。

「ほら」

 屋根裏部屋の片隅に置かれた小さなキャンバスに、微笑みを浮かべてこちらを見ている少年がいた。

 よくわからないでいるケンゴとジュンヤに、私は一緒に紅茶を飲まないかと勧めた。

「……今日は遠慮しとくよ」

「ジュンヤは?」

「俺も。……一人で大丈夫?」

「ええ。来てくれてありがとう。おやすみなさい」

 二人の姿が白樺並木の向こうに消えるのを見届けて家に入ると、テーブルにレイが座っていた。

「本当においしいね、この紅茶。もう一杯いいかな? おいしくてたくさん飲めちゃうよ」

「そうでしょう」

 私も席に戻って紅茶をすすった。

「一人で飲んでもおいしくないもの」

 レイはしばらく黙って紅茶を飲んでいたけれど、やがて言った。

「もうそろそろ行かなきゃ」

「明日の朝までいられないの? おじさんたちが帰って来るのに」

「でも、時間がないから」

 そう言ってレイは立ち上がった。

「ごめんね、エリカ。それじゃ」

「また、一緒に紅茶、飲みましょうね」

「うん」

 嬉しそうに微笑んで、レイはドアの向こうに消えて行った。



 翌朝、帰って来たおじさんとおばさんに、私は報告した。

「ゆうべレイが帰って来たのよ。一緒に紅茶を飲んだの」

 おばさんは私を睨んだ。

「しつこいよ、エリカ。もうその冗談は聞きたくないね」

「あら、ほんとよ。レイはまた一緒に紅茶を飲む約束をしてくれたもの」

「いいから黙っとくれ。私たちは疲れているんだ」

 おばさんは吐き捨てるように言うと、自分の部屋に入ってドアを閉めてしまった。

 おばさんたら、信じてない。――でもいいわ。これは私だけの秘密。

 きっとレイはまた遊びに来てくれるわ。そして、一緒に紅茶を飲むの。紅茶の缶を買って置かなくちゃ――レイはいつ来るかわからないもの……。

 私は流しに立って食器の後片付けを始めた。

 次にレイと会ったら話したいことがたくさんあるの。二人で紅茶を飲みながら……ね。

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