秋の鎮魂曲
〈九月〉彼女は雨の中で
もう何日も大学に行っていない。
この夏の猛暑ですっかり体力が落ちていたところに、急に冷え込む日が続いたせいで、体調を崩してしまったのだ。情けない。ほんの数か月前にも同じようなことがあったばかりだというのに。
窓から見える灰色の空が、あの日の空に重なる。
そう。あれは夏の始めのこと――。
その日は朝から調子が悪かった。俺は一人暮らしで、近所に知り合いもいないため、家の仕事は全部自分でこなさなければならない。隣町に住んでいる母さんにも、よっぽど重症な場合以外頼れない。そして今日、どうしても足りない物があってショッピングモールまで足を運んだのだが、入り口で動けなくなってしまった。
通行の邪魔にならないよう柱の陰まで行き、助けを求めようと携帯電話を取り出す。——母さんの携帯の番号はいくつだった? 普段はすぐ浮かぶのに、頭が朦朧としてなかなか思い出せない。こんなことならアドレス帳に登録して置くんだった。大学に届け物をしてもらう時も、自力で打って不便はなかったし、覚えているんだから必要ないと思っていた。
四苦八苦しながら、どうにか最後までキーを押すことが出来た。呼び出し音が鳴り始めた途端眩暈がして、慌てて壁に寄り掛かった。手の甲を額に当て、息を整える。
「大丈夫?」
細い声がした。
手をどけてみると、高校生くらいの女の子が、心配そうにそばに立っていた。
「気分が悪いの?」
顔が熱くなるのを感じた。——出来れば放って置いて欲しかった。恥ずかしくて堪らない。穴があったら入りたい。
「すごくつらそうよ。座った方がいいんじゃない?」
どうやら年下扱いされているようだ。俺は童顔だし、背も低いので下手をすると小学生に見られるということは承知していた。小さいと思われていた方が気が楽ではあるが……。
「ほら、こっち」
彼女は俺をベンチまで連れて行った。座ると眩暈は治まったが、冷房が直に当たって震えが止まらなくなった。何度かくしゃみをしていると、彼女も気が付いたようだ。
「ここは寒いね。外に行こうか」
まだ六月だというのに、暑い日が続いていた。今日は曇り空とはいえ気温が高い。外はむっとするくらいだったが、寒気は去らなかった。かなり熱が上がって来ているようだ。入り口前のベンチに腰を下ろすと、もう限界な気がした。じっとしていれば良くなると信じつつ頭を低くし、荒い息をしているうちに、雨がぱらつき出した。何とも運が悪い。
彼女は俺を立たせようとした。
「うちの車、すぐそこだから。中で横になるといいよ」
俺は歩けないからと言って、首を振った。事実だったが、それ以上に女の子の肩を借りるなんて絶対嫌だったのだ。
「だめよ、濡れると悪化しちゃう。ね、少しだけ頑張って」
俺は渋々立ち上がった。一人で歩こうとするとふらついて、彼女が横から支えてくれた。ひどく気持ちが悪い。格好付けている場合ではなさそうだ。彼女に寄り掛かり、足を引き摺りながらどうにか駐車場まで辿り着いた。車の中で背もたれに体を預けると、瞼が勝手に落ちて来た。
——怒鳴り合う声が聞こえ、けだるい眠りから覚めた。
ここはどこだったっけ? と、一瞬きょろきょろする。記憶はすぐに甦った。不覚にも、あのまま寝入ってしまったらしい。車の窓から夕日が差し込んでいた。さっきよりいくらか気分がましになっている。
駐車場の向こうから、彼女が誰かと揉めながら近付いて来るのが見えた。相手はどうやらこの車の持ち主のようだ。恋人だろうか? 見知らぬ男がシートに収まっているのを見たら、さぞ怒るだろう。俺は慌ててドアを開けた。雨は止んでいた。
ふと目を落とすと、見慣れないカーディガンを手に持っていて、少しうろたえた。これは——そうだ、眠っている間に体の上に掛けられていたのだ。——彼女が掛けてくれたのだ。
返すべきだと思ったが、頭に血が上っていて一刻も早く逃げ出したかったので、カーディガンを握ったまま駆け出した。
家に帰った時は、少し吐き気がしていた。すぐさまベッドに直行すると、朝まで目が覚めなかった。
一晩眠って熱はすっかり下がったが、代わりに深い後悔に襲われた。
恥ずかしかったからといって、親切にしてくれた女の子にぞんざいな態度を取ってしまった。ろくに礼も言わなかった。その上、挨拶もせずに逃げ出したのだ。さぞ恩知らずな男と思ったことだろう。次に会ったら謝って、カーディガンを返して……いや、もう会うことなどあるまい。せめて名前と電話番号ぐらい聞いて置けば良かった。
恨めしげに携帯電話を取り出す。そうだ、母さんの番号を登録して置こう。またいつ緊急事態に遭遇するかわからない。後から悔やむのはもうごめんだ。昨日の発信記録からアドレス帳へ登録ボタンを押す。それから、長いため息を吐き出した。この母さんへの通信も、彼女に会ったことで放ったらかしになってしまった。何があったのかと心配しているかもしれない。あとで連絡を入れて置かなければ。
——いつの間にか、窓の外では雨が降り出していた。あの日と同じ細い霧雨だ。あれからまだ、二か月ちょっとしか経っていないのだ。
少しでも眠って体力を回復させたいと思うのだが、頭痛と吐き気がひどくて眠ることが出来なかった。どうしてもっとちゃんと体調管理が出来ないのか。本当にぼんくらでどうしようもない。「
あの日の彼女の顔が浮かんだ。雨の中で、心配そうに覗き込んで来た優しい顔。きりっとした瞳の、それでいて温かな眼差し……いい子だったな。本当に悪いことをした。今度会ったら——もう会うことなどないだろうが、もしまた会えたら、その時は……その時は……。
……息が苦しくなって来た。シャツは汗でぐっしょり濡れている。体に力が入らない。当たり前だ。ここ数日ろくに食べていないのだから。このままでは悪化する一方だ。何とかしなければ。何とか……もはや自力で何とか出来る状況ではない。観念して、母さんに助けを求めよう。結局、何か月も連絡しないままになっているが……。
さっきまでは全身が燃えるようだったのに、今度は猛烈な寒気に襲われていた。が、幸い吐き気は治まったようだ。
携帯電話を取り出し、母の番号を呼び出す。発信ボタンを押すと、一旦横になって呼吸を整えた。
「もしもし……」
母の声が聞こえるものと思っていたため、耳に届いた細い声に心臓が飛び上がりそうになった。大袈裟かもしれないが、すっかり神経過敏になっていたのだ。
すみません、間違えました……と言おうとして、途中で思い切り咳き込んでしまう。
「大丈夫?」
相手の心配そうな声。――どこかで聞いた覚えがある……。
俺は激しく喘ぎながら、ひたすらすみませんと謝っていた。
「ねえ」
聞き覚えのある声が、おずおずと問い掛けて来る。
「そのがらがら声、聞き覚えがあるんだけど……」
ああ、こんな偶然があるだろうか。
「あなた、もしかして……」
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