〈十月〉これまでとこれから
「
俺の彼女である
「あなたとのお付き合い、やめにしたいの」
彼女はまず、こう言った。
冷たい言葉と、鋭くこちらを睨み据えた目。まるで俺を憎んでいるかのようだった。
一瞬、あまりのショックに声が出せなかった。
「え、な、何で? 昨日大好きだって、言ってくれたばかりじゃないか」
「昨日は昨日よ。今日の私は昨日の私とは違うわ。今日から、私はあなたが嫌いになったの。それならわかるでしょう」
「そんな……わけを言ってくれよ。悪いところがあるなら直すから」
俺が引き寄せた手を、留亜は激しく振り払った。
「特別な理由なんかないわ。とにかく今は、あなたが嫌いなの」
言い捨てて、彼女はその場から立ち去った。何でだよ。わけわかんねえよ。
その後は、本当にわけのわからないことばかりが続いた。
百歩譲って振られたことはまあ、仕方がないかなと思う。人の心は移ろうものだ。でも、いくら付き合いを断ったからと言って、何でこんなに冷たくされるんだろう。声を掛けても無視するし、一緒にいても口も利こうとしない。それどころか、用のない時は逃げて行ってしまう。気に障ることをした覚えはないのに。
彼女が変わったのは、誕生日の次の日だ。その日に何かしちまったのか? 前の日に、留亜は何て言ってた?
そうだ。あの言葉……。
「明日になっても、私があなたのこと大好きだって、それだけは信じていて欲しいの」
彼女は確かにそう言った。なのに、次の日には……。
何かわけがあるのか? 俺に冷たくするのは本心じゃない?
「今日の私は昨日の私とは違うわ」
それってまるで、別の人間の魂が彼女の中に入り込んでしまったかのようじゃないか。
俺は首を振った。
ばかばかしい。そんなこと、あるわけがない。
「……待てよ」
そう言えば、留亜は最近、近所に越して来た男とよく一緒にいた。幼なじみだったか親戚のお兄さんだったか……とにかく小さい頃の知り合いだって話だった。
あいつだ。あいつが怪しい。大学生くらいだけど、大学には行っていない様子で、この一年で三回住所が変わったとか言ってた。犯罪者かもしれない。あいつが何かしたんだ、きっと。そうに違いない。
そこまで考えた時、電話が鳴った。咄嗟に受話器を取ると、相手は俺の名前を呼んだ。そして、今から公園に来て欲しいと告げた。何でこんな遅くにとか、何の用なのかとか、何でわざわざ家の電話に掛けたのかとか、考える前に俺は声の主に従っていた。その声が、留亜の声だったから。
俺が指定された公園に着いた時、留亜は既にそこにいた。俺の姿に気付くと、彼女は泣きそうな表情を浮かべ、走り寄って来た。
「半二!」
「留亜」
俺は留亜をしっかりと抱き止めた。
「何があったんだよ。こんなに薄着で……風邪でも引いたらどうするんだ」
上着を掛けてやると、留亜は潤んだ目で俺を見上げた。
「良かった、会えて。もうどうしたらいいかわからなくなっていたの。でも、彼女が思ったより早く眠ってくれたから」
彼女は息と一緒に言葉を吐き出した。わけがわからなかったが、問い詰めることはせず、俺は留亜が続きを話すのを待った。
「ごめんなさい、半二。私、大丈夫だと思ってたの。彼女があなたにあんな態度を取るとは思わなかった。彼女も私なんだし」
「彼女?」
まだ良く飲み込めない。俺はただ首を傾げるばかりだった。
「彼女も、きっとあなたを好きになってくれると思ったのよ」
ごめんね……と、留亜は繰り返した。
「言って置けば良かった。ごめんね。私に残された、最後の日に言うべきだった」
寂しそうな口調だった。まるで全てを諦めてしまっているかのような。
「留亜?」
髪を静かに撫で上げてから、留亜は俺を見つめた。悲しい時、彼女のする癖だ。
「十月一日――留亜の十五歳の誕生日が、私に与えられた年月の最後の日だったの」
留亜はつらそうに俺の手を握り締める。離れたくない、と彼女の目が訴えて来る。けれどそれはいけないことだ、とでも言うように、彼女は俺の手を離し、背を向ける。
「私、本当は双子として生まれるはずだったらしいの」
「え……?」
「でも、双子の片方は、生まれる前に死んでしまったんだって」
留亜がベンチの方へ歩き出したので、俺もあとを追った。彼女の後ろ姿が、今にも消えてしまいそうに見える。不安と恐怖が湧き上がって来る。
「魂はニつあるのに、体は一つになってしまった――だから、二人で一つの体を分け合うことになったんだって――二か月くらい前、もう一人の留亜が現れて、教えてくれたの」
心臓が早鐘を打ち始めた。――何を言ってるんだ? 何ばかなこと言ってるんだよ、留亜。
「最初の十五年が姉になるはずだった私。これからの十五年は、妹が留亜の体に宿り、留亜の人生を生きるんだって。次の十五年は私の番。また十五年経ったら妹の番」
悪い夢のような話だ。信じられない。
俺は茫然と留亜を見つめた。
ばかばかしい。ばかげてる。そんなばかなことが……。でも、留亜が変わってしまったのは事実だ。こんな嘘をついて、人をからかうような奴じゃないし……。それに、あの留亜の泣き出しそうな目と、悲しい後ろ姿を見てしまったら……信じたくなくても、信じるしかない。
「拒否することは出来ないのか?」
やっとの思いで、俺は言葉を絞り出した。
「……うん。そしたら無理矢理私を追い出して、二度と戻れないようにするって……」
何だよ、それ。完全に脅しじゃねえか。
「十五年経ったら、また君の番が来るんだな?」
「うん。それまでに、留亜が死ななければ、だけど」
「わかった」
俺はそっと留亜の手を取った。
「十五年、待つ。また君と会える日まで、十五年間、俺は待つよ。十五年経てば、次の十五年、俺たちは一緒にいられるんだろ?」
「半二……!」
「待つよ。ずっと」
留亜は目に涙を溜めて、俺に抱き付いた。
「ああ、半二……」
十五年。気の遠くなるような長い年月だけど、俺は留亜が好きだ。十五年後も、きっと好きだ。だから、待つ。待てるよな……きっと。
その、翌日の昼休み。
留亜――多分、妹の方の留亜が、俺のクラスにやって来た。
何を言われても、どんなに冷たくされても我慢しよう……俺は彼女が机の前に立つのに合わせて立ち上がった。
「来て欲しいの。ちょっと……屋上まで」
何週間か振りに話し掛けてくれたものの、口調は冷たいままだった。俺は黙って頷いた。
「ずるいわ、あなた!」
屋上に着くなり、留亜は用件を言った。……と言うか、怒鳴った。
「ゆうべ、留亜と会ったわね」
バレてるのかよ……俺は唇を噛んだ。
「知ってるわ。とぼける必要はないわよ。今日は一日何だかだるくて……すぐに思い当たったわ。あなたが留亜を連れ出したんでしょう」
留亜は俺の反応を確かめるように間を置いた。
「ずるいわよ。あなたたちの番は終わったの。今度は私と
俺には何も言えなかった。
一緒にいられないとわかっていても、俺は常に留亜の姿を求めていた。近くにいる時は目で追い、見失うといそうな場所を探し、ついにはあとをつける始末だ。これじゃあストーカーだよ。
この角を曲がってもう一度留亜の様子を見たら引き返そう。そう思って足を進めたが、角を曲がったところで、俺は立ち竦んでしまった。留亜はあの男と一緒にいた。幼なじみだか親戚のお兄さんだか……。
「夢藤さん」と、留亜が親しげに、嬉しそうに呼び掛ける声が聞こえた。
夢藤……?
確か昨日も、留亜はその名前を口にしていた。「今度は私と夢藤さんの番なのよ」、と。
――そうか。そういうことなのか。
ショックだった。覚悟していたつもりだったのに。
中身が留亜でないとはいえ、留亜が他の男と仲良くしているのを見るのはつらい。ああ、これから十五年、ただ待つしかないのか。留亜が他の男と仲良くしていても、ただ見守るしか……。
うっかりくしゃみをしてしまい、留亜に気付かれた。彼女はあからさまに嫌な顔をした。夢藤も留亜の視線を追ってこちらを見る。
「知り合い?」と、彼が留亜に尋ねた。
俺は顔を背けた。すぐにも逃げ出そうと思ったが、出来なかった。
「何かご用ですか?」
夢藤が気遣うような笑みを浮かべて近付いて来る。
しかし、留亜には俺を気遣う気は毛頭ないようだった。
「放って置きましょう、夢藤さん。あの人、いつも私に付き纏って鬱陶しいのよ。この世からいなくなってくれればいいのに」
彼女の言葉は、氷のように冷たい声は、俺の胸を容赦なく抉った。
夢藤は驚いたような顔をして留亜を見た。
「何てこと言うんだ。君はそんな子じゃないだろう」
留亜はびくっと身を震わせた。
「君らしくないよ。どうしたんだ? 何かあったのか?」
留亜の顔を見て、夢藤は諭すように優しく言った。
「どうして……? 私は留亜よ」
留亜の頬を、一筋の涙が伝う。
「私の方が、ずっと本当の留亜よ。だって、私は気付いたもの……夢藤さんの気持ち。留亜に対する、夢藤さんの大きな愛を」
顔を覆って泣き出した留亜を、夢藤は戸惑いの表情で見つめた。
「君は、誰だ?」
「もういいんだ!」
俺は声を上げて夢藤の言葉を遮った。今は別人だとしても、留亜の苦しむ姿を見るのは嫌だった。
「泣かなくていいよ、留亜。俺は待つって決めたから……十五年、俺も待つから……」
夢藤がぱっと俺を振り返った。目を見開き、また留亜に視線を戻す。
「……そうか」
呟いてから、夢藤は空を見上げた。
「雨が降りそうだね。ここは寒いし……二人共、うちにおいで」
結論から言うと、夢藤って奴は、いい奴だった。犯罪者かと疑って悪いことをした。
小さなアパートに俺たちを連れて行き、お茶とお菓子を出してくれた上で、俺と留亜から事情を聞いた夢藤は、とても優しい表情を浮かべた。悲しそうとか、つらそうとか、困ってるとか、そういうんじゃない、どれとも違う、穏やかな、思いやりに満ちた表情。その瞳の奥から、夢藤は留亜を見据えた。
「留亜、聞くよ。今、心の奥に閉じ込められてしまっている君に」
留亜が顔を上げた。
「本当の気持ちを言って。僕と半二くんと、どっちが好き?」
「決まってるわ。私は夢藤さんが……」と言って、留亜は夢藤の方を向いた。が――。
「私は、私が好きなのは半二です。誰よりも、一番、半二のことが好きです」
夢藤を見つめていた眼差しが、俺の方へ向けられ、夢藤を掴もうとしていた腕が、俺に向かって差し出された。
「留亜」
勢いよく抱き付いて来た留亜を、俺は両手で受け止めた。支え切れず、そのまま二人は畳の上に倒れ込んだ。
夢藤が微笑む。
「それでいいんだよ、留亜」
「どうして……」
彼女の震える声には、二人の留亜が混じっていた。
「私は、夢藤さ……半二が好きなの。……っ! 邪魔しないで、留亜! あなたの番は終わったのよ。今の私は夢藤さんが……半二が好きなの」
「君にとって、半二くんに対する気持ちは、決して消し去れないものだったってことだよ」
「そんなはずない! 私は夢藤さんが……半二が……好き……」
留亜は夢藤の微笑みを、縋るように見つめた。
「どうして? なぜ私より、前の留亜の気持ちの方が強いの? 同じ留亜なのに。今は私が留亜なのに」
「それは違うよ。君が留亜に及ばなかったのは、紛い物の留亜だからだ」
「紛い物?」
夢藤は静かに笑って、静かな口調で告げた。
「留亜に双子の妹なんていないんだよ。君は、留亜が罪の意識から作り出した幻なんだ」
「罪の意識?」
「そう。君は僕が君のお母さんと話しているのを聞いたんだね。それで、少し思い違いをしてしまったのかな。双子の妹は生まれて来ることも出来ず死んでしまったのに、自分だけが幸せを独り占めにしていると。それでいいのか、と。だからもう一人の留亜を作り出した」
「どうしてそんなことがわかるの?」
「君が僕の妹だからだよ」
留亜は言葉を失った。
「事情があって、僕の家では妹を育てることが出来なかったから……そして君の両親は、娘を亡くして悲しみに暮れていたから……だから僕の妹を、君の両親の養女にしてもらうことになったんだ」
窓を揺らす風の音は、小さい子供の泣き声のようだった。枯れ葉の舞うかさかさという囁きも時折混じって聞こえる。
「ちょっと様子を見るだけのつもりだったのに、君のお母さんに会ったら、つい、話し込んでしまって……二人につらい思いをさせてしまって悪かったね」
夢藤は手を伸ばし、留亜の頬に触れた。その手に、留亜が自分の手を重ねる。
「お兄ちゃん……なの? 夢藤さんが、私の……」
嗚咽混じりに留亜が呟く。
「良かった。君は留亜だね」
悲しいくらい優しい声で四谷は言った。
「良かった。君に会えて。……二度と会えないかと思った」
「ごめんなさい……私……」
俺は完全に蚊帳の外だった。けど、嫉妬する場面ではないとわかっていたので我慢した。
夢藤が留亜から離れて壁を見上げた。
「あ、もうこんな時間か。二人共、帰った方がいい。暗くなる前に……」
何とはなしに、俺の視線は夢藤の視線を追って壁に吸い寄せられた。
小さな部屋の壁には、いくつか小さな絵が掛けられていた。桜の絵。夕焼け色に染まった海の絵。それから、白いカーテンを背景にした椅子の絵。無人の椅子……だけど、まるで今の今まで誰かが座っていたように見える……。
「それ、あんたが描いたのか?」
振り向いた夢藤は、少し恥ずかしそうにした。
「普段は鞄に仕舞ってあるんだけど……」
その顔が、なぜか強く印象に残った。
部屋を出る寸前、夢藤は俺を呼び止めて、「留亜をよろしくね」と言った。その言葉には様々な意味が込められていたように思う。この人はきっと、誰にも言わないで、ふいと姿を消してしまうのだろう。
俺は神妙な顔で頷いた。
「もちろんです。誓います」
この先十五年、話も出来ないかもしれないと覚悟したことを思えば、これから何があっても乗り越えられる気がした。そうだ。留亜と一緒にいられるなら、それだけで……。
俺は夢藤に背を向けると、玄関口で待っている留亜の方へ、力強く一歩を踏み出した。
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