〈十一月〉青の彼方へ

 僕が小さい頃、父はよく海の話をした。大きな船に乗って、あの青の彼方へ、旅立つのが夢だったと。

「父さんは昔、船乗りになりたかったんだよ。大きな白い帆船の、船長にね」

 生き生きと、目を輝かせて語るんだ。

「でも、体が弱くて無理だと言われたから諦めた。努力はしたんだよ。倒れるまでやった。結局は周りに迷惑を掛けるだけだと悟ったんだけれどね」

 父は夢を実現出来なかったけど、その代わり、夢を絵として形にした。絵の中で父は意気揚々と船出して、遠い異国へ行った。色々な国で、色々な人に会い、色々な経験をした。父の夢はキャンバスの上で現実になり、父の夢は絵筆の力で叶えられたんだ。

「絵の中なら、父さんはどこへでも行けるんだよ」

「シンドバッドにも、ロビンソン・クルーソーにもなれるんだ。本当に、夢みたいな話だろう?」

 父は幸せそうだった。どんな形でも、夢は叶うんだよと、僕の頭を撫でてくれた――けれど、そんな父は、僕が中学生になる頃にはもういなくなってしまっていた。



「ドライブに行こう」

 僕が中学三年の秋、十一月の、最後の日曜日だった。突然父が僕に言った。

「今日はいい天気だ。もうずっと出掛けていないだろう? 気晴らしに二人で遊びに行こう」

 大丈夫だろうか。僕は心配になった。父はもう何年も車に乗っていないし、まともな健康状態じゃない。もし、運転を間違えたら……。

 でも、父が嬉しそうに、「行こう、行こう」と言うので、僕は断れなかった。

 暖かい日だった。本当に、その季節には珍しく、陽射しは明るく、風は穏やかだった。そう。木々はすっかり裸になって、一面落ち葉の絨毯になっていた。不思議だね。もう何年も前のことなのに、まるで昨日のことのように、鮮明に思い出せる。

 車はひどくのろのろ走った。時々、不意にスピードが上がったり、斜めに進んだりする。

「お父さん、どこに行くの?」

 父は答えなかった。その横顔は、静かに微笑んでいるように見えた。

 父はいつでも微笑んでいる人だった――悲しい時でも、困っている時でも。周りに心配を掛けたり、嫌な思いをさせたりしたくなかったんだ。父は誰にでも親切で、みんなに手を差し伸べた。信じていた友達に裏切られた時も……。

「お父さん、そろそろ帰ろう」

 僕は運転席の父に声を掛けた。

「疲れたでしょう? もう充分だから……お父さん?」

 父は何も答えず、そのまま車を走らせ続ける。外の景色が流れて行く。どこへ向かっているのか……。

 やっと車が停止した場所は、風の通る草原だった。父が車から降りたので、つられるように僕も外に出た。花と風の匂いが顔を覆う。体中を覆う。突然、父が駆け出した。

「お父さん!」

 僕は慌ててあとを追った。

「お父さん、どうしたの?」

 追い付けなかった。父はどんどん駆けて行く。転ばなかったら、どこまででも駆けて行ったかもしれない。

「お父さん、大丈夫?」

 呼び掛けながら父の傍らに寄り、僕は息を切らしてその顔を覗き込んだ。

 父は泣いていた。

 僕には何も出来なかった。どうすればいいのか、何を言ってあげればいいのかわからなかった。ただそっと手を伸ばし、父の手に触れた。繋いだ手を伝わって、父の悲しみが自分に流れ込んで来ればいいのにと願った。移った分だけ、父の苦しみが軽くなるように。父の痛みが、和らぐように。



 しばらくして、父は体を起こした。

「すまなかったね」

 僕は首を振り、「ここはどこなの?」と聞いた。

「わからない。随分遠くまで来てしまったから。少し歩いてみよう。帰り道を探さなければ」

 父は来た方と反対の方へ歩き出した。車のところに戻るつもりはないようだ。もう、どこに置いて来たのか忘れてしまったのかもしれない。

 木々の間を擦り抜け、茂みを掻き分けながら進むうちに、道らしきものが見えて来た。やがて行く手に何かの建物があることに、僕は気付いた。木の幹が塀の向こうに蔓延っている、何とも不思議な家だった。僅かな隙間から見える家の窓に、誰か――僕といくらも変わらない少年に見える――人がいた。こちらに向かって手招きしている。

「お父さん」

 僕が呼ぶと、先へ行っていた父が引き返して来た。

「ここだよ。タカユキくん」とその人は言った。



 え? ああ。タカユキというのは父の名前だよ。高く行く、と書いて高行たかゆき――僕も父の名が呼ばれるのは久し振りに聞いた。父もその人のことを名前で呼んでいた。

「レイモンド、君は日本にいないものと思っていたよ」

「うん。ただ何となく、君が来るような気がしたから……」

 父がその人と話している間、僕は庭にいた。まるでジャングルみたいな庭だった。長いこと放ったらかしにしてあるかのような。木の根も塀に絡んだ蔦も、ばかに大きく見えた。

 そのうちに話が終わったのか、二人が並んで僕のそばまで歩いて来た。

「君の名前は?」

 その人は僕の顔を覗き込むようにして聞いた。大して違わないのに、随分子供扱いするんだな、と思った。

「僕は君のお父さんとは大親友だったんだ」

 それもおかしな言い方だった。二十歳年の離れた親友がいてもおかしくないけど、まるで遠い過去みたいに言うんだからね。

「彼に僕の絵を描いてもらったこともあるんだよ。今も僕の家に置いてある。家を離れなきゃならなくなった時、あれだけは捨てないでって、両親に頼んだんだ。あれが家にあれば、僕もいつでも家にいられるから」

 父は昔から絵を描くのが好きだった。でも、描くのは大体風景画で、人物を描くことはなかったように思う。

「あの絵は特別なんだよ。僕が描いてってお願いしたから。タカユキくんは心を込めて、大切に僕の姿を描いてくれた」

「母さんの絵も、描いて置けば良かったな」

 少年と別れたあとで、父がぽつりと言った。

 僕の母は、僕が五歳の時に死んだ。母の家族は「お前のせいだ」と言って父を責めた。父は親も兄弟も早くに亡くしていたし、身近に不幸も多かったから、不運を招く疫病神と呼ばれて忌み嫌われた。だから父は幼い僕を連れて田舎に引っ越し、なるべく人に会わずひっそりと暮らしていた。

 そうして何年も過ごすうちに、父は遠くへ行ってしまった。すっかり元気をなくして、部屋に閉じ籠もったきり、夢を見ることも、絵を描くこともやめてしまった。



 もうどれくらい、歩き続けているだろう?

 少年の家をあとにしてから、大分時間が経っていた。

 僕は前を行くお父さんの背中を見上げた。お父さんも、時々振り返って僕の方を見る。僕がちゃんと付いて来ているか、確認するみたいに。

 お父さんがあんなに優しい顔をしているのは久し振りだ。もう少し、このまま二人で歩き続けるのも悪くないと思った。



 その子は大きな木の、高いところの枝に座っていた。まるで小鳥みたいに、器用にね。

 突然、上から声を掛けて来たんだ。

「こんにちは!」

 びっくりして見上げると、その子はとても楽しそうに笑った。

 下りておいでよ、と父が呼び掛けた。

「そんなところにいたら寒いだろう」

 少女はもう一度くすくす笑ってから、ふわりと下りて来た。父の顔を覗き込むように見る。

「君は、わかばちゃんだったね」

「すごい! 覚えてるんだ」

「事故に遭ったって聞いたけど、もう、どこも何ともないのかい? 痛くも、苦しくもないのかい?」

「うん。私、元気だよ」

「そうか……良かった」

 父は少女を抱え上げた。

「本当に良かった」

「おじさんは、まだ痛いの?」

「痛くないよ。もう、痛くない」

「良かった。じゃあ行こう」

 少女は地面に下りると、父に手を差し伸べた。父は首を振った。

「待ってくれ。その前に息子を帰してやりたいんだ」

 少女は目をぱちくりさせて、僕を見つめた。

「ああ、迷子になっちゃったのね」

「帰り道、わかるかな?」

「途中までなら。案内してあげる。こっちだよ」



 それからも、たくさんの人に会った。本当にたくさんの人がいた。嬉しそうに笑っている人、逆に悲しそうな人、涙を浮かべている人、顔を覆って号泣している人。子供も何人かいた。高校生くらいの男の子と、中学生くらいの女の子。

 男の子の方は、父を見るなり泣き出してしまった。

「ああ……泣かないで」

 父はおろおろと彼の背中を撫でた。

「あなたも同じように泣きました。俺のために。泣きながら、俺のために祈ってくれました」

 でも、会えて嬉しい、と彼は言った。

「でも……もう、行ってしまうんですよね」

「君はまだこちらにいるのかい?」

「そうですね、あと四年は。約束があるんです」

 彼はいたずらっぽく笑って、声を潜めた。

「結婚の約束をしてるんですよ」

 女の子の方は、僕に向かって「あなたはお父さんが好き?」と聞いた。

 見掛けは僕と同じ年頃なのに、あのおかしな家で会った少年と同じで、内面は僕よりずっと大人びた感じがした。

「お父さんのこと、好き?」

 重ねて聞かれて、僕は頷いた。

「一度も嫌いになったことがないの?」

 もう一度、黙って頷いた。本心だった。父は変わってしまったけど、怖いとか、意気地なしだとか思ったことは一度もない。父は弱過ぎて、優し過ぎて、潰されてしまった花なんだ。僕は父が好きだった。昔の父も、今の父も。

「そう。私はお母さんを嫌いになったことがある。お母さんが私の反対を押し切って再婚したから」

「今も嫌いなんですか?」

「よくわからない。でも……」

 彼女は僅かに表情を和らげた。

「私ね、弟が出来たの。お母さんが新しいお父さんと結婚しなければ、生まれて来ることのなかった子。あの子のことは、かわいいと思ってる」



「あの人たちは、どうしてお父さんを助けてくれるの?」

 二人だけになった時、僕は父に聞いてみた。

 父は来た方を振り返って、その穏やかな顔に微かに笑みを浮かべた。

「友達だったからだよ」

「あの人たち、どうして泣いていたの?」

「父さんのために泣いてくれたんだよ。かわいそうだって」

「あの人たちは誰なの?」

「父さんが通っていた病院に入院していた人たちだよ」

 ああ。そう言えば、父はよくお見舞いに行っていた。患者さんたちを力付けるために――自分の描いた絵を持って……。

 突然、父は足を止めた。

「お前には、苦労をさせてしまったね」

「どうしたの、急に」

「父さんが弱いばっかりに、今日まで父さんの世話をさせて……」

「お父さんが悪いんじゃないよ。お父さんはいっぱい傷付いてたんだ」

 周りから傷付けられて、自分でも自分を傷付けて。

「そうだね……でも」

 父はためらうように一旦言葉を切ってから、続けた。

「お前には悪いが、父さんはあの時、あいつを信じて良かったと思っている。もし疑って、拒絶していたら、今よりもっと苦しかっただろう。一生自分を責め、呪い続けただろう」

 そう、お父さんはそういう人だ、と僕も思った。傷付けられるより、人を傷付けることでもっと多く傷付く。だから父は、違う道を選べなかったんだ。

 僕は父を抱き締めた。父がとても悲しげで小さくて、今にも消えてしまいそうに見えたから。

「お父さん」

 呼び掛けるだけで、涙が出そうだった。

「僕、今日、楽しかった。お父さんとこんな風に過ごせて、とっても嬉しかった」

「父さんもだ」

 父の声も、半分泣いているように聞こえた。

「本当ならもっともっと、こんな日がたくさん出来たはずなんだ」

「これから出来るよ。今までの分も、たくさん」

「リュウ……」

 父は僕の髪を撫で上げてから、そっと体を離した。

「ここから家に帰れるよ」

 僕たちは一本の道の前に立っていた。光に照らされて、その道だけがくっきりと浮かび上がって見える。

「早く行きなさい」

「うん」

 歩き出し掛けて、僕は父が付いて来ないことに気が付いた。振り返ると、父は反対側の道に足を向けていた。木々の生い茂った、暗い道。

「お父さん?」

「父さんは行くところがあるから、一緒に帰れないんだ」

「どこへ行くの?」

「……」

 僕は父のところに引き返した。

「僕も行く。お父さんと、一緒に行く」

「だめだ。これ以上暗くなったら道がわからなくなるし、向こうは風が強い……」

「でも」

「お前一人で行きなさい」

「だめだよ。お父さんを残して行けない。お父さんを、一人になんか出来ないよ」

「父さんはもう大丈夫だよ」

 父はしっかりとした声で言った。

「父さんはこれから出直すつもりだ。時間を掛けて、ゆっくりとね。ちょっと遠くへ行くけど、寂しがることはない。きっと元気になって……きっと……きっと――」

「お父さん!」

「さあ、お前の道はあっちだよ。帰りなさい」

 僕は父に目を向けたまま、光る道へ足を踏み出した。父はこっちを見て笑っていた。その時、行く手から、誰かが僕の手を掴んだ。びっくりしたけど、怖くはなかった。真っ暗で見えなくても、誰か知っている人の手だとわかったから。もう一度後ろを見た時、父の姿は消えていた。


 

 僕は病院のベッドの上で目を覚ました。

 父と僕を乗せた車は、斜面を滑って川に落ちたんだと、そばにいた誰かが教えてくれた。男の人だったのか女の人だったのかさえ、今では思い出せない。僕はその人を見ていなかったんだ。握り締めた自分の手を見ていた。

 父は僕が目を覚ます前に行ってしまっていた――遠く、空の彼方へ。

 僕と父の歩んだ道。あれはみんな、夢だったのだろうか。木々の間の変わった家、父を心配して、集まって来た人たち。あの人たちはみんな、この世の人ではなかったのだろうか。

 ああ、そうだ。父は、僕を帰してくれようとしていたんだ……。そして、生きていた頃父がそうしたように、みんなが父を助けてくれた。

 僕はお父さんが大好きだ、と思った。今まで思っていた以上に、堪らなく好きだ。――会いたいよ、お父さん。どこに行けば会えるの? お父さんはどこに行ったの? そこがお父さんにとって安らぐ場所ならいい。でももしまたつらい思いをするようなら、誰かに苦しめられるようなら、そんなところに一人で行かせられない。これ以上お父さんが押し潰されるなんて嫌だ。



 僕は父の友人に預けられることになった。背が高く、がっしりした人だった。手を引かれると、まるで引き摺られているような気がした。

 僕はおじさんに引き摺られながら、視界を通り過ぎる景色を眺めていた。

「あ……」

 ――あ、あの道だ、とすぐにわかった。わかった途端、駆け出していた。おじさんの呼ぶ声が聞こえたけど、僕は止まらなかった。

 間違いない、忘れっこない、あの道。父が僕と別れて行った道。水の混ざった強い風が吹いて来る。運ばれて来るのは潮の香り。でこぼこした坂道を登りきった時、眼前に広がったのは、大きな青い海だった。

「お父さん……」

 眩暈がしそうだった。

「お父さんは船出したんだね。海に出て行ったんだね。ずっとずっと、行きたかったところに……お父さん……」

 僕は泣いた。泣かないつもりだったのに、泣いてしまった。どうしようもなく涙が溢れて来て、止められなかった。

 いつも彼方を夢見ていた――子供みたいに純粋で、優しいお父さん。僕のお父さん……。

 こぼれた涙が風に攫われ、散って行った。風に乗って、暖かい空気が流れて来た。お父さんの心みたいな……。

 父は旅立って行った――遠く、海の彼方へ。今は晴れ渡った空の下を、希望に向かって進んでいるんだ。

 

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四季の組曲 波野留央 @yumeyuki

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