〈二月〉君が見える時

 僕は足を引き摺りながら歩いていた。靴にガラスの破片が入っていたんだ。誰がやったかなんてもう、考えなくなった。だって、いつものことだから。

 ――それに、今日はまだいい方だ。そうだろう?

『そうだよ。今日はまだましな方だ』

 いつもの声が答える。

 僕は多分、いじめられているんだと思う。でも、そんなこと認めたくなかった。認めたところでどうしようもない。先生に言ったっていじめがひどくなるだけだし、お母さんに言ったりしたら、きっとすごく心配させてしまう。

『早く帰らなきゃ』

 ――そうだ。早く帰らなきゃ、お母さんが心配する。お母さんに心配掛けちゃいけない。急いで帰らなきゃ。

 僕は立ち止まって息を整えた。まだ長い坂がある。足の痛みはどんどん増していて、一歩進むのも苦労するほどだ。

『大丈夫?』

「大丈夫だよ」

 ――そう。大丈夫だ。慣れてることだから。

 やっと家に着いた。

 お母さんは僕の足の怪我を見ると、ひどく驚いてうろたえた。本当は隠して置きたかったんだけど、靴が血で真っ赤になっていたからごまかすことが出来なかった。

 部屋で手当てをしてもらいながら、僕はうっかりガラスを踏んじゃったんだ、と言い訳した。

「全く、一平いっぺいはそそっかしいわね」

 お母さんがため息をつく。

「この間は足を踏み外して階段から落ちて、全身あざだらけにして帰って来るし」

 それだって本当は、突き飛ばされて落ちたんだけど、僕は嘘をついた。お母さんが真っ青になって、震えながら僕を見ていたから。

 手当てを終えると、お母さんは立ち上がった。

 さあ、早く出て行ってくれと僕は思った。

「あ、お母さん」

 救急箱を持ってドアに向かったお母さんに声を掛ける。

「僕、これから勉強するから、しばらく部屋に来ないでね」

「はいはい。一平は勉強熱心ね。静かにしてるわ。頑張ってね」

 そう言うと、お母さんはドアを閉め、階下に降りて行った。

 僕は机に突っ伏し、じっと目を閉じた。

 泣くもんか。泣いたら負けだ。それに、あとで泣いたことがお母さんに知られたら困る。

『大丈夫。しばらくそうしていれば気持ちも落ち着く。またいつも通り、何事もなかったように振る舞える』

 僕は心の中で、自分に向かって言い聞かせた。

 自分の中に別の人間がいるかのように語り掛けるのが僕の癖だ。理解してくれる友達がいるみたいで、何だか心が安らぐのだ。実際には友達なんて一人もいないけど。

 心の中の友達は僕の言葉にちゃんと答えてくれる。いつだって変わらずに、僕に寄り添ってくれる。だけど、今日は何だかいつもと違った。心の中の友達が僕に反論することなんて、今まで一度もなかったのだから。

『明日もまた何かされるだろうけど、じっと我慢していればやり過ごせるよ』

 ――うん。きっと明日も頑張れる。我慢するしかないんだ。僕さえ我慢すれば、お母さんを悲しませることもない。

「本当に?」

 ――そうだよ。何も気付かなければ、お母さんは平気なんだ。

「本当にそうなの? お母さんは、あなたが一人で苦しむことを望んでいるの?」

 ――それは……。

「お母さんはあなたに何でも話して欲しいんじゃないの? 一緒に苦しみたいんじゃないの?」

 ――そうだとしても、お母さんを苦しませることなんて出来ないよ。僕はお母さんを苦しませたくないんだ!

「何も言わずにいたら、余計に苦しむことになるよ。あなたが何もかも一人で抱え込んで、一人で泣いていることの方が、お母さんはずっと、ずっと……」

「お前、誰だ?」

 僕は思わず声に出して叫んだ。

 その途端、返事は聞こえなくなった。

「一平、どうしたの?」

 階段の下からお母さんの声がした。

「今、お母さんのこと呼んだ?」

「ううん。何でもないよ」

 ドアを開けてお母さんに答えてから、僕は振り返って部屋の中を見渡した。普段と何の変わりもない。今のは一体、何だったんだろう。僕が心の中で作り上げた妄想じゃない。直接、誰かに話し掛けられているみたいだった。



 翌日からも、ひどい日はずっと続いた。

 その日は音楽の授業の時、袋から出そうとしたら、リコーダーが真っ二つに折れていた。先生が飛んで来て、僕はひどく怒られた。大事に扱いなさいと言ったのに、おもちゃにでもして遊んだのだろう……僕は言い訳せず、俯いて先生の小言を聞いていた。――その時だった。

「どうして自分がやったんじゃないって言わないの?」

 また、あの声がした。

「黙って叱られてることないじゃない。何も悪いことしてないのに」

 今度ははっきりわかった。これは、僕の妄想じゃない。女の子のような、甲高い声。しかも、僕にしか聞こえないようだ。

「弱虫!」

 これにはかちんと来た。何で知りもしない相手にそんなこと言われなきゃならないんだ。ふざけるな。僕は弱虫じゃない。弱虫なんかじゃない。

 僕は声を無視することにした。その後もその声はことあるごとにあれこれ言って来たけど、何も答えてやらなかった。

 家に帰って一人で部屋にいる時も、その声は語り掛けて来た。なぜ泣かないの? なぜ一人で我慢するの? 声は繰り返し尋ねた。

 次の日は、国語の教科書がびりびりに破られていた。

 先生はどうしてこんなことをするのかと、激しく怒鳴り付けた。

「破れたページを全部テープで止めなさい」

 僕はその日遅くまで残って、ばらばらになった紙と紙を繋ぎ合わせた。何だか今の僕みたいだ、と思った。こんなのもう元に戻りっこない。

 廊下に立って見ていた先生が、「これに懲りたら二度とこんなことはするな」と言った。吐き捨てるような、冷たい言い方だった。

 僕はその場でわっと泣き出したい気持ちに駆られた。でも、じっと堪えた。

 結局完全に直すことは出来なかった教科書をランドセルに入れ、家への道を軽がるように走った。もう少しだ。もう少し我慢すれば、家に着く。家に着いたら、一人になれる。

 でも、家に着いても僕は一人になれなかった。

 玄関でお母さんが待っていて、学校から電話があったと言った。

「どうして教科書を破いたりしたの。お母さん、恥ずかしいわ。一平は塾にも行ってないんだから、勉強が嫌になるなんてことないでしょう。それとも、ただ周りを困らせたいの?」

 声が出なかった。悲しみが滝のように押し寄せて来て、体が震え出した。今まで頑張って来たことが、全て台無しになった気がした。

 僕は背中でドアを押し開け、そのまま外へ駆け出した。

 ひたすら駆けて、駆けて、息が出来ないほど苦しくなった頃、草で滑って転んだ。

 僕は大声を張り上げて叫んだ。涙があとからあとから溢れた。

 またあの声が聞こえて来たけど、今度は「なぜ泣くの」とは言わなかった。

「思い切り泣きなさい」

 温かく、包み込むような声だった。

「一人じゃないから、私がそばにいるから。もう、一人で苦しむことも、我慢することもないよ。私がいるから、好きなだけ泣きなさい」

 僕は更に激しく泣き叫んだ。頭ががんがんして、自分の声が二重にも三重にもなって響いて来るようだった。

 いつの間に眠っていたのだろう。冷たい風を感じて、僕は目を開けた。ひどく疲れていて、起き上がるのも億劫だった。満天の星が僕を見下ろしている。今、何時だろう?

「少し休んだら帰ろうね。お母さんが心配しているよ」

 声のした方向を、僕は振り返った。

「君は誰だ? どこにいるんだ?」

「私はあなたのそばにいるよ」

「でも、見えないよ」

「体はもう、この地上にはいないの」

「じゃ、幽霊?」

「そういうことになるかな」

「どうして僕のそばにいてくれるんだ?」

「あなたを愛しているから」

 どきっとした。「愛してる」なんて言われるのは生まれて初めてだ。それも会ったこともない女の子から言われるなんて、何だか変な気分だった。

「私の声は、私が心から愛している人にだけ、届くのよ」

「ふうん」

 僕はのろのろと立ち上がった。とにかく、家に帰らないと。他に行くところもないんだ。

「帰るの?」

「うん」

「やっぱり、お母さんには本当のことを言いたくない?」

「うん」

「じゃあ、勇気が出るまで、私はずっとあなたのそばにいるからね」

 家の前まで来て、僕はふと思い付いて聞いた。

「君の名前は何て言うんだ?」

「名前なんて知らなくていいよ。あなたには私の姿が見えないんでしょう?」

「どうして僕には君の姿が見えないの?」

「私の姿は……私を、心から愛している人にしか見えないの」

 何だかひどく後ろめたい気分になった。プレゼントをくれた人に、何も返すものがなかった時みたいに。

 玄関のドアを開けると、お母さんがキッチンから出て来た。僕以外の人間が入って来るわけもないのに、入って来たのが僕だったことに、驚いたような顔をしている。それから、何を言うべきか迷っているように下を向いた。

 僕は迷わなかった。ただひとこと、こう言った。

「ごめんなさい、お母さん」

 その言葉を聞くと、お母さんはほっとしたように息を吐き出した。そしてにっこり笑い、「もういいのよ」と言ってキッチンの方へ戻って行った。教科書のことはロにさえしなかった。

 お母さんにとって、僕がどうして教科書を破いたかなんて問題ではないんだ。ただ身の周りで変化が起こると、ひどく取り乱しておろおろする。そんな時、僕に「何でもないんだ」、「全ては今まで通りだ」と思えるような言葉を言ってもらいたいのだ。

 僕が物心付いた頃から、お母さんは神経過敏だった。小さい僕を見て、「この子は本当にここにいるのだろうか」とでも言いたげな顔をしていたことを覚えている。

 でも、何事もなければお母さんは幸せそうにしていたし、僕も幸せだった。その幸せを壊したくはなかった。

 教科書事件以来、嫌がらせはどんどんエスカレートした。学校へ行くのが苦痛だったけど、休みたいとも言えずに僕は毎日通った。

 僕の中の友達が女の子に変わってから二週間が過ぎた。二月も終わりに近付き、暦の上では春なのに、まだまだ寒い日が続いていた。

 掃除に使う雑巾が見当たらなくなっていたので、僕は先生が使ったのかと思い、聞きに行った。本当にそう思ったのだ。考えてみればおかしなことだったのに。

 先生は知らないと言った。それから、よく探したのか、と聞いた。そして帰りのホームルームで、クラスのみんなにその話をしてしまったのだ。「誰か、一平くんの雑巾を知らないか?」と。

 放課後、僕は校門のところで、クラスの数人の男子に呼び止められた。彼らは僕に何を言う暇も与えず、引き摺るようにして体育倉庫まで連れて行った。

「先生に告げ口するなんて、いい度胸してんじゃん」

 一人が口にしたその言葉で、僕は雑巾を隠したのが彼らであることを悟った。この時まで、自分に嫌がらせをしているのが誰なのか、はっきりとはわかっていなかったのだ。

 僕が黙っているので、別の男子が僕を小突いた。僕はよろめいて、マットの端にぶつかった。

「逃げて!」

 頭の中で警告の声が響いた。それは彼女の声だったのか、自分自身の声だったのか――どちらにしろ、間に合わなかった。僕はお腹を思い切り蹴られた。それから、体中を、痛みで気が遠くなるほど殴り付けられた。声が出ず、心の中で助けを求めた。けれど、その声は誰にも届かなかった。

 ――いつの間にか、攻撃は止んでいた。周りに人の気配はない。誰かに呼ばれている気がしたけど、僕は目を開けることが出来なかった。全身が激しく痛んだ。このまま、死んでしまうんだろうかと、ふと思った。ああ、お母さんはどんなに悲しむだろう。僕が死んだら、お母さんは……。



 次に気が付いた時、僕はベッドの上にいた。自分のベッドじゃない。もっと固くて、よそよそしい感じがした。首を回してみて、どうやら病室らしいとわかった。保健室ではなさそうだ。どこかの病院……? もしかしたら、あの世なのかもしれない。誰もいないし、こんなに静かで……。

 そこまで考えた時、声が聞こえた。

「お母さんは今、お医者さんと話してるよ」

 僕は少しほっとした。起き上がろうと身を捩ったけど、思うように動けない。

「無理しちゃだめ。そのまま横になってて。そう、いい子だから」

 何だかお姉さんみたいな言い方だな、と思った。お母さんが大切にしている色褪せた写真が脳裏に浮かんだ。

 病室のドアがノックされて、お母さんかと思ったら、お父さんが入って来た。会社を早退して駆け付けたらしい。お父さんは僕の怪我の程度を説明し、四、五日入院が必要なんだと言った。

 何だか久し振りに心が安まる思いがした。入院しているうちに三月になって、そうしたらもうすぐに六年生に進級だ。最高学年になれば、あいつらだって子供じみた真似はしなくなるかもしれない。或いは、長く会わない間に、僕に飽きてしまうかもしれない。半ば祈るような気持ちで、僕はそう考えた。

 怪我の理由も聞かれたけど、やっぱり本当のことは言わなかった。お父さんも病院の先生も、僕が転んだのだと言い張ると、強く追及はしなかった。

 何日かして、病室の窓から外を眺めていると、お父さんの車が駐車場に入って来るのが見えた。出て来たのはお父さんと……お母さんもいる!

 僕はほっとした。入院してから一度もお母さんが姿を見せないので不安だったのだ。

 お父さんとお母さんはなかなか上がって来なかった。僕は立ち上がり、廊下に出た。階段に向かって歩いて行くと、その階段の途中で、お父さんとお母さんは言い争っていた。ヒステリックなお母さんの声が、断片的に聞き取れた。「今も恨んでいるのよ」とか、「もう耐えられない」とか……。そして最後に、こう叫んだ。

「一平なんか、生まなければ良かった……!」

 頭が真っ白になった。

 僕はくるりと向きを変え、階段を駆け上がって行った。何をしようとしているのか、自分でもわからなかった。数日前、このまま死ぬんじゃないかと思った時はあんなに怖かったのに、今はどうでも良かった。どうなっても良かった。どうにでもなれ。僕なんか、どうせ……。

「生まれて来なければ良かったんだ、僕なんか!」

 屋上に出るドアには鍵は掛かっていなかった。僕はノブを回し、風の強い戸外ヘ転がり出た。フェンスまで駆けて、そこから下を覗き込み……。

 飛び降りることは出来なかった。僕は手すりを掴み、激しく嗚咽した。

「生まれて来なければ良かったんだ……僕なんか……誰も愛してくれない……お母さんさえ……僕のことを」

「一平」

 見えない両手が、僕を抱きすくめた気がした。微かだけど、はっきりと温もりを感じた。この手は……。

「私は一平を愛してるよ」

 優しい声が耳元で囁く。

「私の声、聞こえるでしょう。私はあなたを愛してる。あなたが生まれて来なければ良かったなんて、そんなことないよ」

「……」

「お母さんだって、一平のこと、とってもとっても愛してる。だから不安なの。あなたを失うのが怖いの。私を失った時みたいに、いつあなたを失うかと思うと怖くて堪らないの。だから、いっそ……と、あんなことを言ってしまっただけなんだよ」

 僕は顔を上げて、彼女を見た。見えたのだ。

「お姉ちゃん……?」

 彼女は目を見張った。

「私が見えるの?」

「お姉ちゃんなんだね」

 ああ、お姉ちゃんだ。僕が生まれる前に事故で死んでしまった、お母さんの持っている写真でしか知らないお姉ちゃん。

 お姉ちゃんは僕に向かって、自信なげに手を伸ばしていた。僕はその手をぎゅっと掴んだ。何となく、温かいような気がした。

「幽霊なのに、触れるんだね」

「ここにいるんだって強く信じれば、触ることも出来るんだよ」

 お姉ちゃんは僕の手をそっと握り返した。

「この世に私を愛してくれる人なんて、もういないと思ってた」

「そんなことないよ」

 僕はさっきお姉ちゃんが言ったことをそのまま言った。

「お母さんはお姉ちゃんを愛してるよ。今でもお姉ちゃんの写真、大事にしているもの」

 お姉ちゃんは首を振った。

「お母さんには、私の姿が見えないの。だからきっと、私のことは嫌いなのよ」

「そんなのお姉ちゃんの思い込みだろ」

「ううん、ほんとよ。何度も会いに行ったけど、気付いてもらえなかったの」

「声は掛けたの?」

「それは出来なかった。だって私自身、今でもお母さんを愛しているかわからなかった……」

「じゃあ、確かめてみなよ」

 お姉ちゃんは僕に、勇気が出るまでそばにいるって言ってくれた。

「僕、勇気を出すよ。だからお姉ちゃんも、勇気を出して」

 僕は階段を降りて病室に戻った。

 お母さんはベッドの横の椅子に腰掛けていた。ぼんやりと窓の方を見つめている。

「お母さん」

 まず、僕が呼び掛けた。

 お母さんはゆっくりと振り向いた。そして、目を見開いた。僕の後ろの壁に視線を釘付けにして。――ううん、壁じゃない。そこにはお姉ちゃんがいたんだ。お姉ちゃんはそっと口を開いた。

「お母さん」

 お姉ちゃんの声は温かかった。

「お母さん、私、お母さんを愛してる。大好きよ。私に素敵な弟を生んでくれてありがとう。これからも一平を大事にしてあげてね。一平と、お母さんと、お父さん……三人で、幸せに生きてね」

 お母さんの目に涙が浮かんだ。何か言おうと唇を動かしたけど、言葉にはならなかった。

 お姉ちゃんの姿は消えていた。そして、それ以来、お姉ちゃんの姿を見ることも、お姉ちゃんの声を聞くことも、なかった。

 二月の終わりに、僕は退院した。

「お母さん」

 家に帰る車の中で、僕は大きく息を吸い込んで、お母さんに打ち明けた。

「僕、いじめられてるんだ」

 心が、すーっと軽くなった。

「学校に戻ったら、僕は戦う」

 お母さんが心配そうに僕を見る。

「大丈夫。僕は強いんだ。やられっぱなしでなんかいないよ」

 僕はまっすぐに前を見て言った。

 お母さんが僕の手を握った。

「それなら、一平……お母さんも一緒に戦うわ」

 僕も、お母さんも、もう大丈夫だ、と自信を持って言えるわけじゃない。でも、今この瞬間から、何かが変わる気がした。

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