〈一月〉冬に咲く花

 冬休みが終わってすぐのことだった。私のクラス――椿つばき中学三年二組に転校生がやって来たのは。 

新井あらい春志はるしくんと冬志ふゆしくんだ。みんな仲良くするように」

 先生の言葉に、教室は一瞬、ざわついた。この時期の転校生も珍しいし、いっぺんに二人の転校生というのも珍しい。だって、あと二か月もすれば卒業なのに。

 先生によると、弟の冬志くんが病気で、面倒を見るために、兄の春志くんも同じクラスに入ったとのことだった。

「入りなさい」

 先生に促され、先に教室に入って来たのは弟の方だった。そうとわかったのは、彼が車椅子に乗っていたからだ。兄の方は、弟の車椅子を後ろから押して入って来た。

「新井春志です。よろしくお願いします」

 そう言って、兄の方は微笑んで頭を下げたけれど、弟の方はむっつりと黙ったまま、下を向いているだけだった。

 春志くんは私の隣の席に座ることになった。冬志くんはその隣だ。

「よろしくね」

 春志くんは私に向かって優しく笑い掛けた。とても自然な笑顔だったので、私もつられて微笑んでいた。

「よろしく。私、清水しみず園花そのかです。わからないことがあったら何でも聞いて下さい……です」

「はい。何でも聞かせて下さい、です」

 しどろもどろの私の挨拶に、春志くんは笑って答えてくれた。

 春志くんはすぐにクラスに馴染んだ。穏やかで朗らかな、目立たないけれど、そばにいるとほっとする。名前の通り、春みたいな人だ。誰にでも親切で、隣の席の私には、特に気を配ってくれている。

「清水さんて、植物とか花とか好きじゃない? それでもって、人間は少ーし苦手でしょ」

 ある時、そんなことを言われた。お昼休み。教室で二人きりになった時。

「ど、どうしてわかるの?」

 私はどぎまぎしてしまった。

「朝、よく教室の花と話してるでしょ? 初めはひとりごとを言ってるのかと思ったけど、花に向かって喋ってたんだね」

「春志くん、そんなに早く学校に来てるの?」

「大体はね」

 そうか。春志くんは冬志くんの分の準備もしてるから……。

「清水さんて、そうやって人のいないところで隠れて何かしたりするでしょ」

 ばれてる……。

「すごいね、春志くんて。会って間もないのに、人のことがよくわかるんだね」

 私は花瓶の花にそっと触れた。

 お父さんが花の研究をしているから、私も小さい頃から花に囲まれて育った。だから自然に、花が好きになった。健気で強い花が好き。話し掛けると、答えてくれる気がする。

 ――元気?

 ――うん、元気だよ。

 春志くんがくすっと笑った。

「ほら。そんな風にしてたよ」

 私は恥ずかしくなって花から手を離した。

「でも、そんなにしょっちゅうじゃないよ。時々……落ち込んでる時とか、疲れた時、とか……」

「じゃあ、今度からそういう時は俺に話してよ。悩みとか、心配事。愚痴でもいいよ。人間が苦手じゃなくなるように」

 温かい手で、春志くんは私の手を握ってくれた。

「ほら、『うん』って言って」

「うん……ありがと」

 春志くんは、本当に、春みたいな人だ。……そして、冬志くんは、冬みたいな人。

 冬志くんは春志くん以外の人とはあまり喋らない。いつも無愛想で無表情。

 噂をすれば……って言うのかな。その時、冬志くんが教室に入って来た。

「何してんの、二人で」

 冬志くんはいつも通り無愛想で無表情だったけど、春志くんも、いつも通り気にせず明るく答えた。

「お喋りしてた」

「ふうん」

 冬志くんは膝の上にお弁当箱を乗せていた。これから二人で食べるのだろう。

「あ、じゃあ春志くん、またね」

「清水さんも一緒に食べない?」

 立ち去ろうとする私に、春志くんが声を掛けた。

「ね、冬志。いいだろう?」

 冬志くんはそこでやっと私に目を向けた。

「あんた、名前何だっけ?」

 名前って、下の名前かな。名字は今春志くんが呼んでたし。

「ええと……園花です」

「花子か」

「えっ、違うよ。園花……」

「いいよ」

「え」

「花子がいいなら、一緒に食べても」

「あ……」

 私は春志くんを振り返った。春志くんは笑って頷いた。

 その日から、冬志くんは私とも喋ってくれるようになった。ただきっかけが必要だっただけなのかもしれない。相変わらず無愛想で無表情ではあったけれど。

 時々、天気のいい日などは、冬志くんは外に出たがった。何も言わない冬志くんの気持ちを春志くんだけはわかっていて、ちょっとした素振りでもすぐに気付いて車椅子に手を掛ける。校庭に出て、春志くんの手を借りて、冬志くんは車椅子から降り、直接土の上に座る。そうして桜の木の幹に寄り掛かり、ハーモニカを吹き始めるのだ。

 近付くとやめてしまうので、私は冬志くんの寄り掛かった幹の真後ろに、背中合わせになるように座ってハーモニカの音色に耳を傾ける。『春の小川』とか、『春が来た』とか。春の歌が好きなんだね。

 一月も終わりに近付き、空には雪の舞い始めた朝、冬志くんが窓の外を見ていた。

 私が近付くと、唐突に彼は言った。

「外に出たい」

 ――私に言ったのかな?

「外に? 出たいの?」

 私はおずおずと冬志くんの横に立った。

 冬志くんは不機嫌そうに私を振り返った。そう聞こえなかった? とでも言いたげな目付きだ。

「もう五日も外に出てない。学校の行き帰りは車だし、それ以外はずっと車椅子だ。草の上に座って土の匂いを嗅ぎたい」

「でも、この天気だし……」

 教室の中はストーブが燃えていて暖かいけれど、外の気温はマイナスに近いだろう。

「春志は……みんなは外に出てるのに」

 冬志くんの寂しそうな目を見て、私は彼の願いを叶えてやりたいと思った。春志くんの姿を探したけれど、教室にも校庭にもいない。そう言えばさっき、先生に呼ばれていたっけ。

「外に行こう、冬志くん」

 決心して私は言った。

「厚着して行けば平気だよ。私のセーター貸してあげる。カイロもあるし」

 冬志くんは驚いたように私を見た。

 私はロッカーからマフラーを出し、自分の着ていたセーターも冬志くんに着せて、車椅子を押して外に出た。

 外では大きな白い雪が舞っていた。風は強くないものの、やっぱりすごく寒い。

「少しの間だけね……。風邪引くといけないから」

 私は冬志くんを手伝って、車椅子から降ろし、いつもの木の陰に座らせてやった。冬志くんは木の幹に寄り掛かり、目を閉じた。

 しばらくして、いつものようにハーモニカを取り出したけれど、吹き始める気配はない。私がいるせいかな。離れた方がいいのだろうかと考えていると、不意に冬志くんが呟いた。

「人は死んだら大地の花になるんだって」

 私は思わず冬志くんを見た。冬志くんの目は、あとからあとから降って来る白い雪に向けられていた。花びらのようなその雪に手を伸ばし、冬志くんは言葉を継ぐ。

「春が来たらあちこちに咲いて……残された人たちに自分の存在を知らせようとするって――」

 小さく、か細く、やっと聞き取れるくらいの微かな声。私に向かって語っているのではなく、まるで自分に言い聞かせるかのような……。

「生きている人は花を見て慰められる。人は死んでも生きている人たちと一緒にいられるんだ。土の匂いを嗅いで、草に撫でられて……」

「うん」

 私は無意識に口を開いていた。

「もし私が死んだら、冬志くんの足下の花になる。それでずっと、冬志くんに笑い掛ける」

 冬志くんは大きく目を見開いて私を見上げた。

「俺は……」

 小さな声が、更に小さくなる。

「……大好きな人のそばに……花はいたがるから……」

「冬志くん?」

 冬志くんは静かに目を閉じた。

「冬志くん……眠っちゃったの?」

 何だか様子が変だ。

「冬志くん、冬志くん!」

 私は無我夢中で叫んだ。それから、どうやって助けを呼んだのかは覚えていない。気が付くとそばに春志くんが立っていて、震える私の肩を支えてくれていた。

「春志くん、冬志くんが……」

「大丈夫だよ、園花ちゃん。ちょっと熱が出ただけだから。今、先生が車を出して、病院に連れて行ってくれるって」

「どうしよう。私が外に連れ出したりしたから……」

「君のせいじゃないよ。冬志が無理を言ったんだろう。それに、冬志は、もう……」

 春志くんは口をつぐみ、私の頭を包み込むように、そっと撫でた。

 そのまま冬志くんは入院することになった。



 冬志くんが学校に来なくなって五日目の朝、春志くんから電話があった。

「冬志が君に会いたがってる」

 ひとこと告げて、冬志くんの入院している病院と、病室の番号を教えてくれた。

 ――この冬は越せないかもしれないって、言われてるんだ。

 昨日、春志くんから聞いた話が頭の中に蘇る。

 ――生まれた時から体が弱くて、ずっと入院したきりだった。ここ数年、目に見えて体が弱って来て……冬志が最後に学校に通いたいって言ったから、俺たちは無理を押してあいつをこの学校に……。

 春志くんの口調は穏やかで、私にはとても本当のことを言っているとは思えなかった。……けれど、本当なのだ。現実なのだ。冬志くんはもうじき、いなくなるのだ。

 春志くんに聞いた病室に行くと、冬志くんはベッドに横になってこちらを見ていた。その顔を見て、私は少しほっとした。冬志くんのベッドの脇に座っていた春志くんが立ち上がり、「どうぞ」と私に椅子を勧めた。

 冬志くんはゆっくりと体を起こした。春志くんが彼の背中に手を添える。私はポケットに入れた手をぎゅっと握り締めた。

「花子……外に連れて行ってくれる?」

「……」

 私が答えようとした時、春志くんが立ち上がった。

「今、車椅子を……」

 私は無言で頷いた。

 私と春志くんは並んで冬志くんの乗る車椅子を押し、病院の庭に出た。

 その日は幾分暖かい日だった。

 二人に支えられて冬志くんが芝生に降りると、私はポケットを探った。

「今朝、お父さんにもらって来たの」

 冬志くんは私の手元を見た。

「種?」

「うちのお父さんが作ったの。土に埋めて水をやると、すぐに芽を出して、伸びて、花を咲かせるの。春に蒔けば、何年も咲き続けるんだって」

「何年も、か」

 すごいね、と冬志くんは言った。

「冬に蒔くとすぐ枯れちゃうらしいんだけど……」

 私は冬志くんの前の地面を堀り始めた。

「それじゃ、何で今蒔くの?」

 冬志くんが不思議そうに尋ねる。

「……」

 私はしばらく黙って手を動かした。春志くんが近付き、私の横にしゃがみ込んで手伝ってくれた。全部の種を埋め終わると、私は冬志くんの右隣に腰を下ろした。春志くんは冬志くんの左隣に座る。

「冬に見た方が……」

 冬志くんと一緒に見た方が……。

「……きれいだから」

 今蒔いた種が、次々に芽を出し、葉を揃え、育って行く。

「そっか。確かに……」

 冬志くんは彼方に目を馳せた。

「春はたくさん花が咲くから、紛れて目立たなくなっちゃうしね」

 冬志くんの横顔が消えそうに歪むので、私は慌ててまぶたをこすった。今は泣きたくない。今泣いたら、せっかく冬志くんと見られる花も、涙でぼやけてしまう。

「ねえ、冬志くん」

「何」

「人は死んだら花になるって言ったよね」

「うん」

「冬志くんは、誰のそばに咲くの?」

 つぼみが膨らみ、一つ、また一つと花びらが開く。白い花に、黄色い花。淡いピンクの花。太陽のような赤い花。

「花子のそばに……」

 冬志くんは一旦言葉を切り、表情を改めて、からかうような口調になった。

「咲いてやってもいいよ。お前泣き虫だし、心配だからそばにいてやる」

「約束してくれる?」

「ええー、めんどくさい」

「大丈夫だよ。冬志は一度口にしたことは守るから」

 冬志くんの向こうから、春志くんが私を覗き込むようにして言った。

「お前うるさい」

「照れてるだけだから」

「黙ってろ」

 私は思わず吹き出してしまった。

「春志くんて、冬志くんと比べると大人だよね」

「当たり前だろ。二歳近く違うんだから」

 冬志くんから返って来たのは意外な言葉だった。

「春志は四月には十七歳になるんだ」

 えっ。ええっ? どういうこと?

「春志くんと冬志くんて、双子じゃないの?」

「双子なわけないだろ、見てわかんない?」

「わからなくても無理ないよ。俺たち、双子並によく似てるしね」

「似てねーよバーカ」

 春志くんのフォローを一蹴する冬志くん。春志くんは軽く握った手の甲を口元に当てた。笑いを堪えているみたい。

「じゃあ、春志くんは……」

「そうだよ。本当は高校生なのに、俺の面倒見るために、特別に同じクラスに入れてもらったんだ。俺は一人でいいって言ったのに……バカだよな」

「そ、そっか。そういえば春志と冬志って……春志くんが春生まれで、冬志くんが冬生まれ?」

「ああ」

「私も四月生まれだから、ちょうど春志くんと冬志くんの中間だね」

「そうか。お前も春か。――て言うか、花子お前、そんな幼いのに俺より一歳上なのか」

「ひどーい。ひどいよ。ねー、春志くん」

 春志くんは答えなかった。口に手を当てたまま、表情を隠すように横を向いている。

「春志くん……」

 冬志くんが左手で春志くんの右手を握った。

「泣くなよ。お前のそばにも咲いてやるから」

 そして、右手で私の左手を握る。

「ずっと、お前たちのそばにいてやるよ」

「約束だよ。きっときっと、私たちのそばに咲いて、私たちの話を聞いてね。私たちの話に頷いて、面白かったら笑ってね」

「わかったよ。約束する」

「本当に、絶対、約束だよ」

 咲いた花たちが、次第に枯れ始め、だんだんと萎れて行く。

 冬志くんは目を閉じた。安らかに微笑んだ、優しい顔だった。

 ――絶対だよ。約束だよ。

 私、冬志くんのこと忘れない。絶対忘れない。

 忘れないよ。いつも冬志くんがそばにいること。だから、冬志くんも忘れないで。私と春志くんのそばに咲くこと……。

 春になったら、校庭にもう一度あの種を蒔くね。そうすれば、花になったあなたの周りは、いつも花でいっぱいだから。

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