冬の幻想曲

〈十二月〉マウとエイミイ

 彼はある冬、突然私の家に現れた。

 私の家はとても大きくて、親戚中が一緒に暮らしていたので、住人が一人くらい増えても気にならなかったけれど、彼は一族の誰とも違っていた。私は髪の長い男の人を初めて見た。紐で束ねたその髪は、緩やかに波打って背中に落ちていた。表情は穏やかで、常に微笑を浮かべている。離れの一番端の部屋に籠もって絵を描いていて、人前に出て来ることはほとんどなかった。

 私が初めて彼と口を利いたのは、十二月も終わりに近い、寒い日のことだった。雪がちらちら舞っていた。私は十歳だった。彼の方は私よりずっと年上に見えたけれど、少しして、中学校を卒業したと聞いた。つまり、十五歳だ。

 彼は唐突に、私の部屋のドアをノックした。

「だあれ?」

「ぼく」

 ぼくじゃわからない。でも、声は知っていた。とても柔らかくて聞きやすい声。この時はまだ名前を知らなかったので、離れのお兄ちゃんだ、と思った。

 私は彼を部屋に招いた。彼は中に入るなり、腕をさすった。

「何だか寒いね」

「冬だもの」

「ストーブ、点けないの?」

「大人が留守の時は、点けちゃいけないことになってるの」

「じゃあ君は、一人の時はいつも寒さに震えてるの?」

「たくさん着てるから平気よ」

 彼は殺風景な私の部屋を見渡した。

「僕の部屋へ行こうよ。ストーブもあるし、ここよりは暖かくて、明るいよ」

 そこで、私たちは彼の部屋へ移動した。

 しんとした部屋だった。カーテンが開け放たれていて、窓のガラス越しに雪に埋もれた白い世界が見えた。小さなキッチンはきれいに片付けられている。

「お昼ご飯、食べてないの?」と私は聞いた。

「うん。絵を描いていたから」

「何か作ろうか?」

「何が作れるの?」

「今はあんまり。オムレツが得意なんだけど、大人が留守の時はコンロを使っちゃいけないの」

「じゃあ君は、一人の時はあったかいものも食べられないの?」

「電子レンジを使うのよ」

「ああ……なるほど」

 彼は食事はまだいいよと言い、ソファーに座った。

 部屋の奥には絵がたくさんあった。壁の額縁や、イーゼルに置かれたままのキャンバス。どれもみんな淡い色使いの風景画だった。

「人は描かないの?」

「君がモデルをしてくれるなら描いてもいいけど」

「本当?」

「きれいに描くよ」

「普通でいいよ。私、普通だし」

 彼は笑った。

「普通にかわいく描くよ」

 それ以来私は度々彼の部屋を訪れ、モデルを務めた。仲良くなったことは秘密だよ、と彼が言ったので、大人たちに見つからないように、こっそり階段を下りて、彼の部屋の前に立つ。彼はすぐに気付き、ドアを開けてくれた。

 じっと座っていなくても、彼は文句を言わなかった。訪ねる度に絵本やお菓子が用意されていて、嬉しかったけれど、それよりもっと、私は彼の絵を見ている方が好きだった。

「そろそろ出来上がるよ」

 絵筆を置いて、彼が言った。

 私は彼の肩越しに覗き、キャンバスに浮かぶ自分の顔を眺めた。

「私じゃないみたい」

「気に入らない?」

「ううん、お兄ちゃん、ほんとに絵が上手ね」

「もうお兄ちゃんはよしてくれないかな。僕の名前は……」

「知ってるよ。でも、そんなのつまんない」と私は言った。

「みんなと同じ呼び方なんてつまんないよ、他の名前を考えて。私だけが呼ぶための名前」

「急に言われても無理だよ」

「じゃあ、次に来る時までに考えといて」

「君が考えてよ」

「えー?」

「君が呼ぶんだから、君の好きな名前を考えて。僕は君の呼び方を考えるよ。僕の好きな名前」

「うーん、わかった」

 その時から、彼と私はマウとエイミイになった。二人共、好きな本に出て来る名前から取った。相手にだけ通じる秘密の呼び方で、他の者の前では決して使わなかった。



 そして、三年の月日が流れた。

 その頃にはエイミイがマウの部屋に通っていることを、家中のみんなが知っていたが、咎められることはなかった。武夫たけおおじさんはエイミイに、「兄ちゃんは子供が好きなんだな」と言った。「遊び相手が出来て良かったなあ」

 マウは子供じゃなくて、私が好きなんだ、とエイミイは思った。私だって、マウが好き。この家の誰よりも。縮れた長い黒髪も、その上にちょこんとのったくしゃくしゃ帽子も、私が見上げる前に気付いて、笑顔で視線を受け止めてくれるところも――みんなみんな、大好き。

 エイミイがマウの部屋に行くと、マウはいつも絵を描いていた。エイミイも真似をして、画用紙にクレヨンで木や花を描いた。春は庭に散る桜を眺めながら、夏は窓を開け放ち、秋は色とりどりの落ち葉を集めて部屋に敷き詰め、冬はストーブの前に寝そべって――。

 そして、二人は互いに話をした。

「世界は広いのよ。こんな四角い、狭い空間じゃなくて、窓から見えるのも、あんな小さなお庭じゃなくて」

「見たことあるの?」

「ない。見てみたいなあ」

 エイミイは絨毯の上に腹這いになった。

「見に行けばいいのに」

「行けないよ。私は何も出来ない子供だし、一人でこの家を出るなんて無理だもの。武夫おじさんも言ってたわ」

「武夫おじさん?」

「一族の中では珍しく、しょっちゅうあちこち旅をして回ってる人。全然家にじっとしていないの」

 そうだ、とエイミイは言った。

「マウとエイミイは外国に住むことにしよう。フランスがいいや」

「なあに、それ?」

「私の書いてるお話。出来たらマウ、絵を付けてね」

「いいよ。君、作家になるの?」

「ううん。エイミイはファッションデザイナーになるの。小さいけどお洒落な店でお洒落な服をたくさん作って、マウはいつも屋根裏部屋で絵を描いてるのよ」

「二人は兄弟なの? 夫婦なの?」

「うーん、夫婦にする。娘が一人居るの。マーガレットって名前で、髪が長くて」

 マウはテーブルに置かれた一輪挿しの雛菊を見やった。エイミイはせっせと鉛筆を動かしている。

「二人は一度お別れすることになるの。エイミイは荷物をまとめて、一人で日本へ帰ろうとするのよ」

「どうして?」

「少しは波乱がないとつまんないじゃない。もちろん、本当に帰っちゃったりしないのよ。飛行機に乗る寸前に、マーガレットがマウにこう言うの。『追い掛けて。早く追い掛けて。行っちゃうよ』――」

 嫌なことがあると、エイミイはマウに対してつんけんした態度を取った。マウはそんな時、逆に妙に優しくなる。普段は無口で上の空なくせに、ご機嫌取りみたいに色々話し掛けて来るのだ。どうしてなのか尋ねると、つんけんしている時のエイミイは怖いからだと言われた。ゴジラ扱いされては堪らないので、エイミイはなるべくつんけんしないよう気を付けるようになった。

「エイミイはよく笑ってよく怒るのに、あまり悲しそうにしていることはないね。泣いたりもしないし」

「私、つらいことがあると、悲しむより先に腹が立つの。『よくもやったな、負けるもんか、今に見ていろ』って」

「勇ましいなあ」

「でも、そうね、マウと別れる時は、泣くかもしれない」

 二人はクリスマスツリーにモールを巻き付けている最中だった。十二月になると、毎年樅の木をもらって来て、一緒に飾り付ける習慣になっている。

「マウは、ずっとここにいるよね」

「どうだろう」

「もう、マウってば」

 エイミイは口を尖らせた。

 マウは笑って、星の飾りの先端を指でつまんで回転させた。

「世界は広いんだよ、エイミイ。こんな四角い、狭い空間じゃなくて、窓から見えるのも、あんな小さなお庭じゃなくて」

「 ……そうね」

 けれども今、マウとエイミイの世界はこの狭い空間なのだ。



 そして、その月の半ば、事件が起きた。

 マウの部屋を何度訪ねても、ドアを開けてもらえない。中にいないのではない。マウ以外の誰かが、マウと一緒にそこにいて、マウにドアを開けさせないのだ。話し声が聞こえた。マウの声とは違う、怖い声。怒鳴る声。脅し付けるような声。マウの声は聞こえない。マウは人が自分の話をしている時に、口を挟まない人だから。

 数日後、武夫おじさんが訪ねて来て、エイミイが知らなかったことを教えてくれた。マウと、マウの婚約者の話だ。

「お前が仲良くしてる兄ちゃんは、あの飲んだくれ親父に連れられてここに来たんだよ。と言っても、本当の親父じゃない。あの兄ちゃんにとっちゃ赤の他人さ。兄ちゃんの本当の親父が莫大な財産を残して死んだから、飲んだくれ親父は兄ちゃんをここに連れて来た。いずれは自分の娘と結婚させて、兄ちゃんが相続した遺産を自分の自由にしようって魂胆だったのさ。兄ちゃんが結婚出来る年齢――十八歳になるまでは、逃げられないようにここに閉じ込めて置くことにした。抜かりがねえな。ところが、飲んだくれ親父の娘は兄ちゃんより五つも年上で、とっくに結婚出来る年齢だったから、好きな相手と駆け落ち同然に逃げちまったんだ。飲んだくれ親父め、実の娘に裏切られるとは思わなかったんだろう、すっかり激怒して兄ちゃんに当たり散らしているってわけだ。虫酸が走るぜ。散々世話してやったとかぬかしてるけどよ、生活費は全部兄ちゃんが相続した遺産から出てるし、飲んだくれ親父は兄ちゃんをこの家に半ば監禁して、三年間ほぼ放置してたんだぜ。さすがに出て行けとは言わねえだろうが、ま、兄ちゃんの方から出て行くだろうな。名目上は主人の娘の婚約者として、ここに置いてもらってたんだから」

 飲んだくれ親父がいなくなると、エイミイはすぐさまマウの部屋へ駆け付けた。マウはいつものように、絵を描いてはいなかった。イーゼルは片付けられていた。クリスマスツリーだけが、部屋の真ん中にぽつんと立っていた。飾りを外して箱に仕舞う作業も、二人でやる決まりなのだ。だからマウは、そのままにして置いたのだろう。彼が派手な装飾を嫌ったため、質素な姿は広い部屋の中にひとりぼっちで、ひどく哀れに見えた。

「マウが出て行くことなんかないよ。あんなじじいの言いなりになんかなることない!」

「エイミイ……そんな汚い言葉を使っちゃだめだよ」

「だって、あのキモいじじいが!」

「エイミイ」

「……不快なおじいさんが……」

 マウは背を向けたまま、小さく笑った。力のない、悲しそうな笑い声だった。エイミイはただその背中を見つめていた。

「出て行くなんて言わないでね」

 マウは悲しそうな目で、エイミイを振り返った。

「ねえエイミイ、世界は広いんだよ。……ソファーとイーゼルがあるだけの、四角い空間じゃなくて、見える景色も、窓の外の小さな庭なんかじゃなくて……」

「うん」

 他には何も言えなかった。

 それから数日後、マウは家を出て行った。

 雪の降る、寒い朝だった。二人が初めて話したあの日と同じ、寒い朝だった。

 荷物をまとめて玄関に立ったマウを、エイミイは恨めしげに見上げていた。

「エイミイ」

 マウは痛みを我慢するかのように、つらそうに微笑んだ。

「……僕の方が泣きそうだよ、エイミイ」

 エイミイはそっと近付き、マウの背中に手を回した。

「マウ……」

「さよなら……エイミイ」

 マウはエイミイから離れ、ドアに向かった。エイミイはワンピースの裾を掴んだ。

 ――追い掛けて。

 涙があとからあとから溢れて来る。

 ――早く追い掛けて。行っちゃうよ。

 ドアが開くと、冷たい風と共に、僅かな雪片が舞い込んで来た。マウはエイミイの方は見ず、ゆっくりと外へ出て行った。

 エイミイは動けなかった。立ち尽くしたまま、ただ泣いていた。

 ――私はここから出られない。マウに付いて行くことは出来ない。でも、でも……。

 マウと秘密の部屋で過ごす間、彼がどういう人かなんて一度も考えたことがなかった。マウはマウだ。それは今も変わらない。――あの家で過ごした年月、彼はマウだった。そして私は、エイミイだった。暗闇に閉じ込められ、ほとんど消え掛かっていた私が、マウと出会ってエイミイになった。マウといる時だけは、エイミイは確かに存在していたのだ。

 ——マウ。マウ。マウ。マウ。私のマウ。縮れた長い黒髪も……その上にちょこんとのったくしゃくしゃ帽子も……私が見上げる前に気付いて、笑顔で視線を受け止めてくれるところも……みんなみんな……大好きな、私のマウ。

 ――置いて行かないで。

 エイミイは雪に紛れて遠ざかって行くマウに呼び掛けた。

 ――私も一緒に連れて行って。

 口には出さず、心の中で。

 付いて行きたい。マウと一緒にいたい。ずっと、ずっと……。

 下を向いたエイミイは、雪の中に絵筆が落ちていることに気が付き、屈み込んだ。さく、と雪を踏む音がした。顔を上げると、マウが立っていた。

 マウはエイミイの、涙に濡れた顔を見た。三年間、一度も目にすることがなかったものを。

「忘れ物が……」と、マウは言った。

「これ?」

 絵筆を指差すと、マウはエイミイを両手で包み込んだ。雪が軋んで音を立てる。

「迎えに来るよ」

 囁くようにマウは言った。

「必ず、迎えに来る。その時は、一緒に行こう」

 二人の白い息が混じり合う。絵筆が雪に埋もれて行く。

「二人で、フランスに住もう。僕は絵描きになって……君は、ファッションデザイナーになって……」

 エイミイは何度も頷いた。

 縮れた長い黒髪も、その上にちょこんとのったくしゃくしゃ帽子も、私が見上げる前に気付いて、笑顔で視線を受け止めてくれるところも――みんなみんな、大好きだよ、マウ。

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