春の円舞曲

〈三月〉どこかのだれかへ

 それは、邸宅と呼ぶにふさわしい、大きく荘厳な建物だった。

 もう一時間も歩き続けているのに、ちっとも近付く気がしない。青い空に白くそびえるその姿は、暗く冷たく、どこか寂しげな雰囲気を湛えていた。

「どんな人が住んでいるんだろうね」

 流司りゅうじは鞄に手を掛け、ぽつりと呟いた。そうは言っても、誰かが住んでいるとはあまり思えなかった。長く放って置かれたような、主のない家に見えたのである。

「あそこは魔女屋敷と呼ばれているんだよ」

 山を登り始める前、麓のコンビニで話を聞いた流司に、レジの店員がからかい半分に話してくれた。

「偏屈で底意地の悪いばあさんが住んでいてね、そばを通ると呪われる、なんて言われてる。まあ、金はがっぽり貯め込んでるらしいが。子供を攫って食っちまうって噂もある。近付かない方が身のためだよ」

 流司はガラス扉の向こうに目を馳せた。

「あの家へは誰も行かないんですか?」

「用があれば仕方なく行くが……往復するのに半日掛かっちまうしな」

「……寂しいでしょうね」

 店員はひょいと首を傾げた。

「あんたも変わってるねえ。あの屋敷に一体全体何の用があるってんだい?」

「用と言うほどのものではないのですが……」

 店員にお礼を言い、流司は山に向かった。 

 道に迷うことはなかった。山の中腹に建つその屋敷は、登りながら顔を上げると、どこか一部が必ず見えたのだ。

 流司は手に持った葉書を、もう一度確認した。



 どこかのだれかへ



 葉書の宛名にはそれだけが書かれていた。差出人の住所は手書きではなく印刷されたものだ。そのあとに、『わかば』という名前が宛名と同じたどたどしい字で綴られている。そして、裏面には……。



 まいにちひとりぼっちでないています。

 おともだちになってください。



 と、あった。

 平仮名だけの、子供が書いたような文面。誰が、何のためにこんなものを……?

 流司ははっと我に返った。数メートル先に、古い門扉が見えたのだ。ここだ。

 太陽が雲に隠れ、束の間暗くなった。空を見上げた時、ぱたぱたと足音が聞こえた。流司が振り向いたのと、駆けて来た人物がこちらに気付いて立ち止まったのが同時だった。相手は十二、三歳の少女で、驚いたように目を見張っていたが、そのまま何も言わずに脇を通り過ぎた。屋敷の門から出て来たのだろうか。そう思ってもう一度見ると、また人影があった。流司に向かってまっすぐ歩いて来る。

 ああ、あの屋敷に住んでいるおばあさんだ。なぜだかはっきりとわかった。全然知らない人なのに……。

「泥棒!」

 流司の前に来るなり、おばあさんは言った。

 流司は面食らった。

「僕が泥棒?」

「そうとも、この悪党め! 盗った物をお返し」

「何を盗ったって言うんですか」

「それは、お前が知っているだろう。宝石箱を開けっ放しにして逃げおって」

「宝石箱を……」

 脳裏に、さっきすれ違った少女の姿がよぎった。まさか、あの子が……。

「僕は何も盗んでいません」

 おばあさんの顔が歪んだ。怒りとも、笑いともつかない、奇妙な表情。そのまま、流司をぐっと睨んだ。

「いい度胸だね。盗人の上に嘘つきだとは。こっちへおいで。来るんだよ!」

 おばあさんは流司の腕を掴み、無理矢理引っ張って行こうとした。が、どうも様子がおかしい。

「……どこか痛むんですか?」

 流司が聞くと、おばあさんはびっくりして、何のことだ、と問い返した。

「苦しそうです」

「どこも何ともありゃしないよ」

「でも……」

「そんなこと言って逃げ出そうって魂胆だね。そうはいかないよ。さあ、来なさい!」

 この人は具合が悪いのに無理をしている……それがわかったので、流司は逆らわずに付いて行った。そうすれば、世話をしてあげられると思ったからだ。

「悪い子には仕置きが必要だ」

 流司の手を引きながら、おばあさんは言った。

「しばらくここで働いてもらう。私の身の回りの世話から、掃除、雑用、何でも言い付けるからね」

 流司が顔を上げると、広い庭園の向こうに、暗く冷たく、どこか寂しげな白い屋敷がそびえていた。



 流司は屋敷の二階の、階段を上ってすぐの部屋に連れて行かれた。

「ここに入れ」

 小さいが家具も揃っている、ちゃんとした部屋だ。泥棒を閉じ込める場所とは思えない。

「さあ!」

 おばあさんは厳しい声を出した。

「さっさとお入り! 明日から働くんだ。階段を挟んだ隣が私の部屋だから、逃げようったって出来ないよ」

 言い捨てると、彼女はくるりと向きを変えて行ってしまった。

 流司はとりあえず部屋に入って荷物を下ろした。

 ――あの人はこの鞄の中を、調べようともしなかった。僕が宝石を盗んだと疑っていたのに……。

 あの人の目的は、宝石を取り戻すことじゃない。もしかしたら、泥棒に罰を与えることでもないかもしれない。

 流司は部屋を見渡した。

 こんなに広い家に、あの人は一人で住んでいるのだ。きっと、寂しいのだ……。



 翌朝、日が昇ってから、流司はおばあさんの部屋のドアを叩いた。

「……誰だい?」

 不審そうな声が返った。

「僕です」

「……ああ。お入り」

「起こしてしまいましたか」

 ドアを閉めながら、流司は言った。

「寝てやしないよ。ここのところよく眠れなくてね」

 心配そうに覗き込んだ流司を、おばあさんはじろりと睨んだ。

「何しに来たんだい?」

「……。何か、ご用はないかと思って」

 それを聞くと、おばあさんは調子を取り戻したようだった。

「たくさんあるさ。部屋という部屋全部に廊下、階段、庭も隅まで掃除して、きれいにするんだ。明日は朝から、麓まで買い出しに行ってもらう。入り用な物が溜まってるんでね」

「わかりました。……でも、その前に……」

「文句でもあるのかい?」

「朝食を作ります。食べたい物はありますか?」

「……何もないね」

「でも、少しは食べないと……」

「うるさいね。食べたかったら好きな物を食べていいから、とっとと出てってくれ」

 流司はおばあさんをじっと見つめた。

「……食べなきゃだめです。ゆうべも、何も食べていないんでしょう?」

 流司も同じだったのだが、今は自分より、彼女に食事をしてもらいたかった。

「食べて下さい」

 老婦人は心から驚き、それを隠さずに表情に出した。

「……わかったよ。それじゃ、持っておいで。口に合うようなら食べてやるよ」

「はい!」

 流司は思わず顔を綻ばせた――ここに来て初めての微笑みであったことにも、それを見た老婦人がどれほど心安らいだかにも気付かずに。



 流司は厨房へ行き、調理に掛かった。ある材料で、食べやすい物を工夫して作る。長い間父の世話をしていたので、こういうことには慣れていた。

 おばあさんに食事を持って行ったあと、調理に使った道具をきれいに洗った。それから、やっと自分のことを思い出した。残った物で軽く朝食を取っておばあさんの部屋へ戻ると、トレイに載せた皿は全て空になっていた。置いたらさっさとお行き、と追い出されてしまったため、おばあさんがそれをどれほどおいしそうに食べたか、流司が知ることはなかった。けれども、食器を片付ける流司に、おばあさんはこう言った。

「明日も同じ物を作っておくれ」

 流司が振り返ると、おばあさんは布団を被って背を向けていた。



 明日買い出しに行け、と言っていたのに、おばあさんは翌日になると、今日はやめて次の日にしようと言い、また次の日には来週でいい、と先延ばしにした。

「今日は下に行って来ます。もう食材が足りなくなってますから」

 五日目、ついに流司の方から申し出た。

 おばあさんは渋々財布を差し出した。

「持ち逃げするんじゃないよ」

 流司は小さく笑った。

「何がおかしいんだい」

「いいえ。それじゃあ、僕の鞄を置いて行きます。中にとても大切な物が入っていますから、あの鞄を残していなくなったりはしません」

 おばあさんはしかめ面で流司の顔を眺めていたが、やがて言った。

「……この部屋に入れてお行き」

「わかりました」

 流司は鞄を取りに部屋へ戻った。ここに来た時のまま、ベッドの脇のテーブルに置いてある。

「僕がいない間、おばあさんのそばにいてやってくれるかい?」

 鞄の中を覗き込みながら、流司は囁き掛けた。

「あの人は寂しいんだよ。あの人……名前は何て言うんだろうね。教えてくれないんだ……」

 何日も一緒に過ごすうちに、流司にはおばあさんの病気の原因がわかった。この広い家にたった一人……寂しくて寂しくて、食べることも眠ることも出来なくなり、体を壊して弱ってしまったのだ。

 あの人はお金を取られることなど何とも思っていない。ただ、流司がいなくなってしまうことを恐れているのだろう。

「夕方には戻ります」

 おばあさんの傍らに鞄を置き、流司は屋敷を出た。

 おばあさんは窓から外を眺めていた。ずっと……流司が門から出て、森の方へ消え、見えなくなってしまうまで。

 彼女にはもう、流司が物を盗むような人間ではないとわかっていた。黙っていなくなってしまうようなことはないとわかっていた。それでも、ほんの少しの間でも、流司がそばにいないのがつらかったのである。

 流司の残して行った鞄をそっと撫でながら、老婦人は呟いた。

「あの子は何て優しい子なんだろう」



 森に入った流司は、しばらく行ったところで立ち止まった。木立の陰に、一人の少女が立っていたのだ。ここに来た日にすれ違った、あの少女だった。

「待ってたんです」と、少女は言った。

「お兄さん、あの屋敷に入ったきり出て来ないから、毎日この辺りで様子を伺ってたんだけど……」

 言葉を切り、少女は流司の持っている手提げに目を走らせた。

「町に行くんですね。近道を知っているから、案内してあげます。歩きながら、話を聞いてくれますか?」

 流司は少女のあとに付いて行った。

「お兄さんが私のせいで泥棒と間違われちゃったんじゃないかって、心配してたんです。私……おばあちゃんの宝物を取ってしまったから。そんな高価な物だなんて知らなかったんです。ただ私は、何でもいいから、おばあちゃんの……」

「おばあちゃん?」

 流司の呟きに、少女がぱっと顔を向けた。

「良かった、全然口利いてくれないから、どうしようかと思っちゃった!」

「そんなつもりじゃなかったんだけど……君がどういう子かわからなかったから……」

「ああ……そうですよね、ごめんなさい」

 謝ってから、彼女は少し寂しそうに微笑んだ。

「私はあの屋敷に住んでるおばあちゃんの、孫なんです」



「遅かったじゃないか」

 流司が部屋に入るなり、おばあさんは不機嫌な声を出した。

「たかだか買い物に何時間掛かるんだい、若いのに。私だってこんなには掛からないよ」

「すみません。色々選んでいたものですから」

「言い訳はいいよ。さっさと今日の仕事を片付けるんだね」

「はい」と答えて、流司はおばあさんに財布を返した。

 おばあさんは中身を確かめもせずに、それを引き出しに仕舞った。

「また金曜日に買い出しに行っとくれ」

 その日から、流司は前にも増してせっせと働いた。次から次へと仕事をこなすので、疲れて倒れはしないかとおばあさんは内心気が気でなかった――それを口に出したりはしなかったが。代わりに、今は一人になりたいから放って置けだの、私は少し眠るから、流司さんは部屋で静かにしていてくれだのと言って、流司に休む時間を与えようとした。

 おばあさんは流司を『流司さん』と呼んだ。おばあさんに聞かれて流司が名乗ったからだ。けれどおばあさんは頑として、自分の名前は言おうとしなかった。

 彼女の体は、少しずつ良くなって行った。流司の思いやりはまっすぐ、確かに伝わった。ただ時々目を覚ますと、そばにいたらしい流司が逃げるように部屋を出て行く気配があり、老婦人はそれが少し気になった。

 三月最後の日曜日、流司はおばあさんに小さな卵形のチョコレートを渡した。

「何だい、これは」

「スーパーで配っていたんです。感謝祭だから……」

「ああ、イースターエッグ」

 おばあさんはチョコレートを両手でもてあそびながら呟いた。

「もうそんな時期なんだねえ」

「もうすぐ桜が咲きます。おばあさんの庭には、桜の木がたくさんありますね。一緒に見に行きましょう」

「こんな老いぼれとでいいのかい? 本当は恋人と行きたいんだろう」

「恋人はいません」

「家族は?」

「家族も……」

「……そうかい」

 じゃあ一緒に行ってやるよ、とおばあさんは言った。その時初めて彼女は、何か、流司の喜ぶようなことをしてやりたいと思った。



「おはようございます、おばあさん」

「おはよう、流司さん」

 流司が部屋に入ると、おばあさんは毎朝の挨拶を交わしてから、更に付け加えた。

「それから、誕生日おめでとう」

 流司は驚いて顔を上げた。おばあさんは流司のことを根掘り葉掘り尋ねたことがあり、その時聞いた誕生日をしっかり覚えていたのだ。

「今日は私も下へ降りるよ。お祝いだからね。桜もちょうど見頃だし、庭で花を見ながら食事にしよう」

「はい。じゃあ、手を貸しますから、降りる時は呼んで下さい」

 おばあさんはもう、一人でもちゃんと歩けるようになっていたが、流司が心配するので頷いた。

 流司がいなくなると、おばあさんは立ってドレッサーの前に行き、引き出しから宝石箱を抜き取った。流司に渡すつもりのプレゼントが入れてある。それをサイドテーブルに置き、もう一眠りしようと、彼女はベッドに戻った。

「……人の誕生日を祝うなんて、何年振りかねえ。今日はいい日になりそうだ」

 幸せな気持ちで、おばあさんは夢の世界へと引き込まれて行った。



 ——まどろみの中で、おばあさんは微かなメロディーを聞いた。それは宝石箱から流れるものだった。前にもこの音で気付かれたというのに、はまた同じことをしてしまったのだ。

「流司さん?」

 目を覚ましたおばあさんは、ゆっくりと顔を仰向けた。

 そこに立っていたのは、流司ではなかった。

「……お前は誰だい?」

 少女の震える手から光る物が床に落ち、カターンと音を立てた。

「私……私は……ただ、これを返そうと、宝石箱の中に戻そうと思って……。おばあちゃんの大事な物だなんて、知らなかった。勝手に持って行くのは悪いことだって、わかってたけど……でも、私はおばあちゃんに会えなかったから。だから……」

 そこまで一気に話すと、少女はしゃくりあげ始めた。ずっと溜め込んでいたものを吐き出すように、それは長く続いた。

 おばあさんが口を開いた。

「お前は、二葉ふたばかい?」

 少女が頷くと、その瞳から涙が転がり落ちた。

「お前がこの部屋に入ったのは、今日が初めてじゃないね?」

「……」

「……流司さんだね」

 もう一度、少女は頷いた。

「この屋敷の前で、流司さんに会って、おばあちゃんが病気だって聞いて……心配で。それで流司さんに頼んで、こっそりお手伝いさせてもらってたんです」

「食事も、二人で作ってたんだね?」

「……はい」

 おばあさんはため息をついた。そして、孫娘の髪にそっと手を触れた。

芽衣めいによく似て来て……」

「おばあちゃん」

 二葉はおばあさんの、自分の頬に当てられた手を、ぎゅっと握った。

「お母さんはここに来ちゃいけないって言った。おばあちゃんに会ってはいけないって。私は会いたかったのに。……お母さんと喧嘩してることは知ってる。それでも、私は会いたかった。会いたくて、何度も何度も、この屋敷まで来て……」

 門が開いているのを見た時、思い切って中に入り、テラスに置いてあった宝石箱を見つけたのだ。

「ごめんなさい、こうでもしなきゃおばあちゃんに会えないと思って……」

 あの日宝石箱から取った指輪は、今は床の上に落ちている。おばあさんはそれを拾い上げた。飾り気のない、銀の指輪。

「欲しいならお前にあげよう。これを、私だと思えるなら……」

 二葉は激しく首を振り、いらないと言った。

「そんなのいらない! 私はおばあちゃんといたい!」

 二葉はおずおずとおばあさんを見上げた。

「これからも、ここに来ていい……?」

 おばあさんはそれには答えなかった。

「……私はお前の母さんと大喧嘩して別れて、それ以来会っていないんだよ」

「どうして喧嘩したの?」

「……あの子が言うことを聞かなかったから」

「お母さんは悪い子だったの?」

 それは違う、とおばあさんは言った。

「頑固だったのは私。お前の父さんとの結婚を許さなかったんだ。芽衣は怒って、家を飛び出して行った……」

「お母さんはもう、怒ってないよ」

 二葉は下を向いた。

「私がよくここへ来てること、本当は知ってるの。本当はお母さんも、おばあちゃんと仲直りしたいんだと思う」

「……」

「おばあちゃんはお母さんのこと、まだ怒ってる?」

 おばあさんは目を細め、考え込むような表情になった。

「怒っていると思っていたが……もう、怒っていないようだ。お前に会ったからかもしれないね」

 そして——おばあさんは、心の中で付け加えた——流司さんに会ったから。

「今すぐは無理でも、いつか、芽衣とも笑って話せる日が来るかもしれない……そう思うよ」

 二葉は嬉しそうに微笑んだ。

「そうなったらいいなって、ずっと、私の夢だったの」

「さあ、下へ降りよう。お前も一緒に流司さんのお祝いをしよう」

「はい!」

 二葉はおばあさんに、手を差し伸べた。

 庭で花見の準備をしていた流司は、桜の木の下で二人を見た。おばあさんに肩を貸す少女と、孫娘に支えられた老婦人。ゆっくりと、幸福そうにテラスを下りてくる。どちらの顔にも、穏やかな微笑みが刻まれていた。

「お誕生日おめでとう! 流司さん」

 二葉とおばあさんが声を揃えて言った。

 流司も二人に笑顔を向けた。

「ありがとう――おばあさん、二葉さん」



 その日は素晴らしい日になった。おばあさんが考えていた通りに。

 おばあさんの家の庭には桜以外にも、様々な花が咲いていた。桜は満開で、風にちらちらと花びらを散らしていた。料理は流司が作り、テラスに運んだ。おばあさんも、今日ばかりはいつになく食が進んだ。

 昼食が済むと、三人で取り留めのない話をした。流司は自分からは話さないので、二葉とおばあさんが色々尋ねて喋らせた。故郷の話、家族と過ごした誕生日の話……流司も珍しく、たくさんのことを話した。

 その夜、二葉は祖母の家に泊まることになった。遅くなり過ぎて帰れなくなってしまったのだ。おばあさんは明日、一緒に行って謝ってやると言った。

「そんなに歩いて大丈夫?」

 心配する孫を安心させるように、おばあさんは微笑んだ。

「ゆっくり歩いて行くよ。二人でね。また肩を貸してくれるだろう?」

 もちろん、と二葉は答えた。それでもまだ不安げな目をしているので、流司が、自分も付いて行くから、と言った。

「僕もそろそろ、帰らなければならないし」

 それを聞いた二人は、はっと顔を上げた。

「流司さん、行っちゃうの?」

 考えもしなかったことのように二葉は聞いた。

「僕がいなくても、これからは君がおばあさんのそばにいてくれるだろう」

「そうだけど……」

 病気の方も、もう心配はいらない。彼女はもう、一人ではないから……。二葉がいる限り、おばあさんはもう、寂しさのあまり病気になってしまうことはないだろう。

「そうかい……そうだね」

 おばあさんがぼんやりと呟いた。

「ひと月近く、世話を焼かせてしまったからねえ。今までいてくれただけでも、うんと感謝しなければいけないくらいだ」

 おばあさんは流司の手を取った。

「ありがとう、流司さん」

 流司は微笑んだ。

「僕は何も……したくてやっただけです」

「ありがとう」

 繰り返し、握った手を離そうとしないおばあさんに、流司は少し困ったような目をした。

「そんな顔しないでおくれ。お前さんを悩ませたいんじゃないんだ。笑って見送らなくちゃ……何の気掛かりもなく帰らせてやらなくちゃと思うんだよ。私は本当にお前さんが大好きなんだ」

「ええ。僕もです」

「……お前さんはどんな人間であっても、無償で愛する子なんだろうね」

 さあ、もう遅いからお休み、とおばあさんは二葉に言った。

「流司さんの隣の部屋を使うといい。流司さん、連れて行ってやってくれるかい?」

「はい」

「それから、あとでもう一度私の部屋に来ておくれ」

「わかりました」



「何だか妬けちゃうな。おばあちゃん、私よりも流司さんの方が好きみたいなんだもの」

 二葉が口を尖らせた。

 二葉と流司はおばあさんを部屋に送り届け、階段の反対側の部屋に向かっていた。

「明日お母さんに会いに行ってくれるのも、私のためというより、流司さんを安心させるためみたいだし」

「二葉さん——」

「あ、違うんです。腹を立てているわけじゃないんです。誤解しないで。ちょっと羨ましいだけ。私も流司さんが大好きよ。お休みなさい!」

「……お休み」

 二葉は隣の部屋に入り、ドアをぱたんと閉めた。その向こうから、くぐもった声が聞こえた。

「流司さんがいてくれて良かったです。もし流司さんに会えなかったら、私がおばあちゃんと話せる日なんか永久に来なかったかもしれない。本当に、どんなに感謝しても足りないです。ありがとう……」

 言葉の終わりは掠れて消えた。二葉は泣いていた。その泣き声も、やがて遠ざかった。

 流司は何も言えず、ただ立ち尽くしていた。

 おばあさんと二葉を引き合わせたのは、自分ではない。二人をわかり合わせようと努めたわけでもない。おばあさんと二葉の家の詳しい事情も、さっき聞いて初めて知ったのだ。それでも、少しでも自分が役に立てたのなら嬉しい、と流司は思った。



 流司が後片付けを済ませておばあさんの部屋に戻ると、おばあさんはベッドの脇の椅子に座っていた。

「そこにお掛け」

 流司はおばあさんの向かいの椅子に腰を下ろした。

「これを、返して置くよ」

 おばあさんはテーブルの上に、一枚の葉書を置いた。宛名に『どこかのだれかへ』と書かれた葉書だった。

「これは……」

「悪かったね。お前さんが買い出しに行く時、置いて行った鞄……外のポケットからはみ出しててね、つい目に入ってしまったんだよ」

「いえ、いいんです。差出人の住所がここだったので、それで来たんですから」

「お前さんが、若葉わかばの手紙を受け取ってくれたんだね」

「……先月、郵便局でアルバイトをしていたんです。郵便物の仕分けをしていて、偶然この手紙を見つけて……」

 ――偶然……だったのだろうか。

 流司はおばあさんを見やった。

 おばあさんは感情を抑えるように低く言った。

「あの子が……最後に、書いた手紙なんだよ」

「最後?」

「そう。あの子は四年前に死んだんだ」

 若葉の父親は二葉の母親の兄なんだ、とおばあさんは言った。

「私は息子夫婦とここで暮らしていた。やがて若葉が生まれて……あの子は私にとても懐いてくれた。だけどあの子はたったの十歳でこの世を去った。以来息子夫婦との関係も拗れてしまってね、去年、ついに二人はこの家を出て行ってしまった」

「……」

「この葉書を投函したのは私なんだ。先月、机の整理をしていて見つけてね。あの子は自分の名前と、宛名に『どこかのだれかへ』としか書いてなかったが、あの子の最後の手紙を、どうしても誰かにもらって欲しくてね。ここの住所を印刷して……」

「それじゃあ、文面もあなたが?」

「文? 裏面は白紙だったはずだけど……」

「いえ。書いてありましたよ、ほら」

 流司は葉書を裏返した。

「あれ……消えてる」

「何て書いてあったんだね?」

「ひとりぼっちでないています。おともだちになってください……って」

 おばあさんは色褪せた葉書の白い面を指で撫でた。

「そうかい……やっぱり。あの子は今も泣いてるんだね」

 それから、唐突に両手で顔を覆い、啜り上げた。

「あの子はねえ、私の不注意で死なせてしまったんだ。ああ、かわいそうな若葉。今もひとりぼっちで泣いているんだね」

「若葉さんは泣いてなんかいませんよ」

 流司は立ち上がり、おばあさんの傍らに寄った。

「笑ってました」

 おばあさんがゆっくりと顔を上げる。

「会ったんです。森の中で。木の上にいて、話もしました」

「木の上……そう、あの子は木に登るのが好きだったんだよ。そうかい……今でも登ってるんだねえ」

「ええ。若葉さんは楽しそうにしていましたよ」

「でも、泣いてるって……手紙に書いてあったんだろう?」

「それは若葉さんではなく、おばあさんのことだったんじゃないでしょうか。おばあさんがひとりぼっちになってしまったから。それが気掛かりで、彼女はここから離れられなかったんですよ」

 流司はおばあさんの前に屈み込み、おばあさんの皺だらけの手を自分の両手でそっと包んだ。

「だから僕に手紙をくれた。僕に、おばあさんの友達になって欲しい、と」

「そう……なのかい」

 噛み締めるように、おばあさんは繰り返した。

「そうなのかい。それでお前さんは、私の友達になろうと?」

「はい。もしおばあさんが良ければ、これからも……」

「そう……そうなのかい」

 おばあさんはしばらく黙って涙を流し続けた。流司はそんなおばあさんの手を、黙って握り続けていた。

「さあ、もう遅いからお休み」

「はい。お休みなさい、おばあさん」

「流司さん」

 おばあさんは最後に流司を呼び止め、宝石箱を差し出した。それを渡そうとしているのだとは気が付かず、流司は首を傾げておばあさんを見返した。

「誕生日プレゼントだよ。お前さんに」

「……」

「遠慮しないで、受け取っておくれ」

「……ありがとうございます」

「明日の朝、開けるようにね」

 はい、と流司は答えた。



 翌朝、流司はおばあさんからもらった宝石箱を開けた。中には小さな十字架と、手紙が入っていた。



 ——流司さんへ

 私も孫に倣ってお前さんに手紙を書いてみることにしたよ。

 この十字架がお前さんを守ってくれるように。お前さんがしてくれたことの半分も、私は返すことが出来ないけれど、何かつらいことや困ったことがあったら、いつでも頼って来ておくれ。お前さんのためなら何でも、どんなことでもしてやるから。本当にありがとう。――三枝さえぐさ早苗さなえ



「こんな近道があるとは知らなかったよ。お前が見つけたのかい?」

 おばあさんの問いに、二葉が答えた。

「何度も通っているうちにね」

「そうかい」

 手を取り合って坂を下る二人の後ろを、流司は少し離れて追っていた。

「昼前には着きそうだね」

 言いながら、おばあさんが振り返った。

「流司さんも隣に来てくれないかい?」

「おばあちゃん、疲れたの?」

 二葉が心配そうに祖母の顔を覗き込んだ。

「流司さんとも並んで歩きたいだけだよ」

「これから道が狭くなるのに」

 二葉が頬を膨らませると、おばあさんは大げさに目を丸くし、からかうような口調で言った。

「おやおや、二葉、おばあちゃんを独り占めしたいのかい? 我慢おし。明日からは思う存分独り占め出来るんだから」

 二葉ははっとし、恥ずかしそうに笑った。

「はい。ごめんなさい」

 おばあさんが流司に手を伸ばした。流司はその手を取り、おばあさんに寄り添った。しばらく皆、無言で歩いた。

 町が見えて来ると、流司はするりとおばあさんに絡めた腕を解いた。綿帽子がたんぽぽから離れる時のように。

「流司さん……」

 おばあさんの声が追って来る。

「僕、行きます」

「行くって?」

 二葉がびっくりして叫んだ。

「今日中にこの道を往復するのはきついでしょう。昨日二葉さんを泊めたように、今日はあなたが泊めてもらって下さい」

 流司はおばあさんを見つめた。

「さようなら、早苗さん」

「流司さん」

 おばあさんの目から涙が溢れた。

「私はお前さんを、もう一人の孫みたいに思っていたよ」

 二葉は二、三歩流司に駆け寄り掛けていたが、おばあさんが泣き出してしまったので慌てて引き返し、その肩を抱いた。

「二葉さん、おばあちゃんを大切にね」

 最後にそう言うと、流司は脇の道に入った。

「流司さん! ありがとう——!」

 二葉の声が背中に聞こえた。流司は振り返らずに足を進めた。あまり名残を惜しんでいては、別れ難くなる。こんな風にさらりと行った方がいい、そう思ったのだ。

「ここに来て良かった」

 流司は鞄を肩に掛け直した。

 これがなければ、ここに来ることもなかった――葉書を取り出すと、文面に文字が現れていた。



 やくそく、まもってね



 流司は葉書を引っ繰り返した。そこには、こうあった。



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