走り屋
青井かいか
走り屋
嫌な事があった。
だから大学をサボった。ただそれだけのこと。
「人生をフルマラソンに例えると、君たちはまだ走り始めたばかりです」
先生からそんな話を聞いたのは確か小学校低学年の頃だったか。
あの頃はまだフルマラソンというものをよく分かっていなかった。先生から頑張って凄く長い距離を走り切る人だよと聞かされて、『かっこいい』と思ったことを覚えている。そんな“かっこいい人”が自分の人生の例えになっていることに、誇りすら覚えた。
「人生をフルマラソンに例えると、君たちはまだ走り始めたばかりです」
中学校に入学した時も、違う先生からそんな台詞を聞かされた。
その時にはもうフルマラソンがどんなものか分かっていたし、人生をフルマラソンに例える先生に感心した。なるほどと思った。
長い長い道のりを一生懸命走り切ることと、長い長い年月を精一杯生き抜く人生は似ていると本気で思った。でも自分はまだ走り始めたばかりだから、これから頑張らないといけないと思った。これから始まる新たな中学生活に期待をして、思いを馳せ、意気込んだ。精一杯やるぞと心に誓った。
「人生をフルマラソンに例えると、君たちはまだ走り始めたばかりです」
頑張って受験に合格して、高校生になった春、入学式で校長先生がそんな台詞を吐いた。
「は?」と思った。まだ走り始めたばかりなのか、と。
頑張ったじゃないか。少なくとも高校受験するにあたって、自分は今までの中で一番頑張った。なのにまだ序盤? “フルマラソン”とやらはそんなに長くて過酷なものなのか?
いつまで経ってもゴールが見えない。いつになったら自分は“かっこいい人”になれるんだ?
というより、そもそもゴールはどこにあるんだ?
「人生をフルマラソンに例えると、君たちはようやく序盤を抜けたあたりでしょうか」
一浪して大学生になって、ようやくその台詞に変化がうかがえた。
その時に自分が思ったことは、『馬鹿馬鹿しい』の一言だった。あまりに強引で、都合の良い例えだと。
人生はフルマラソンじゃない。
フルマラソンは一つの明確なゴールを目指して走るが、人生にそんなものはない。無理に人生にゴールを付けるとすればそれは『死』だが、それは目指すものじゃない。
マラソンはゴールにたどり着けば“達成”だが、人生はそこで終わりだ。次はない。
マラソンは足を動かせば確実に前に進めるが、人生はそうじゃない。後戻りすることだってある。自分が本当に前に進めているのか分からない。そんな不安を皆心の奥底に抱えている。
そして何よりフルマラソンは辛くなったら棄権すればいいが、人生にそんなものはない。
いや、棄権する手段はあるかもしれないが、もう二度とやり直しはできない。
人生はフルマラソンじゃない。
「今までの人生、走ってみませんか?」
コンビニに行こうと外出した所、変なヤツに声をかけられた。妙に洒落たサングラスをかけ、下着と見紛うような生地の少ないボトムスとトップスを着用していた。簡潔に言って不審者だ。変態だ。
真夜中、空には星と月が浮かんでいる下で、不審者に声をかけられる。ツイてないと思った。
「いや、いいです」
そう断って、家に帰ろうとする。
「いやいやいやっ、待ってくださいよぉ」
ソイツは媚びるような気持ち悪い声を上げ、後をついてくる。
「はぁ、何なんですか」
仕方なく立ち止まって振り返る。このままだと家までついてきそうだ。
「実は私、こういうものでして」
ソイツはどこから出したのか、一枚の名刺を渡してくる。そこには、『走り屋』という太字のフォントがデカデカと記されていた。
「暴走族の方ですか?」
とてもそんな風には見えない。
「いえ違います。バイクで走るんじゃありません。自らのこの脚で走るんですよ」
走り屋はその場で足踏みするように走る真似をして、ニカっと笑った。胡散臭い。
「じゃあ当たり屋みたいなもんですか?」
「とんでもない」
走り屋はぶんぶんと首を横に振った。
「私は、コースを外れかけている方々に、今まで踏破してきた道のりを振り返って頂き、しっかりと前に進めるようになってもらうために活動しているんです」
「意味不明なんですけど……」
だけど、『コースを外れかけている方々』という言葉がやけに気になった。一ヶ月間大学をサボり続けている自分は、それに当てはまるんじゃないだろうか。
「今ならセール期間ですので、一回百円でご体験いただけます」
「おカネ取るんですか」
「えぇ、私にも生活がかかっていますので」
切実な顔で走り屋は言った。
「でも、今八十円しか持ってないんですけど」
最低限のおカネしか持たずコンビニで買い物をしたので、持ち合わせがそれだけしかない。
「うーん、う〜ん。そうですね……。よしっ、仕方ありません。今回だけはさらに更に大サービスとして、一回八十円に負けさせて頂きます!」
苦渋の決断の表情で、走り屋は言った。
「では、ついてきてください」
そして、走り屋はずんずんと路地裏の方へ歩いていく。怪しさ満点だったが、何かに引かれるように、その後を追った。
「ここです」そう言って走り屋が示したのは、白い扉だった。袋小路の壁に引っ付いた場にそぐわない扉。
走り屋がその扉を開けると、その向こうには真っ白な空間が広がっていた。
「どうぞ」
「ここに入るんですか?」
「はい、そうです。ほらほら、早く入ってください」
走り屋に背中を押されて、無理やり扉の中に押し込まれる。真っ白な空間に立っている感覚は、妙なものだった。
「あ、お代をいただくのを忘れていました」
走り屋が催促の目を向けてくる。まぁ八十円くらいなら、と思って素直に走り屋におカネを渡す。
「確かに頂きました。では、良き走りを」
走り屋はニカっと笑って、扉を閉じた。
真っ白な空間。何も無い空間。だがふとした時、目の前に何かが見えた。
どうやら自分が生まれた時の光景らしかった。赤ん坊の自分がいて、両親が泣きながらそれを喜んでいる。「生まれてきてくれてありがとう」
だがその光景は、時が進むに連れ、段々と遠ざかって行く。思わずその後を追った。走った。
走り始めてすぐ『小学生まで42.195km』という標識を見かけた。
自分の成長を追って走る。息が上がっても我慢して走る。
ハイハイができるようになった。立てるようになった。走れるようになった。
幼稚園児の自分がはしゃぐ。好きな人と将来の約束をする。でも、小学生になって以降、自分がその人と二度と会わないことを知っている。
やがて、ゴールラインが見える。長い長い距離を走って、ゴールに辿り着いたのだ。本当に苦しい。体の節々が痛い。自分がフルマラソンと同じ距離を走ったのが信じられない。ふと、そこに誰かが立っているのに気付いた。それは小学生の自分だった。
「おつかれっ、すごいね。かっこいい」小学生の自分が言った。
「君に一つ言っておきたい」息も絶え絶えになりながら、絞り出すように言う。「フルマラソンって、そんなに軽いものじゃ無いよ」
「うんっ」小学生の自分は元気に頷いて、今の自分から“タスキ”を受け取った。
『中学生まで42.195km』そんな標識を横目にしながら、小学生になった自分は走る。
勉強が始まった。文字を覚えた。足し算を覚えた。友達と喧嘩した。互いに意地を張って、どちらからも謝らなかった。六年生になった。色々なことを知った。大人になったと感じた。目まぐるしく進む時を走る。
やがてゴールに辿り着き、中学生の自分にタスキを渡す。
「おつかれ、頑張ったね」
確かに頑張った。
小学生の自分だって、沢山悩んで、それでも前に進んでいた。小学生なんて子供だと思っていた。遊んでいるだけで楽だなぁと。でも違う。小学生だって、足を前に出している。
「中学生はもっとしんどいよ」
「うん、頑張る」
中学生になった自分は高校生を目指して走る。そして高校生の自分にタスキを渡し、大学生を目指した。
辛かった。苦しかった。何度も辞めたいと思った。何度も泣いた。それでも前に進んだ。親にワガママ言って、一浪までして行きたかった大学にようやく受かった。
ボロボロになって、足の感覚もなくなった自分は、大学生――つまり今の自分にタスキを渡す。
大学生になった自分は今までの自分の頑張りに応えるため、意気揚々と走り出した。
だけど、段々と失速していき、遂には立ち止まった。息が上がっている。脚に疲労が溜まって、これ以上動く気がしない。ふと顔を上げると、そこには大学に行かず家の中でだらだらとしている自分の光景があった。
ふざけるな。ここまで来て、なんで立ち止まってるんだ。自分に向かって悪態を吐くが、足は動かない。自分は動かない。動こうとしない。
気付けば、泣いていた。自分が情けなかった。ここまで頑張っておいて、何を今更立ち止まっている。大した理由もないくせに。
足は動かない。動かそうとしても、動いてくれない。歩くこともできない。
しばらく足掻いていると、目の前に白い扉が現れた。ここにやって来る時、走り屋に押し込まれたのと同じ扉だ。
恐る恐るその扉を押して開く。倒れこむようにして、扉の向こうに身を投げた。
はっと気が付いて上体を起こす。
枕元に置いてあるスマホで、現在の時刻を確認する。朝の七時。最近の自分にしては、随分早い起床だ。
自然と目元に指先を触れる。なぜか目元が突っ張っていた。大泣きした後と同じ感覚。でも泣いた覚えはない。
ベッドから降りて、洗面所に向かおうとする。どうしてか、足を動かすことに強い不安を覚えた。最初の一歩を踏み出せたことに、ひどく安堵した。これで自分はまた走れる。泣きそうになった。本当に、訳が分からない。
顔を洗って歯を磨いて、昨日コンビニで買ってきた菓子パンを朝食として食べる。
それを口にしながら思った。今日、せっかく朝早く起きたことだし、久しぶりに大学に顔を出してみようかな、と。
不思議と焦燥感を覚えながら大学に行く支度をして、その途中、寝間着のポケットに妙なカードが入っていること気が付く。
そのカードには、『走り屋』という太字がデカデカと記されていた。
大学までの道のりを、一歩一歩踏みしめるように歩む。これまでもこうやって進んできた気がする。これまでもずっとこうしてきた。
ただ前に進む。それが正しい方向なのかは分からない。けれど前に進む。明確なゴールはない。だけど確かな節目はある。
なんだか無性に走り出したくなって、鞄を抱えて駆け出した。気づけば、泣いていた。
人生はマラソンじゃない。でも、似ている部分はあるのかもしれない。苦しくなっても、どうして自分がこんなことをしているのか分からなくなっても、嫌になって立ち止まったとしても、また前に進む。
きっと、これからもそんな風にして走り続ける。
走り屋 青井かいか @aoshitake
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