第3話
「わたし,一箇所にじっとしていられないたちなの」と彼女は言う.
肩まできれいに切りそろえられた彼女の髪の上で,彼女自身が浮いている.
よく見れば浮いている彼女は明滅していることがわかる.そしてさらによく見れば,彼女の右も左も後ろも同じありさまだった.
私たちのいる喫茶店は彼女で満ちていた.というのは不正確な表現で,一箇所にじっとしていられない彼女が喫茶店(とその外も少し含む範囲内で)をとてつもない高速度で動き回っていた.
あちらでは安全なビジネスを語る者に給仕し,そちらではまた別の席で安全なビジネスを語っている.
「本当だ」と私は言う.
「驚かない」と彼女は語尾を上げる.私はうなずく.
彼女は一箇所にじっとしていられない.しかし,同時に一箇所にしかいられない.だったら私とそうは変わらない.失恋したので髪を切りに行ったら首を切られていたのに,柄にもなく,性懲りもなくこんなところでこんなことをしている私と.
私をここまで運んできた犬が,店の外で明滅する彼女を大変興味深そうに見つめ,前脚でなんとか彼女をつかもうとしている.そしてふと自分の行動を制限しているリードを間抜けな飼い主が忘れていることに気づく.少しこちらに顔を向けてから思い切りどこかへと走り出す.
失恋したので髪を切りに行ったら首を切られていた話 @prognorrhoea
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