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『す……凄まじい!』やっとのことで、実況が声を上げた。『驚きました……私を含め、一同絶句してしまいましたね!』
『まさしく、白熱の状況! 一瞬たりとて目が離せない!』実況の韋駄天は語尾を跳ね上げるように言った。『やはり、過去に神化主となったプレイヤーは格が違いますね! ちなみに、この戦闘で拡大した被害の修繕は、神禍神宮が行ってくれるそうです。ありがとうございます!』
観客一同が小さく礼をしていたので、私も礼をすることにした。
『さて、お局さん、貴女はこの戦いをどう考えていますか?』
『うーん。拮抗しているように見えて、弧八田彼の面の優勢ですね。天ノ川桐詠のように多彩ではないけれど、彼の能力は多才ですから。これはもしかすると連覇もありえるのではないでしょうか』
『ほほう! 今年の神化主も彼で決まりかもしれない、ということですね』
『これに
『若い人間が頑張っているというのに、大人は
『しかし、まだわかりませんよ。さきほど敗北した討伐隊ですが、明日、戦力を拡充してリベンジするとの噂が……』
『これはこれは、興味深い展開になってきました!』
ふとあたりを見回すと、祭りを行き交う人々みんながパンフレットデバイスやスマートフォンでふとん太鼓の成敗の中継を見ていた。それどころか、生で見ようと実際の戦地へ向かう者までいる。
こういう光景には覚えがあって、それはオリンピックの放送中であったり、ワールドカップの試合中であったり様々だ。プレイヤーの一挙手一投足に目を奪われている点では同じ。ただの祭り。されど祭り。こんな大舞台で、自分とそう歳の変わらない人間が眩しいほどに輝いているのが、輝けるのが、すごく羨ましかった。
比べるのもおこがましいけれど、私にはできっこない。
画面上のふとん太鼓の成敗が白熱すればするほど、私は何者かに距離を置かれているような気がした。遠ざかって、コントラストがゼロになって、私はそこらへんの石ころと同じになる。飲みこまれてしまう。ただの空気だ。これはいわゆる疎外感。そして、そんなものを感じている、みっともない自分の厭らしさと言ったら。
つやつやの黒髪もチェリーレッドの唇もない。ましてや、特別な力なんて、あるはずもない。いいなあ、だなんて。願うこと自体が分不相応な自覚はあるから、卑しいと思わずにはいられない。そう我に返った瞬間ほど、私をみじめにするものはなかった。
「考え事かい?」此の面は私の顔を覗きこんで言った。「とても難しい顔をしているね」
視線だけを斜め下へと逸らす。じっと伺われることで自分の欠点を見つけられるのが嫌な私は、よく不躾とも取れるような態度で、正当に相手から逃げていた。
多分、私は少し面倒な性格をしているんだと思う。
周りと比べて、自分の嫌なところをひっそりと見つけては、大きく自信を損なっていく。ひっそりと憧れるたびに、お前なんか思い上がりも甚だしいって、そう思いながら、欲張ることをやめられない。自分の目は銀のナイフだ。バターかなにかみたいにごそっと削り取る、先天性の監査。生まれたときから持ち続けた瓶の中身には、最低限のものしか残っていない。それを埋めようとして欲が出るのだ。手に入らない、入るとも思っていないものばっかり欲しがって。
「……ちょうど区切りがついたところだ。もうそれも空になったろ? ラムネでも奢るよ」
たしかに、画面の中の戦いは、ふとん太鼓が弧八田彼の面から逃げおおせることで、一旦幕を引いていた。中継ではまたふとん太鼓が新たな区画を襲っていたが、成敗される気配はない。
私が片手で持つラムネの瓶には、もうビー玉しか残っていなかった。カラコロと音を立てるそれを持ち上げて、さっと提灯の灯りに透かして見た。世界が歪んで見える。そんなふうに歩いている私に、飲み物屋を探す此の面は「危ないよ」と声をかける。
「楽しいお祭りで怪我をすることほど、不幸なものはない。気をつけな」
「……ふとん太鼓がいるのに、怪我をしないほうが大変じゃない」
「あれは特別。痛いのは不幸だけど、楽しんだ先に負ってしまった怪我は、名誉の負傷。何代か前の、ソーラン節同好会の会長が言ってた」
「なにそれ」
やはり、祭りは人を狂わせるみたいだ。
熱気で煽りたてて、突拍子もないことだって平気でできるようになる。
楽しいから。楽しむために。
「……私なんかといて、楽しい?」
ずっと考えていただけのことを、思わず声に出してしまう。
だから、言った瞬間に後悔した。
こんな醜い言葉、聞いたことがない。きっと彼にも醜いと思われたはずだ。
途端、わけがわからなくなるほどの恥ずかしさが胸にぶわりと広がった。
「楽しいよ」だけど彼は平然と、私の予想とは違う反応を示す。「すずは楽しくない?」
そこで私に問い返すのかと、私はほんの少し唇を噛む。
「僕はね、すず。できることなら君にもこの祭りを楽しんでもらいたいと思っているんだ。僕は生まれてこのかた、この祭りをつまらないものだと思ったことは一度もないし、これ以上に楽しいものを知らない。神夏祭は素晴らしいよ。年に一度の神の無礼講。わくわくどきどきするだろ?」
「わくわく……どきどき……」
「そう」此の面は鼻唄でも歌いだしそうだった。「わくわく、どきどき」
飲み物屋は案外すぐに見つかった。私は自分でお金を払う気でいたけど、巾着から財布を取りだすよりも早く、此の面は店主にお金を払っていた。
「あっ……え、ごめん」
「いいよ、これくらい。さ、ようく好きなものを選ぶといい」
そう言って此の面は私をケースの前に立たせる。
キンキンに冷えたラムネやペットポトルが水の中で並んでいた。選ぶと言ってもどうせ同じラムネだ。違いなんてあるだろうか。
「なあに、すず、そんなにラムネが好きなのに、こだわりなかったの?」
「え……あの、だって、ラムネだよ?」私は眇めるように此の面を見る。「どれも一緒で、どれも一緒だから、どれを飲んでも素晴らしく美味しいんじゃないの?」
「いつもならね。でも、ここは神禍神宮夏祭りだ」
「えっと、うん、それは知ってるけど……」
「それはなにより。でも、だからこそ、今年の今日ばかりは、ちゃんと見比べて、これだと思ったものを選んだほうがいい」
「なんで?」
「風の噂で聞いたんだ」彼はまた、狐面の耳のあたりに両手を持ってくる。「君は聞いたことない? 神様はラムネが好きだって」
なにそれ。
冷えたケースをふよふよと覗きこむ。どれも同じラムネに見える。きらきらした泡が星屑のように上のほうへ流れていく。どれも爽やかで、おいしそう。こうやって眺めているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
私は、最後に視界に映った一本のラムネを取りあげた。
通行人の邪魔にならないように、神池を囲む石の柵に背凭れる。
そこでパコンと栓を落とした。
「えっ」
びっくりして、素っ頓狂な声が出た。
ラムネの音にではない。振動音にだ。
栓を落とした瞬間、デバイスがバイブしたのだ。
それも自分のものだけでなく、あたりにいるひと全員の。
それに誰もが驚いていたようで、即座に起動させて、何事かとチェックしている。ざわざわと混乱の波が生まれる。あまりに驚いていた私は反応が遅れる。なんだろう。もしかして、また、ふとん太鼓がなにかしたのだろうか。
私は、ふと、視界の端に煌めきを感じ、視線を落とす。
正体はラムネの線の役割をしていたビー玉だった。おつむの固い人間みたいな言いかたをするなら、エー玉と呼ばれるそれ。ただし、栓から落ちてきたのは、普通のラムネにあるような、ただのガラスの球体ではなかった。ときめくほど綺麗。喩えるなら、宝石掴みの店できらきらと光っているアクリルアイスだ。見たことのない彩色のビー玉がラムネの瓶のくぼみの上で震えている――――震えている?
そのとき、背後にあった神池のクリスタル液晶パネルが、冴えるほど強く光りだした。
『おめでとうございます。宝物が発見されました』
その場にあった全てのデバイスから、機械的な音声が漏れだした。
バッと背後を振り返れば、神池が一枚の大きなスクリーンのように一人の少女の顔を映している。見覚えのありすぎる女の子だった。自信のなさそうな、どう見ても頼りない、混乱しきっている表情。くっきり一重と子供っぽい鼻ぺちゃ。
どこから撮られているのかはわからないけど――間違いなく私だ。
みんなが私を見ている。神池を覗きこみ、周囲にいるとわかると興味深そうに私を見つめ、そして、私の持つラムネの瓶の中のビー玉を見つめる。
『今年の御物はラムネの中に隠されておりました。見事見つけだした方には、纏代周枳尊より、ふとん太鼓を成敗するための力となる才能が贈られます。才能は神夏祭のあいだという制限内で一生涯付与していただけます。どうか新たな才の主に、幸多からんことを』
天上を渡り走る提灯が、ディスコのように光を乱反射させた。
眩しい。何故だか急に全てが眩しい。呼応するように、体が熱を持ち始める。
ラムネの中に入っていた御物がさらに強く光った。
まるで水の膜を通るみたいな容易さで瓶をすり抜け、私の胸元まで浮かび上がる。怖くて逃げようと爪先を動かした私よりも早く、その光の玉は私の胸に飛びこみ、溶けるように消えていった。私の体が淡く発光したかと思うと、それはすぐに収まる。代わりに満たされていくなにか。
呆然としている私に、わっと大きな声援と拍手が送られる。
『いやー! どうやら今年の天恵制度も、滞りなく終えられたようですね。お局さん!』
『やはり誰かが受け取らないとだめですよねー。誰も見つけ出せないまま歴代の神化主たちが成敗してしまったらどうしようかと思ってましたよ』
『実際、前半戦は素晴らしい戦いぶりを見せてくれていましたし!』
『今年の天恵はどんな能力なのか、楽しみですねー』
『新たな才の主の活躍に期待しております!』
ふとん太鼓の実況をしていた二人の声までもがコネクトされた。
これほどまでの声や音を、自分一人に向けられたことが、未だかつてあっただろうか。
固まったまま動けない。脳も白んでいる。どこに目線を向ければいいのかわからなくて呆然としていた。言葉にし難い感覚に、全身がむずむずするほど粟立つ。
「やったじゃないか、すず」
隣にいた此の面が穏やかに笑んで拍手をくれる。
彼の少し弾んだ声に、私はいよいよ確信せざるを得なくなった。
「……わた、私が、見つけちゃったの……?」
「そうだよ」
施されるのは肯定。
でも、私が、私なんかが、本当に。
「これから面白くなるぞ」
どこまでも続くような喝采。
夜空に浮かぶ雲さえも照らす光。
さらさらと踊る風が私の耳元をくすぐった。
▲▽
そこから私が取ったのは、まぬけにも、〝逃げる〟という行動だった。
お願い。どうぞ責めてくれるな。
どれほど居た堪れなかったのか、理解してほしい。引っこみ思案レベルカンストという負の称号は伊達じゃないのだ。あの称賛と好奇の音の波や視線から一刻も早く剥がれるため、私は一目散に駆けだした。
おかげで浴衣の裾は乱れたし、汗も掻いた。夏特有の暑さに加え、祭りの空気、自分の体温の上昇が加わると、人間は簡単に火照り上がる。鏡なんかで確認しなくても自分の頬が赤くなっていることはわかった。
人を分け、人を避け、ひたすらに走っていると、大きな鳥居のある表参道のところまで来た。神池やふとん太鼓の成敗に人が集中しているからか、このあたりは静かなものだった。あるのはたくさんの風車だけ。切らした息を整えるために立ち止まる。苦しい。持っていたラムネもいつのまにか消えてなくなっていた。どこかで落としたのだろう。いいや。此の面には悪いけど、自分で買った物でないからもったいないとも思わない。
「……っあ、こ、此の面!」
私は彼を置いてきてしまったことに気がついた。
どうしよう。とにかく一人になりたくて、一心不乱に走ってきてしまったけど。彼も驚いたに違いない。心配、いや、怒ってるかもしれない。神様が隠した御物を見つけたからって、調子に乗ってるって思われたらどうしよう。
途端に青くなって口元に手を当てる私の肩を、トントンと穏やかに叩く手。
「すずは足が速いね」
此の面だった。
私と違って少しも息を切らしていない。実に涼しい顔をして私に追いついてきた。
けっこうな距離を走ったというのに。彼の体力は化け物並だ。そもそも出会ったときから不思議だったのだ。今日は不思議で、たまらないことばかり起こる。
「よ、よく私のこと、見つけられたね」
「足音でわかるさ」此の面は私の草履を指差した。「ずっと美しい音が鳴ると思っていたんだ。その草履、中に鈴が入っているだろ。なかなか雅な代物だね」
踏みしめればチャリンと鈴が鳴った。
遠くのほうでは、まだ賑やかな声や太鼓の音が聞こえる。こんなところまで来てしまったんだ。おかげで靴擦れたのか、足の指が痛い。
「もう帰るのかい?」あのときのように此の面は言った。「せっかく力を手に入れたのに」
もったいない、と続ける此の面だけど、そう言いたいのは私のほうだ。
「……そうだよ……もったいないよ」私は両手を握りしめる。「私、なんかが、こんなに素晴らしいものをもらってしまって……もったいない。申し訳ない」
こんな私よりも、もっとずっと、天恵を受けるにふさわしい人間がいたはずだ。
そのひとをさしおいて、どうして私が。
きっと後ろ指を指されてしまう。
あんな子が受け取ったなんて、なにかの間違いだって、思われてしまう。
「これって、才能なんでしょう? 畏れ多い、ことなんでしょう? 無理。絶対、無理。耐えられない。重い。しんどい。恥ずかしい」
なんで、こんな醜い言葉しか吐き出せないんだろう。
消極的で、否定的で、こんなにみじめなんだろう。
「だから、私……こんなところまで来ちゃったんだよ……」
ないものねだりをしてしまう私は、それがいざ叶うと、その重さに逃げだしてしまうような人間だったのだ。実に無様で、魅力なんて
私は私が嫌なだけだった。
「すず。これは、畏れ多いことじゃない。そりゃあ、ちょっとはすごいことだけれど、これは毎年一人ずつ、誰かしらが選ばれていることなんだ。そんな大層に考える必要はない」
「でも、どうして私なんかが、きっとみんな、なのに……」
「天恵制度は運なんだよ」此の面は続ける。「あの輝かしい天ノ川桐詠だって、ただの幸運で、あれほどの力を手に入れたんだ。すずは運がよかった。それだけだよ。誰もすずを責めたりはしないさ」
「わ……私に成敗なんて、できっこないし」
「そんなことはない。そのための才能なんだから。祭りは楽しんだ者勝ちだしね」
「それに、あっ、あんなふうに大きな画面に映って、私、恥ずかしい。苦手なの。慣れてないの。わかるでしょ?」
「だからって、逃げることはないだろうに」
「お、置いていってごめん」
「僕がいつ置いていかれた? むしろ追いついてごめんよ」
此の面は私をからかうように言った。
そして、その笑みを拭いとると、どこか神妙な雰囲気を纏い、静謐に諭す。
「すずはさ、聞いたよね、僕に。私なんかといて楽しいの、って」
ああ、まさか、このタイミングでその話を蒸し返されるなんて。私は此の面の目をまっすぐに見ることができなくて――そもそも彼はお面をつけているからこれまでもちゃんと目を見れていたかはわからないが――視線を反らしてしまう。
「僕は楽しいと答えたけれど……だったら、すず、僕はどうしてすずと一緒にいるんだと思っていたの?」
私はぐるぐると考えた。不安になっていただけで、別にどうしてだとかは――でも、そう尋ねられれば、私の脳みそは、どうしようもなくみじめなものを弾きだしてしまう。
「……えっと、引き立て役、みたいな?」
「なにそれ面白い」
私にとってはちっとも面白くない役回りを、彼は笑った。あんまりな反応だけど、その返答から鑑みるに、私は彼に利用されているというわけでもないらしい。
彼は、出会ったときからずっと楽しそうだった。面白いよ、楽しいよ、もったいないよって、そう、声をかけてくるような人間だった。彼はただ、まっすぐに祭りを楽しんでいるだけの男の子なんだ。楽しいから、面白いから笑うだけで、みじめさを笑ったりしない。
「……自分のね、悪いところしか見当たらないの」
彼になら、薄汚い自分を、吐きだせると思った。
「顔とか、性格とか、勘定すれば、きっと、指が百本あっても、紙が百枚あっても足りない、考えれば考えるだけ、悪いところとか嫌なところとか、ううん、そうじゃなくって、私だけじゃなくって、自分を通して見てしまうとね、なにもかも全部、なんだかすごく悲しく見えちゃうんだ、私にとって」
声は震えていた。とても卑しく、恥ずかしいことを言っているのだから、無理もない。けれど私は、彼にだけは打ち明けられると、そう確信していた。
「私は、ご覧のとおり、とても弱気で卑屈な人間だから、知らない土地に来ちゃったってだけで……もうやだって……全部嫌になっちゃうの」
それだけじゃない。同情や親切心でだろうか親しげに接してくれる人間に、分不相応な引け目を感じたり、疑ったり、自分より眩い存在に嫉妬してしまったりもする。なにこれ。考えるときりがないじゃないか。こんな人間が、素直に楽しんでも許されるの?
ざわざわと風が吹く。木々を揺らし、歪に風車を回す、まばらな風だった。
「……ごめんね、変だよね、おかしいよね。私が悪いって、私もわかってるの」
泣きそうになっている私に、此の面は首を振る。
「変でもないし、おかしくもないさ。マイナスのほうに考えてしまうのも、別に君が悪いわけじゃない」
いくら突飛な登場の仕方をしたからといって、彼のことまで疑ったのに、その本人は私を慰めるようなことを言う。それだけが本当に申し訳なかった。
「わかるよ、すず。特別おかしくも、それがだめなわけでもない。だって、みんなそうなんだから。すずがそんなふうに考えてしまうのだって、当たり前のことなんだ」
「あ、当たり前?」
なにを言っているのかがよくわからなくて、私は素っ頓狂に尋ね返す。
「そう」此の面は頷く。「みんななにかしらを抱えている。そういうものなんだ。だからって、すずに、耐えろ、我慢しろ、弱音を吐くなと言っているわけではない。すずはとても正当だ」
「…………」
「だって、いまのすずは、住み慣れた土地を離れ、新たな土地に来て、全く知らない人間に囲まれることになって、特に不安に思うのも当然なんだ。考えても見なよ。君は望んで引っ越すことを選んだだろうか? こんなことになったのは、誰のせい?」
その質問は得意だった。
「……お父さんのせい」
「それでいい」此の面は褒めるように言った。「君が思ってるほど、君は悪くない。誰も責めたりしない。もっと楽に考えて……は、すずには難しいだろうから、もっと楽しんでくれ」
此の面は楽しそうに手を広げた。
ううん、彼は、いつも楽しそうなのだけれど。
「なにかを楽しむことに資格はいらないし、なにが必要というわけでもない。全力で、全身全霊で、楽しめ。大丈夫。今宵は素晴らしき神の無礼講。楽しくならないわけがない!」
私は、天恵を受け取った胸元をぎゅっと握った。
あの、網膜を白く焼きつけた、神聖な光。身から湧き漏れてしまいそうなほどの熱。満たされていった感覚。大好きなラムネの匂い。全部本物だった。まぐれあたりでも授かってしまった、私だけの宝物。いいのかな、私なんかが、私で、私のものに、してしまっても――ううん、難しく考えるな、私は、すごく、わくわくどきどきしてる。
引っこみ思案レベルカンスト、根暗検定一級、卑屈免許皆伝の私だけれど、わくわくどきどき、してしまっているの。
目頭が熱くなった。視界が湿っているから、きっと誰がどう見ても、私の瞳は潤んでいるんだろう。案の定、此の面は顔色を変え「ど、どうして泣くの」と慌てだした。私はそんな様子に目尻を下げる。
「此の面。あのとき引き止めてくれて、ありがとうね」
私がそう言うと、此の面は嬉しそうに肩を浮かび上がらせた。
毛並みがぶわりと広がっていくような、動物のようにかわいいしぐさだった。
「よかった。迷惑がられてたらどうしようって、本当は怖かったんだ」
「そういう常識的なこと、此の面もちゃんと考えられたんだね」
「考えられるさ。ときどき思っていたけど、すずって、僕をなめてるフシあるくない?」
おかしいな。なんでわかったんだろう。
少なくとも私は、初対面相手にはおとなしいタイプの人間なのに。
彼は私から少しだけ離れると私の足元を見て「おや」と漏らす。
「靴擦れしているね。痛そうだ。楽しいお祭りで怪我をすることほど、不幸なものはない」
「……そんなこと、ないよ」
此の面は不思議そうに顔を覗きこんでくる。
私ははにかみながら続けた。
「私、いま、不幸な気分じゃないよ」
どれだけ言葉を尽くしても、私の気持ちを言い表すことはできないだろう。これほどのものを、私は抱えたことがなかったから、上手に言葉へと置き換えられなかった。置き替えたくなかった。これだけの思いを、変貌させたくなかった。
ふわっと、また心地よい風が吹く。
それは私たちの髪や浴衣の裾を揺らし、風車たちの背を撫でていった。
此の面もにやりと微笑んでいた。
「今日は時間も遅いし、そうだね、治療のためにも、帰ったほうがいいかもしれない」
此の面はあのときのように熱烈に引き留めやしなかった。帰ってしまっても、もう私の心が変わり始めていることに気づいていたから。
「明日もきっと、神夏祭へおいで」
彼は去っていった。
私の辿った表参道を引き返していく。
カラカラと鳴る下駄の音はもう私を急かさない。
私は彼の背中が人ごみに消えていくのを、立ちつくしたまま眺めていた。
この無礼講はまだ続く。客寄せのための淡い発光体が滲む。研ぎ澄まされるような祭囃子。独特の熱気が耳や目に焼きついて離れない。口内にこびりつくラムネの味。ぞくぞく。次第に胸は高鳴っていく。私はもう一度胸を押さえた。
ああ。実感する。祭りは人を狂わせるみたいだ。熱気で煽りたてて、突拍子もないことだって平気でできるようになる。
「…………まつりだ」
カサカサ――と、両脇に立ち並ぶ風車が緩やかに回り始める。
私の呟きを聞き取ったかのように、背中から柔らかい風が吹いていた。
「祭りだ」
共鳴しあう。
一面の風車が音を立てて激しく回る。
呼応して風を招く。
涼しい首筋にときめきを覚えた。心地好い。興奮が収まらない。
私は手をギュッと握りしめ、大きく口を開く。
「祭りだぁああああああああ――っ!」
地上の全てを掻っ攫い、鼓動ごと舞い上げていく神風。
風車の調べを聞きながら、夜空を見上げて吠えた私に、それは追いたてるように吹き巻いた。強く長く、どこまでも高く登っていけるように思えた。足元に散らばっていた紙が祝福のように吹雪く。
あんまり鼓動が早いので、その痛みにもう一度、目が潤んだ。
もうやだ無理だって嘆いていた私だけれど、こんな、いてもたってもいられないようなことが、これから広がっていくのだとしたら。また明日と言ってくれるのだとしたら。
やっぱり私は、わくわく、どきどき、してきてしまうな。
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