第1606話 交渉人 Ⅰ

 季節の移り変わりは、色味も変えた。


 夏の日差しを受けて瑞々しく濃い色をしていた草木は、今はやや煤けている。緑を纏い続けているという点では変わらない木々もあるが、どこか、色が褪せてようだ。


 ペリースの下に巻いた防寒具を、少々寄せる。

 動かさない足の指にもしっかりと綿を仕込んでいた。


 対して、ディファ・マルティーマの執務室にやってきたトトランテは、テルマディニで見たような恰好そのまま。端的に言えば、季節に比べて薄着である。ひげも、植物と違い活気があるように見えた。


「帰ってきてくれたと見てもよろしいですか?」


 マシディリは、強引に口角を持ち上げ、何とか表情を柔らかくする。

 トトランテは、呵々、と髭を揺らした。


「それを決めるのはマシディリ様だでの」

「ディファ・マルティーマにいる限り、トトランテ様の足はトトランテ様のものですよ?」

「それはありがたき言葉じゃて。けんども、何時まで続くかもみものでありもすの」


 好々爺の如く口元に皺を作りながら、されども眼光は獲物を捉えた夜の狼の如く獰猛かつ怜悧に。

 トトランテが、両手を見せるように体の横に出しながら、大きく口を開いた。



「ティツィアーノ様からの言葉をお伝えいたしもす。


『血に飽くなきマシディリを、血に飽かせて見せよう』


 アレッシアの漢としてマシディリ様に惹かれぬ訳ではあらぬが、ティツィアーノ様もついていきたい漢じゃて」


 ため息、一つ。


(既に飽いていますよ)


 見上げた天井に絵画も無ければ過度な装飾も無い。ウェラテヌスらしい、素材をそのままの天井だ。燭台に精巧な銀細工が施されているが、気づく者がどれだけいるのか。


「古代の王は、なんと返したのでしたっけね」


「私も、すぐには出て参りません。ですが、その言葉を放った女王は古代王を追い返してはおりますが、息子を失い戦いには負けております」


 アビィティロがマシディリの小さな呟きを拾ってトトランテに返す。


 そう。

 ティツィアーノの宣言は、エリポスにとって都合の良い宣言だ。エリポス各地も知っているだろう。


「トトランテ様」

 思ったよりも小さな声であったが、気を張り直すのもおっくうになってしまう。


「今が私を討ち取る最大の好機ですよ。機を逃さず、ティツィアーノ様に合流されるのがよろしいでしょう。ああ、もちろん、好きなだけ見て行って構いません。ですが、第三軍団以外に近づくのはお勧めしません。少なからず犠牲が出ていますからね。捕虜の安全までは保障できても、それ以上はできません」



「物資は以前よりも少なかろう」

 くっくっくっ、と笑い、トトランテが頭を下げる。視線は外れないまま。

 その異様な体勢を維持するかのごとく、老人は去って行った。


(物資は少ない、ね)


 間違ってはいない。

 アグニッシモの凱旋式を迷うほどであり、その上、アグニッシモは戦利品をほとんど持ち帰れなかったのだ。


 補填は少ない。

 ウェラテヌスの財は減る。


 しかし、ディファ・マルティーマの輸送船が焼かれただけで全ての船が消えた訳では無い。

 もちろん、ディティキは完全なる警戒態勢にあるだろう。半島からの出迎えと言う意味でも、ディティキは最適なのだ。


 だが、上陸の適した港はまだまだある。

 第一軍団が滞在しているカナロイアもたくさん保有しているが、何よりもエリポス東端のビュザノンテン。地勢の良さから防御を固めすぎることを良しとしていない都市も大きな港を有するアレッシアの要地だ。


 輸送船も。カナロイアやマフソレイオからの支援が無くとも、ウェラテヌスにはカルド島がある。第二次ハフモニ戦争以来の熟練の水夫もいるのだ。


「マシディリ様」

 肘をついて額を押さえ、目を閉じていたマシディリの耳に静かすぎる足音と被庇護者の声が届く。


「叔父上経由で、ユリアンナ様から手紙が届いております」

「ぶじだったか」


 よかった、とこぼし。もう一度、良かったな、と妹と親友である愛妻を思い浮かべる。

 手を伸ばし、手紙を受け取った。

 直後、無事だったとはスペランツァから既に聞いていたな、と思い直す。既に手紙も届いていたはずだ。


「叔母上はなんと?」

 愛息が、もこもこになりながら近づいてくる。

 暑いですね、と言って、リャトリーチに防寒具の類を巻き付け始めていた。


「ティツィアーノの様子を伝えてきてくれていてね。片翼では飛べない。片足では歩けない。クイリッタの死とは、そういうモノだ、と言って回っているようだよ。雷神マールバラですらできなかったディファ・マルティーマの攻撃にも成功した、ともね」


「強い言葉ですね」

 ふむふむ、と愛息が言う。

 ただただ眺めていたい可愛さだ。


 愛息の代わりにもこもこになったリャトリーチは、真顔で立ち尽くしている。マシディリが目をやれば、眉間に皺を寄せるがそれだけ。マシディリも何も言わず、そのまま目を愛息に戻した。見ていて楽しい愛息である。家に帰れば、フェリトゥナやカリアダで暖が取れるだろうか。カリアダも、流石にもう泣かないだろう。そんな考えも、ぼんやりと浮かんでくる。


「隻眼の伯父上はエリポスでの求心力に苦慮しているようですね。だから、威勢の良いことを言って、なおかつ負けない戦果があると言い張らなきゃいけない。と言うことは、もう十年近く前のイパリオンとの敗戦をねちねち言われているのでしょうか」


 どう、とラエテルが目で言ってきた。

「ドーリスやアフロポリネイオとかが主導権を奪おうとしているのかもね」

 とも、付け足している。


「そうだね」

 そうかもしれない。

 ティツィアーノも、苦境にあるはずだ。


(であれば、交渉を?)


 誰が最適か。

 恐らく、それは目の前にいる愛息だ。血縁関係としても、人と人を繋ぐ能力を見ても、立場としても。


 だが、出来ない。


 マシディリはその決断を下せない。


 下したくは、無い。


 こてん、とラエテルが首を横に傾けた。

「大丈夫だよ、父上。母上も、伯父上よりも僕の方が好きなだから」


 でも一番は父上に譲ってあげる、と愛息が笑う。

 何も言っていないよ、と愛息の頭に無遠慮に手を乗せた。



「兄上」

 次の来訪者は、スペランツァ。


「アグニッシモからは解放されたのかい?」

 再会を喜び泣きじゃくる双子の兄に、双子の弟は抱き着かれ、「骨が折れる」と最初は冗談で、次第にこめかみに汗を垂らしながら短い間隔で訴えていたのだ。


「アグニッシモと再会したのは一昨日の話ですよ、兄上」

「そうだったっけ」


 そう言えば、カルド島の艦隊の到着の報告書を手に持っていたな、とマシディリは目を落とした。奥、少し埋もれているのはアレッシアからの報告書だ。


「少し休まれては?」

 手元の資料を確認しながら、マシディリは口角を持ち上げた。


「心配いらないよ、スペランツァ。メクウリオやサジリッオ様ともしっかり打ち合わせしておかないといけないしね」

「そのことですが、兄上」


 何故か、資料から顔を上げねばならない気がして。

 マシディリは、スペランツァを見た。足は動いておらず背筋も伸びているのに、どこかまっすぐに覗き込んでくるようなスペランツァが目に入る。


「私がエリポスに渡ります」

「スペランツァが?」


「父上の子で兄上の弟であり、カナロイア王太子妃の弟です。戦功もそれなりにありますし、何よりいざと言う時の防御戦闘は自身があります。セルクラウスの当主と言う箔もあり、父上の命で破談になったと言う体裁をとっていますが、イパリオンと婚姻関係を持ったこともあり東方との関係も悪くはありません。兄上ほど良くもありませんが、でも、東方諸部族にもそれなりに名が知られています。


 それに、ビュザノンテンの防御設備を高めることを良しとしていない方針も、ビュザノンテン―イペロス・タラッティアの交易路を確保して穀物を確保する重要性も、途中に浮かぶ島々の重要性もその帰属先の一つであるカナロイアとの関係の重要性も私は理解しています。


 兄上の全てとは言えませんが、兄上の懸案事項を、おそらく、アビィティロとパラティゾを除いて私が最も理解していると言う自負も、此処に」


 スペランツァが、胸の前の衣服を握りしめた。


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