第1607話 交渉人 Ⅱ
スペランツァの手が衣服を放す。
出来た皺は、もちろんすぐには消えず、今も残ったままだ。
「もしも不安があるのなら、リクレスを旗として連れて行かせてください。言い訳は、サテレスの心の安定のため、で如何でしょうか」
ラエテルを指定しなかったのは、ラエテルの初陣を果たさせたいと言うマシディリの考えを理解してか。
「サテレスに会わせるには、荷が重いかな」
思い出すのは、
「父上は、いつも、いそがしそうです。だから、私が父上の力になって、母上と一緒にすごしてもらいます!」との言。
(罪深いのは)
机の下で長弟のオーラによく似た色をしているマティを握りしめる。尤も、その色は布の奥。長らく見ることが出来ていないのだ。
「リクレスを連れて行く必要は無いよ、スペランツァ。時間もあるとは言い難いからね」
「義姉上の説得であれば私も協力いたしますよ?」
「べルティーナはすぐに認めるよ」
べルティーナは、そうだろう。
確実にリクレスの糧になり、ウェラテヌスの益となるのだから。
「冬の海は、荒れやすいからね」
「ですが、春を待つことは出来ません」
「その通りだよ、スペランツァ」
作戦の中核に、愛弟をぴたりと嵌める。
形はばっちりだ。不測の事態に対する文武家格もしっかり揃っている。
父上が死んでから欲が深くなった奴。
クイリッタはそう評していたが、同時にマシディリの真意も伝わっていると信じていた。
(
その感情を、奥底で圧し潰す。
「海は全てを押さえてこそ最大の効果を発揮する。海賊も、全ての海域に対して兵を繰り出せたからこそ殲滅できた。物資を考えても、イペロス・タラッティアとビュザノンテンは守り切らねばならない地だよ」
「理解しています。東方諸部族を切り取られないためにも、と。そして、兄上。兄上であれば言い触らすことは逆効果にもなりますが、私であればいざと言う時にティツィアーノの大敗を言い触らすことは利益も十分に返ってくる行為となります」
ティツィアーノの片目を奪い、片足を不自由にさせたのはイパリオンだ。
そのイパリオンの頭目であるプリッタタヴとは、マシディリは個人的な繋がりの方が強い友好関係が築けている。それを元にイパリオン騎兵の派兵も多いのだ。
「スペランツァ」
「はい」
「ビュザノンテンに入り、準備を整えてくれ。防衛戦力には第九軍団からヘグリイスとペディタをつけるよ。それから、イペロス・タラッティアにはメクウリオ様を入れる。物資の流れ、海洋交易の準備としてはサジリッオ様も入れるから、再び連携を頼むね。
それから、ボホロスに対する軍事命令権をメクウリオ様に付与し、その援護をスペランツァに付与するけど、基本的にはスペランツァはイペロス・タラッティアまでしか北上しないこと。
ティツィアーノ様は九分九厘トーハ族を味方に付けようとするからね。とはいえ、メガロバシラスとの講和を早々に諦めることは無い。だから餌となるのはボホロス。ボホロスも失った港街を奪還するためにティツィアーノ様に近づくことは容易にあり得る。
マールバラはおろか祖国の英雄候補も失ったボホロスに人材的な魅力は感じていないよ、とメクウリオ様にも告げておくよ」
「殺したのは兄上ですけどね」
「はは。引き抜こうとはしたさ」
何たる背反か、と思いはする。
ティツィアーノに対しては何度も連絡を取ろうとしているのに、ボホロスの若武者ジナイダは敵の士気を挫くために殺すと簡単に決断を下したのだ。
「スペランツァ。話の続きだけど、東方諸部族とは今後の方針について話し合うように。特に共通の財貨を用いた経済圏の話はこれからユクルセーダと詰めようと思っていたからね。思いついたのは最高軍事命令権保有者になった時だからアビィティロとパラティゾ様ぐらいにしか共有できていないけど、頼むよ」
言いながら、資料を探し出して前に置く。どしん、とスペランツァがマシディリの動きに合わせて小さく言った。それほどの紙束である。
「イパリオンには春先の出兵を詰めておいて。行き先がボホロスになるかエリポスになるかは未定だけどね。それから、クルカル・メフタフの子供達が率いるのであれば東方諸部族の軍団の行動も認めるよ。でも、今回味方に留めるための格別の措置は決して取らない。
あくまでも、将来を考えたうえでアレッシアの利益となる交渉を。
東方諸部族にはそれで良い。今が欲しくて妥協はしないでくれ。交渉姿勢としては、敵対してきても構わない、こちらには最強のアレッシア軍がいる。それぐらいで良いよ」
「かしこまりました」
「メガロバシラスに対しても、軍拡は決して認めないでくれ。でも、アリオバルザネス先生の弟子やその弟子との連絡は密に取って、将来的な軍拡を匂わせるのは構わないよ。東方諸部族との経済圏の共有も構わない。エキシポンスならその利益が良く分かってくれるはずさ。
それから、ドーリスには威圧を。アフロポリネイオにはリングアの返還を。カナロイアには何もしなくて良い。手紙も出さなくて良い。人もやらなくて良い。むしろ海上交易の邪魔であるならば、リントヘノス島すら占拠しても構わないよ」
「強気ですね」
スペランツァが口を丸くする。
リントヘノス島は、カナロイアが奪取した島だ。東方諸部族とエリポスを隔てる海域に浮かぶ交易拠点の一つである。
「カナロイアの外道親子はクイリッタの暗殺計画を知っていたよ。今になって分かった話だけどね。だから、兄弟の契りなんて持ち出して破格の贈り物もしてきた。心証と、私の勝利のためにね。
だから働いてもらうのさ。フォマルハウトに。兄弟の契り通り、兄に尽くせ、とね」
「実弟で良かった」
スペランツァがほぼ棒読みで言う。
いつもの調子だ。ラエテルの渡した書物以来、元気の無さに少しばかり心配していたが、大分戻ってきているらしい。
「ああ。もちろん、ジャンドゥールには礼を以て接してね。あそこは味方に留めておくために譲歩も妥協もして良いよ。限度もスペランツァに任せるとも」
「リングアはどうします?」
吐いた息は、短い一つだけ。
「弟を二人も奪ったアフロポリネイオは決して許さない。ドーリスに至っては三人も奪おうとした。故に、必ず炎がその歴史を焼き尽くすであろう。
と言うのが、当主としての立場かな。
自分で送り、滞在を認めておいて何をと言うのもあるけど、リングアには最後までウェラテヌスらしくあることを求めるよ。そして、仇は必ず取る。
尤も、兄としては生き残っていてほしいけどね」
次の息は、長い。
顔も横に。スペランツァから視線を切ってしまう。
「助けたいよ。でも、それでアレッシアが窮地に陥るのなら、許されることでは無い。父祖だって、助けたかった人質はいたからね。私だけのわがままはできないさ」
「良い兄でした。四番目ぐらいに」
さらりとスペランツァが言う。
気遣いか、本心か。どちらもだろう。それで構わない。だからこそ、
(クイリッタなら)
これらの交渉をこなしつつ、リングアも救い出せたのだろうか。
尤も、本人は否定しそうだな、とマシディリは口元を動かした。
「アビィティロも兄上の渡海に反対していますし、最近は疲れもあるようなので少し休んでいてください。すぐに終わりますよ」
「悪いね」
否定する気力も起きず。
いや、疲れを否定するのは、スペランツァの気遣いも否定することになってしまうからか。
それでも時間を見て共有資料をまとめ、スペランツァと話し合い、サジリッオとアビィティロも交えて方針を決め、アルモニアに結果をまとめて送りつつパラティゾとも結果を共有する。
スペランツァとメクウリオと一万一千が出航するまでは、あっという間の出来事であった。
血相を変えた伝令が駆けこんでくるのも、また。
「スペランツァ様を送り届けた輸送船のほとんどが、沈没いたしました!」
目の前が暗くなると言うのは、こう言うことか。
目を閉じ、思わずマシディリは壁に手をついてしまう。何を言っているかは良く聞こえないが、手を横に振るのだけは忘れない。よわよわしい動きだとは自覚しているが、他の何かを考えられる状況でも無かった。
復讐の、憎悪の炎は確かにある。心の中で今も燃えている。
一方で、体は雨でぬれていた。濡れた体では、燃えることは出来ない。
輸送船を襲った者は、もちろん、ティツィアーノ・アスピデアウス。
マシディリが戦った者達は強敵揃いだ。
地形の利用と敵の理解、混成部隊の統率が抜群にうまかったのがマールバラ。
元々高い素質に高い成長性が加わっているイフェメラ。無二の突撃突破によって前者両名にも勝てるマルテレス。大略を組み立て、機を伺い、最も追い詰めてきたのはバーキリキ。
彼らに比べ、ティツィアーノは確かに確実に勝るとは言えないだろう。
だが、彼らよりも圧倒的にマシディリについて理解し、誰よりもエスピラの教えを授かっていたのはティツィアーノ。
ティツィアーノ・アスピデアウス。
それは、マシディリにとって最強の敵の名前かも知れなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます