第716話 己に酔っていく
ジュラメントが、悠々と、自分に酔っているかのように口を開いた。
「最初から全てが完璧にできる人など存在しないでしょう。しかし、右も左も分からない者を導くために高官があるわけではありません。ある程度できる、いえ、しっかりと務め上げることができるからこそ高官に任命しているのです。高官になる以上、学ぶだけはあり得ない。命を預かっている以上、それはあり得ない。
そして、私が思うに『務まらない』と言うのは推薦した者への侮辱ともなりましょう。人を見る目が無いと。無能な人物をアレッシアのために献上したと」
だん! と机をたたく音が聞こえた。
ジュラメントは何も変わらない。マシディリも、叩いたのはヴィエレあたりだろうと推測をたて、音の方向に顔を向けることはしなかった。
代わりに、と言うべきか、執政官となったルッカリアがあたあたとしている。ジュラメントとマシディリ、そしてその奥を見て、落ち着くようにと指を広げているのだ。
「自信をお持ちください、マシディリ様。
それとも、マシディリ様の実力を見抜いたエスピラ様の目、多くの兵に声をかけたインテケルン様の尊重、オプティマ様の酒の席での話、マルテレス様の弟子自慢。全てを無視されるおつもりですか? サジェッツァ様だって、アスピデアウス最高の娘をマシディリ様に嫁がせているのです。マシディリ様をアレッシアの漢だと思って」
マシディリは、自分に対しての説得では無いと思った。
要するに、言い訳だ。
マールバラと激闘を続けたマルテレスの軍団。その内、今軍役についていない者達が皆マシディリを認めている。エスピラとサジェッツァと言う派閥の二大巨頭も認めている。
そう伝え、周囲の者が反論のために乗り越える壁を高くしているのだ。
同時に、マシディリに逃げるのは許さないとも伝えてきている。
「その評価を裏切るわけにはいかないだろう?」
ジュラメントの言葉にルッカリアが背筋の力を取り戻した。
「マシディリ様。私も最大限支援いたします。望むことがあれば、軍事命令権保有者にして執政官である私が力になりましょう。できうる限りの援助をお約束いたします」
大船に乗ったつもりで。私もマシディリ様の実力は直接見ております。
思い返せばメガロバシラスとの戦いでは、とルッカリアの演説が始まった。
これでヴィエレなどの怒りを露にした元エリポス方面軍の面々はある程度収まるだろう。アスピデアウス派も、問題は無い。いや、これは最初からか。
要するに、一部のアスピデアウス派の者はイフェメラの功でなくなれば良いのだ。黙認と言う形をとれば、マシディリが失敗しても問題無い。自分たちの推薦では無いのだから。いや、失敗こそ派閥としては嬉しいことだろう。
同時に、サルトゥーラ・カッサリアは結果的にマシディリが失敗することは良くとも、失敗するためにアスピデアウスが足を引っ張ることは許さないだろうな、と言う信用もマシディリにはあった。
(どう、いたしましょうか)
普通に考えれば、イフェメラはメガロバシラスで療養しているだけなのだ。そこまで時をかけずとも復帰するだろうし、ジュラメントにも戦うなと言う指示が下りているはずである。
(その関係か?)
ジュラメントやルッカリアの狙いは。
「期待しているのですよ、マシディリ様」
相変わらず、常とは違い慇懃なジュラメントの声が鼓膜を揺らした。
「それとも、期待に応えないのがお好きなのですか? 母親のように」
何よりも早く拳を握りしめた。
おかげで、口は閉じる。拳は固く、親指は白い。
ひゅ、と言う掠れ引きつった音は、誰の呼吸か。判別はつかなかったが、視線の先のジュラメントの動きも一度止まったのは分かる。重心が後ろに下がったのも。それから、ルッカリアの目がジュラメントに移動したのも。
そのジュラメントが、口元の余裕を取り戻す。
「メルア様は、ウェラテヌスの妻と言う期待に応えていない」
閉じるような力を籠め、マシディリは口を開いた。
「母上は立派な方です」
声。どうしようもなく、威圧的だ。
それにしても、良く通る。天幕内を、一瞬で制圧してしまうほどに。
「義兄上が言うには、期待に応えるのがウェラテヌスだそうだな。ウェテリを戴くとはそういう事だろう? だから、べルティーナ・アスピデアウスはウェテリを戴き、アフェート・カッサリアは賜ることが無かった。それなら、ある程度納得させることもできるだろう。
だが、どうだろうな。
義兄上は、好みで特別扱いをする。それも、特上の。あの偏愛ぶりは異質だ。
もしや、そう言う、ことか?」
ジュラメントが眉を上げ、しっかりとマシディリを見ながらゆっくりと最後の一文を告げてきた。
「撤回しろ!」
机を蹴り上げる音がした。同時に、ヴィエレの叫びも。
どが、と机が落ちる。そのヴィエレは、誰かに取り押さえられているようだ。
「メルア様の悪評ぐらい知っているだろう? 義兄上の妻に相応しくないことも。マシディリもそう言われないためにマールバラを打ち払った力を見せるべきだと言っているんだ」
お前は最初から気に食わなかったんだよ、と叫ぶヴィエレに対し、マシディリは右手を軽く上げた。静かにするように、と。上に立つ者として当然の振る舞いで。
それから、ゆっくりと口を開く。
「皆様の協力のおかげです」
らしくも無く、氷に近い声。
ジュラメントも、もう動揺は見せてこない。
「その皆様がそろっている。それとも。新しい面子はパラティゾ様やグライオ様に及ばないと仰せかな?」
「いえ」
叔父上がグライオ様に匹敵するとでも?
そんな言葉は、決して口にしない。ルッカリアとジュラメントとフィルフィアを合わせてもグライオの方が良いと思っていても、言うことは無い。
(指揮官とは、誰よりも情が深く冷淡であり、誰よりも自分に酔いながら自身の決断を疑い、誰よりも利を分配し己の利益に強欲でなくてはならない)
いや、この言葉では無い。
後ろでは、見損なったぞ! とヴィエレが吼えている。
抑えていたのは、プラチドとアルホールだったようだ。ヴィエレに落ち着くように言いながら、ヴィエレと同じ気持ちだと告げている。
「気は長く、雌伏は吉。慎重は美徳。短気は勇敢では無い」
鍾乳洞から池に滴る水の声で、マシディリはディーリーの言葉を発した。
だん! と足を踏みしめた音が聞こえ、「うー」とヴィエレが口を閉じつつも唸っている声が聞こえてくる。
マシディリは怒ってくれた感謝を伝える笑みをヴィエレに向け、それから視線を前方、ルッカリアに戻した。
「謹んでお受けいたします」
「それは良かった!」
即座にルッカリアが反応する。
マシディリは、浮かれるルッカリアに「ただし」と重しを付けた。
「指揮権だけでは無く、罰を与える権限も私にください。若輩者の言葉など、果たしてどれだけの者が聞くことでしょうか。破っても何の罰則も無い命令など、どれほど有効なのでしょうか。
戦場とは危険な場所です。
我々ですら全貌を把握しているとは言い切れない状態なのに、一人一人が全てを把握し、これが最適だと信じられるでしょうか。命の危険があり、本来の指揮官では無いのに従えるでしょうか。
私は、体裁だけでも整えておくべきだと思います。
もちろん、実際に罰が下されるべきなのかどうか。違反したのかどうか。その調査と罪の有無の判断はルッカリア様やオリンピロ様が行われるべきだとは思っております」
ジュラメントの顎が引かれたのが見えた。
眼光も厳しくなっている。
「そうだな、それが良い。それが望みなら、私が叶えるとも!」
だが、横にいるルッカリアは気づかなかったようだ。
それどころか自分の言葉が誠かどうか確かめられていると思っているような節もある。
終いには「オリンピロ様はどうですか?」とマシディリの意見を通りやすくする始末だ。
「どうぞ、どうぞ。それがよろしいでしょう。いやいや、まとめるのは大変ですからな。それぐらいの権限が無いと。ええ。大変でしょう。それぐらいの権限は必要でしょうな。
まあ、確かに諸氏の懸念も分かる。だが、広いで認め心てやるのもまたアレッシアの漢なればこそ!
タルキウスの有力者、スーペル・タルキウスもあのエスピラ様を若輩者扱いする代わりになんでも認め、どのような境遇も受け入れておりましたからな。ならば我らはどうするべきか。言うまでも無いでしょうな。言うまでも無いでしょうとも」
(やはり)
伊達や酔狂で執政官になったわけでは無い。
主に自派の者に対して声を向けつつも、その実ジュラメントらの言葉を完全に封じた男を見て、マシディリは不安を先に覚えたのだった。
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