第5話 庇護者
「移り行く心をどう自分の方へ向かせるか、どう引き留めるかも恋愛の楽しみの一つだ。結婚とは違い、個人の意思で動かせる」
「その内、私も楽しめるような男になりたいと思います」
尤も、それすらセルクラウスの息のかかった者でないといけないと言われたとことは心の奥底にしまい込んで。
エスピラは、角笛が鳴り響いて観客のボルテージが上がった闘技場内へと目を向けた。
オッズでは、魚型剣闘士の方が人気らしい。人気の秘密は体格だろう。魚型剣闘士は、大きな図体をしている。
ただ、魚を模しているが故に目の穴が小さい兜である魚型剣闘士よりは相手の鳥型剣闘士の方が視界が広い。これが歴戦の剣闘士ならば露出している腹部などに意識を集中して視界の悪さをカバーするのだろうが、新人には厳しいだろうとは、エスピラはこれまで見てきた経験で分かっている。
(市民も分かってはいるか)
剣闘士試合や戦車競走はアレッシア市民最大の娯楽なのだから。
「ルキウスが、君を晩餐会に招きたいと言ってきたよ」
インターバルで剣闘士同士が離れたタイミングでタイリーが口を開いた。
「ルキウス様が?」
場内では消極的な剣闘士に観客がブーイングを浴びせている。
「執政官選挙への布石だろう。貴族側の執政官としてほぼ確定しているとはいえ、まだ横やりが入らないとも限らない。何せディティキ、トラペザ、アントンを平定し、エリポスの西に橋頭保を作れれば凱旋式を行えるからな。そして、その三つは最早落ちたも同然ならばハエが群がっても何らおかしくは無い」
ブーイングに消えないようになのか、やや大きめな声でタイリーが言った。
タイリーの指し示す『ハエ』にタイリーの実の弟であるルキウスも含まれているのかは、考えかけてエスピラはまたもやその思考をかき消すことにする。
「イルアッティモ様は?」
「既に軍団長補佐にすると約束しているそうだ。故に今回の晩餐会には貴婦人も多く訪れる」
そういうことか、とエスピラは納得した。
愛人の話を先に出したのは出会いの場にもなりうる晩餐会に今回は女性も多いからか、と。
「ルキウス様の執政官就任はセルクラウス一門と深いかかわりを持つウェラテヌス一門にとっても喜ばしいこと。私程度で良ければ、喜んで応じましょう」
「そうか。明日の夜だ。当てはあるかね」
「マルテレスを誘おうかと思っております」
またか、と言う顔をタイリーが浮かべた。
「マルテレスは私よりも優秀です。必ずや、アレッシアの役に立ちましょう」
「にわかには信じがたい話だが、ま、誰を連れていくかは君の自由だ」
「ええ。是非に。できれば、タイリー様が三度目の執政官に選ばれるときには軍団の仕官に入れて置けるほどに地位を引き上げておくべきだと思います」
今度はタイリーが露骨に嫌な顔をした。
見られて困る人もいないので、エスピラは窘めようとは思わない。
「何が悲しくて一年間無給での国のかじ取りを三度もしなくてはならないんだ」
執政官は一年任期のアレッシアの政治・軍事のトップである。
ただ、国への奉仕を求めるために無給であり、自身の事業に近いことは極力してはならないなどの私腹を肥やせるようなことに対する制限も多い。
正直、執政官は何度も就きたい役職ではないのだ。
一方でウェラテヌス一門は代々複数回の執政官経験者を輩出しており、そこまでアレッシアに思い入れる血筋だったからこそ一門の財政が傾いたのである。
「ハフモニとの戦争のためかと。海の向こうに橋頭保を築きあげる難しさは元老院議員の多くが実感していることでしょう。なればこそ、彼の国の喉元に橋頭保を作り上げた時に軍団長として従軍していたタイリー様による早期決着を望んでいるのではないでしょうか」
いつかは戦うことになるのは両国ともに分かっているが、また十年以上に及ぶ戦争になってはたまらない。その思いは、敵対しているとはいえハフモニとも一致しているだろう。
「その時は君を副官に任命してやろう」
冗談めかした声であったが、タイリーの目は本気の物である。
「お戯れを。アレッシアはディティキを落とせばすぐにでもハフモニに宣戦布告をするはずです。その時はまだ私は軍事命令権を持てる年齢ではないかと」
「執政官が動きやすくするための副官だ。認められないなら出馬要請すら断るまで」
「そうなれば永世元老院議員の席を持ち出してくると思います」
元老院議員は三年任期。基本的に連続当選は出来ないが、国の方針に一定の連続性を持たせるために任期の無い元老院議員が存在する。それが永世元老院議員だ。
アレッシアの少し変わったところは議員でなくとも議論に参加するだけなら資格があれば誰でもできることだが、最終決定は元老院が下す。法律の提出も限られた役職に与えられた権利あるのに、その最終決定に戦場に立てる限りいつまでも関われるのだから、永世元老院議員の権力は非常に高い。
「世襲が増えれば国が腐る。何のために私が最高神祇官に着いたのか、トリアンフとコルドーニとてその程度のことぐらい分からないわけではあるまい」
前者はタイリーの長男、後者は三男である。
二人とも、今の元老院議員だ。
「いや、そもそも年齢的にはトリアンフは執政官を経験してもおかしくは無い。私ではなくトリアンフを執政官にすれば一人を三回も執政官に任命する愚を犯さなくて済むだろう」
エスピラは酒を要求して、勢いよく傾けた。
コップを空にして口を開く。
「トリアンフ様は大人しく傀儡になるお方ではないでしょう」
「そんな小賢しい演技はしなくて良い。あれは、大望だけが執政官の器の男だ。あれの子も、少々問題を起こし過ぎた。かと言ってタヴォラドを差し置いてコルドーニを先に執政官にするわけにもいくまい。ルキウスも、トリアンフの何が気に入っているのか……」
次男タヴォラドはタイリーが血の繋がった子で一番期待している子であるのはエスピラも良く知っている。だからこそ、大事な局面で執政官になって欲しい、自分の傀儡で消費してほしくないと思っているのは良く分かるのだ。
(私の評価が無駄に高いのもタヴォラド様のおかげだろうな)
タイリーの絶対評価は高くは無いが、一番信用する弟ルキウスも次男。
次男は優秀だと言う色眼鏡が、タイリーにはあるのだろう。
「最高神祇官と執政官を同時に兼ねても問題は大きくならないかと。サジェッツァも味方になってくれましょう」
「アスピデアウスのか。開戦時の執政官は彼でも良いのではないか」
「サジェッツァの年齢なら、
サジェッツァ・アスピデアウスは今年三十。
国の政治・軍事のトップである執政官になれる年齢としては一応三十歳からであるので要件は満たしているが、若いと若いで変な横やりと嫉妬が入ってくる。
「そうだな。では、やはり私か」
大きなため息を吐いて、タイリーがフォルマッジョへガラスの器とコップを押し出した。
すぐさまチーズが盛られ、酒が注がれる。
目の前の剣闘士試合は人気通りに魚型剣闘士が優勢らしい。
「君は、守り手までは経験していたな」
「叔父が死んだときの臨時ではありますので一か月ですが、一応は」
アレッシアの国を動かすものは政治と軍事だけでなく宗教も経験しなくてはいけない。
これは、貴族ならば主に十代の時に任ぜられる予言の書である『オプティアの書』の管理委員、それから神殿の守り手、神官、最高神祇官と続く。このうち、管理委員と守り手は任期中に亡くなれば血縁者が残りを全うするのが慣例であった。
ウェラテヌスの場合は、継げる者がエスピラしかおらず、一応経験者となっている。
「では次の処女神の神官にしよう」
アレッシアは多神教国家。信仰する神は自由。
それでも剣闘士試合を豊穣の神に捧げるように、国家の守り神として処女神を祀っている。
処女神の巫女は職務を全うするまでは純潔でなくてはならず、『惑わさないため』に処女神の神殿に努める守り手や男の神官は半年任期なのだ。
「随分と横暴な人事に思えますが」
「最高神祇官の一声だ。それぐらいは通させてもらう。それと、ルキウスが執政官になった暁には君を財務官の若者ポストに座らせるように動いておこう。君を戦場に連れていきたいなら官職があった方がルキウスの意見も通りやすかろう」
元老院議員や官職についている者には従軍義務がある。
もちろん、全員が行くわけにはいかないのだが、全く行こうとしない者の声には誰も耳を貸さなくなってくるのがアレッシアだ。
「おっしゃる通りかと」
エスピラとて、全三十席、若者用ならば八人までの財務官にはその内就きたいとは思っている。
そこが法務官、そして執政官へと繋がる要職なのだから。
「財務官であらゆることに触れ、副官で実際の動きを見る。自然な流れだとは思わないか?」
「ご期待に添えるように精進いたします」
例えタイリーが上機嫌に言わなくとも、エスピラにはこれ以外の返答は用意されていないのだ。
「硬いな。まあ良い。このタイミングで君を神官として派遣するのはハフモニがこちらの執政官になり得る者達の情報を集めていると小耳にはさんだからだ。とは言え、神聖なる神殿に確証も無く武装した者たちを送るわけにはいかないだろう?」
「私がいる半年の内に来れば良いのですが……。ハフモニはインクレシベが何者かに暗殺され、また行政派閥と軍派閥で争い始めたと聞いております。果たしてその状況でアレッシアに喧嘩を売ることができるのでしょうか」
タイリーが酒を溢しかねないほどに肩を揺らした。
「何者かに、ね」
笑ったまま、タイリーが言う。
エスピラは表情を変えずに。剣闘士試合を見守ったまま。
「インクレシベを殺したとされる奴隷は磔刑に処されました。真相は不明かと」
「そうだな。君がそう言うならそうしておこう。暗殺は、アレッシア人にとって不名誉で尊敬を集めないやり方だからな」
「暗殺された人など、数えきれませんよ」
とは言っても、アレッシアにおける暗殺など具体的な殺害方法が残っているか、『大雨の中に消えた』など暗殺をごまかしているケースがほとんどではあるが。
「さて、君の質問に答えるならハフモニからの開戦はしばらくは無理であろうな。だからこそ東方をアレッシアの物にし、北方を叩いて東方及び南方諸国と条約を整える。マフソレイオの女王は君のことを大層気に入っているらしいから、君の仕事はまだあるぞ」
「身に余る光栄にございます」
南方、神の末裔を名乗るマフソレイオの現女王は、数年前は幼い男の子からなる親衛隊を結成したことがあるほどにある程度は国を私物化している。
それでいながら肥沃な大地を保持しているので、使節の人選さえ間違わなければアレッシアにとってこれ以上ない味方になるのだ。
にわかに場内が沸き上がった。
大逆転で、鳥型の剣闘士が魚形の剣闘士を押し倒して刃を首に突きつけたのがエスピラの目に入った。
最初は盛り上がりに欠けたが、インターバルの後は互いに泥臭く我武者羅に戦った剣闘士たちに、観客は満足したようである。剣闘士が殺されることは滅多にないが、助命を嘆願する叫びが起こるほどに、心を掴んだらしい。
(仕込みかも知れんがな)
剣闘士が一人引退に追い込まれれば、主催者だけでなく追い込んだ剣闘士を雇っている側も結構な額を払わなくてはいけないのだから。
「話が以上なのでしたら、これにて失礼いたします」
エスピラが立ち上がると、荷物を持ったまま不動を保っていた奴隷が近づいてきた。
エスピラはマフソレイオの神牛の革で作られた手袋をまず手に取り、左手にはめて紐を手首に巻いて固定する。
「今夜、どうかね」
タイリーがエスピラに視線を向けて来た。
「申し訳ありません。私が神官になるのであれば、時を同じくして信用のおける者を守り手として用意した方が動きやすいかと思いまして」
「そうかい。で、誰を推薦して欲しい?」
「マルテレス・オピーマを」
「またかね」
タイリーが今度はどこか拗ねたように言った。
「よろしくお願いいたします」
エスピラは取り合うことなく慇懃に言って、マントを羽織る。左側が完全に隠れたことを確認してから、もう一度だけ挨拶をしてエスピラは闘技場を後にした。
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