第4話 庇護者

 盃を模した円形闘技場で、一人の若者が雄たけびを上げた。


 体に傷はついているが、筋肉と脂肪の鎧が大怪我になることを防いでおり、敗者も息は荒いものの立ち上がって舞台を降りていく。勝者が中央に来れば観客の目も新たな剣闘士の門出を祝い、敗者には回復を司る白いオーラの使い手が集まり治療が開始された。


 時刻は昼を少しばかり過ぎた程度。残る新人戦はあと三戦。

 大方、予定通りに進んでいると言っても差支えは無い。


「どうぞ」


 エスピラの前に少し黄色いガラス容器に入ったチーズとスプーンが出てきた。


 料理人を雇うのではなく、専属の奴隷を使っているのは機密保持の意味合いもあるからだろう。

 屋根と壁のある、闘技場と同じ高さの一室。観戦だけに使わるわけでは無いことは観客にだって伝わる。闘技場の持ち主に許された半個室なのだ。


「どうも」


 エスピラは礼儀としてすぐに掬って口に運んだ。チーズがどろりと口の中で溶ける。はちみつとオリーブオイルの香りだけでなく、胡椒の香りも広がった。


「流石はフォルマッジョさんだ」


 エスピラは奴隷、フォルマッジョに顔を向けて一言添えた。


 料理人における奴隷と自由人の違いは仕事を選べるかどうかでしかない。

 自由人は金払いが良い方に行けるが、奴隷は必ず主人の用件を優先せねばならず、主人抜きで旅行には行けないだけ。料理の腕は変わらない、むしろ主人にとっては奴隷の方が自分の舌に合わせてくれるので人気なのだ。


 だからこそ、料理人の奴隷は兵役や子作りの義務のない奴隷のままにされることが多い。奴隷サイドとしても、不当に長い間奴隷でいることになるため賃金が上がり家での待遇自体は良くなる。

 故に四十も終わりに差し掛かっているフォルマッジョは奴隷でありながら一般市民と同じ羊毛の服を纏い有力者と同じく羽毛の布団で寝ているのだ。


「残念ながら、フォルマッジョばかりはいくら君の頼みでもあげられないな」


 それまでずっと闘技場内を見ていたタイリー・セルクラウスがエスピラの方を向く。

 くすんだ金髪は、今エスピラが食べているはちみつとオリーブオイルが交ざったチーズの色に良く似ている気がした。


「分かっております。わざわざ危険を冒してまで身分階級を破り羊毛を着せているのですから」

「何。ここは私の闘技場。そして私専用の部屋。間違いなく、私的な空間だよ」

「なるほど」


 興行主は、タイリーでも無ければセルクラウス一門に連なる者でも無いのだが。

 そこは、わざわざアレッシアの者が今のタイリー及びセルクラウス一門に盾突くところでは無い。


「納得してないようだが、ここにいるのは私と私の家内奴隷と今回の興業の手配を任せた息子だけだ。最も、血の繋がっていない末の息子だがな」

「私は演目の順番と時間、入場券と出店の手配をしただけ。実際に動いたのは、タイリー様です」


「ディティキの弱体化とメガロバシラスとの密約を結ぶには君が最適だったからな。何。今の私は元老院に議席を持たないただの最高神祇官。時間なら君よりあるさ」

「お戯れを。ただでさえアレッシア随一の名門の当主であり、宗教のトップである最高神祇官なのですから。時間は、私より無いでしょう」

「本当のことさ。私はもう六十を過ぎた。高官だからまだ兵役の義務はあるが仮に新しい妻を迎えても子供を設ける義務はない」


 タイリーが琥珀色の酒を傾けた。

 空になったコップが机に戻ってきたのと同時に、フォルマッジョが新たに酒を注ぐ。


「君もどうかね」

「いただきます」


 出された食事は断らないのがアレッシアの作法である。


「イルアッティモ・ティバリウスの報告は聞いた。それ以上の話が聞きたい」


 まずは出された酒で喉を潤してから、エスピラは口を開いた。


「もうじきアレッシアにも報告がもたらされるかと思いますが、ディティキの王は使節が去った後に死にました。死ぬまでの一週間にアレッシアとの対決姿勢を作り、親アレッシア派の重鎮は追いやられ、調整役は既に亡く。国は混乱したまま女王とまだ五つにもならない王子を奉じて戦うことになるでしょう」


「メガロバシラスはどうなっている?」

「軍を動かすにはお金がありません。北方の異民族への備えと二十年近く前の大遠征の失敗、二年前に艦隊が燃えてしまいましたから。特に大遠征の失敗は王国の凋落を意味し、エリポス内での絶対的な発言権はもうありません。財務長官が、今はアレッシアと手を取りたいと」


 エスピラは剣を抜き、鞘の中に入れていたパピルス紙を取り出した。

 机の上を滑らすようにタイリーに手渡す。


「手付金は、既に財務長官殿の懐の中に」


 タイリーが小さく笑った。


「アレッシアのためにアレッシア人にとって不名誉な手段も厭わない君のことを、私は高くかっているよ」

「アレッシアが存続しなければ、何のために父祖は全てを投げうったのか分からなくなってしまいますから」


「ウェラテヌス一門か。実に気高い一門だったよ。アレッシア建国からの名家で、ハフモニとの戦争では一門の蔵を空にしてでもアレッシアのために造船した。貴族パトリキの模範だ。あの後、本家筋の幼い次男と長女を残して全員死ぬとは、思いもしなかったがね」

「アレッシアのために死ぬのは一門の誉れ。父祖もお喜びでしょう。ですが、皆が名を取るわけにはいきません。ですから、私は実を取るだけにございます」


 淡々と言って、エスピラはチーズを完食した。

 闘技場には次の剣闘士が入場し、武器の切れ味を審判が観客に示している。


「そこまでアレッシアに尽くしてくれるウェラテヌスに、私が与えられたのがあんな娘だと言うのは、親ながら心苦しい限りだ。オルゴーリョ殿が聞いたらなんと言うことか」


 ため息交じりにタイリーが体を小さくした。


「今のアレッシアで最も力があるのは間違いなくセルクラウス一門、第一人者はタイリー様です。陽が昇る勢いの一門と、最早名前しかないような没落の一門が繋がるのであれば父も大喜びかと」

「それはこちらも同じことだ。誇りも憐憫も買える一門など今のウェラテヌスぐらいなもの。その上君が手に入った。それも、扱いの難しいあの娘でな。いや、最早君にしか制御ができないと言うべきか、押し付けたと言うべきか……」


 タイリーの歯切れが悪くなる。

 横では、奴隷のフォルマッジョまで身を小さくしていた。


「私は満足しております。今のウェラテヌスが持ち直しつつあるのも、今回の成果も。全てはタイリー様の財のおかげです。これは間違いなく、婚姻による成果でしょう」

「あれと、子を為せるのかね」


 迷いなく言い切ったエスピラに、タイリーが声に強さを戻して返してくる。

 エスピラは酒を飲み干して、机の上に静かに置いた。


「タイリー様と言えども、私の妻を悪く言わないでください」

「悪く言うのは私だけじゃないさ。噂は、絶えないだろう?」


 エスピラは、一度眼球を動かしただけで全ての感情を内奥に押し込めた。


「何。愛人など、最早誰もが見て見ぬふりをしているだけに過ぎない。有力者の結婚に一門の結びつき以上の意味など無いからな。だが、誰との子か証明できなれば、証明できても妻に浮名が流れていて子の父親とされる者の特徴が子に無ければ本当の親ごと子は処刑される。男が処刑されるのもそれでできた子が処刑されるのもどうでも良いが、仮にも娘が処刑されるのは心苦しい。君との明確な繋がりが消えるのも損失が大きすぎる。それだけは避けて欲しいのだ。分かってくれるな。君の後妻に孫をつけると言う手もあるが、私は我が子とはいえ極力君との間に何も挟みたくないのだ」


 親子が処刑される例としては、無能な男が二人以上の女性をひっかければ、その引っ掛かった女性と子供ごと無能な男と育ての親を殺すと言うものがある。。無能な血を広げた罪と、無能な血を生み出した罪で。


 世界が狭いことは否めないエスピラの妻、メルア・セルクラウス・ウェテリが無能と元老院に判断される男に引っ掛かる可能性もタイリーは考えているのだろう。


「ご安心ください。私も、メルアと離婚するメリットは何一つありませんから」


 極論、元老院が無能だと烙印を押す前に殺せば決定は無かったことになるという算段も、少しばかりエスピラの中にあった。


「それは助かるが、もし好みの女性が居たら教えてくれ。奴隷で良いなら私が買い、君との間の子をメルアの子としよう。君がセルクラウスとの血の繋がりを望むなら、クロッチェと愛人関係になっても良い。クロッチェも君を気に入っているし、クロッチェの夫も君なら自慢になると興奮した様子で語っていた。クロッチェなら、母親もメルアと同じだしな」


 クロッチェとは、メルアの姉でタイリーの三女、成人できた兄弟の中では六番目の子にあたる。

 ちなみに、メルアは四女で九番目の子。クロッチェとの差は十二歳。エスピラとメルアは八か月違い。アレッシアの貴族においてはここまで歳の近い組み合わせもない訳では無いが、驚くほど離れていることもある。クロッチェとエスピラの年齢差でも不思議な話では無いのだ。


「トリンクイタ様も、タイリー様に言われればそう言わざるを得ないでしょう」


 タイリーが上機嫌そうに笑い始める。

 笑いながらコップを持って酒を注いでもらい、高い酒を水のように簡単に飲んでいった。


「愛人話を持ち掛けてきたのはクロッチェの方だ。メルアと君が結婚して一年経つが子供の話を聞かないどころか別の男の話が聞こえてくるばかりだからな。話のタネにと、ついでに我が一門の中での発言力を高めたい狙いだろう。君は私のお気に入りだから、念のために話を通しておきたかったのは、夫のトリンクイタの意思かもしれないがな」


 セルクラウス一門に連なったとはいえ、どちらかと言えばクロッチェごとトリンクイタのディアクロス一門に入っているような物。セルクラウスとの繋がりを消されないためにお伺いを立てた、と言うのが正確なところか。


「君が望むならトリンクイタと楽しんでも良いが、大事なのは子を為すこと。クロッチェとも関係は持ってもらうことになる」

「お言葉ですが、メルアは私と結婚したことで自分が動ける世界が広がり、子供のように好奇心に動かされているだけでしょう」

「三人だ」


 まだ続けるつもりだったエスピラの言葉を、タイリーが遮った。


「もちろん、私が把握している中ではだがね。君なら、もっと多く把握しているのだろう?」

「…………恋愛を楽しむ気になれた時には、クロッチェ様、トリンクイタ様のお心が変わっていないことを祈っております」


 目を一度逸らした後、恭しくエスピラは頭を垂れた。

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