第3話 夫婦仲
七度。
これは、エスピラが家を空けた一か月の内に新しい男が妻を訪れて来た回数である。
家内奴隷が帰る姿を目撃したり、しなかったり。
エスピラの妻、メルア・セルクラウス・ウェテリと同じ屋根の下で奴隷は暮らしていないため、男の帰る姿を必ず目撃できるわけでは無いのは仕方ない。加えるなら、帰る姿を目撃できないなら来る姿を目撃できないことだって有り得る。
『この前は、すっかり陽も落ちた時に明かりも持たずに訪れていました』とは、途中まで荷物を持ってくれた奴隷が申し訳なさそうに言った言葉だ。
その奴隷を、今日はもう遅いからと離れに帰してからエスピラは家の扉を開ける。
真っ先に目に入ったのは裸の男と男を隠すように山盛りになっている塩。
「ねえ。帰ってくるならそうと言ったらどうなの?」
それから、上質な絹でできた布一枚を羽織っているだけのメルア。
下着も着けていないのか、いろいろと良く分かる状態である。
「ハフモニとの戦争に勝って以来安くなったとはいえ、これだけの量は勿体無いだろ」
エスピラは苛立ちを溜息と共に吐き出すと、片掛けマントを外して横に投げ捨て、男の傍にしゃがんだ。死体の指輪はアレッシアに幾つかある名門の一つ、ベロルス一門のモノ。
顔を見れば、メルアの長兄トリアンフ・セルクラウスと近かった人物だと分かった。
「何? 腐らせて臭わせろって言うの? そんなの私は嫌よ」
煽情的なプロポーションに似つかわしくない嫌悪の表情でメルアが言った。
いや、似つかわしくないわけでは無い。そう言わしめる、似合うか似合わないかすらねじ伏せるだけの美貌がメルアにはある。
「殺さなければ済む話だ」
「あら。殺してないわよ。そいつが勝手に死んだの。だからこんな格好なんじゃない」
エスピラは旅装を解き、死体の両脇に手を入れた。
「ねえ。最初の言葉に返事をもらってないのだけど」
メルアが瓶を投げてくる。
床に当たった焼き物の瓶は簡単に砕け、塩をさらに散らかした。
砕けた瓶はアレッシアの有数の名門とも言えるセルクラウス一門からすれば気に掛けるような物では無いが、決して安くは無い。
「メルア」
「何」
今日一番低い声が返ってくる。
「紙も、安くは無い」
メルアの緑がかった碧目が侮蔑の色を多分に含んで見開かれた。
「信じられない。懇ろの女王の足でも舐めれば?」
「そんな関係じゃ」
「うるさい!」
メルアの近くにあった花瓶が投げ捨てられ、はしたない足音と共にメルアが家の中に消えていく。
遠くの壁に当たった花瓶は、枯れかけの花を散らすだけ。別に気に入っていたわけでもないし、タイリーが勝手に持ってきた物だが、数秒見つめてしまうだけのモノはある。
溜息をかみ殺し、鼻から息を吐きだしてエスピラは死体を塩の山から引き出した。
すっかり冷たくなっており、ずっしりと重い、外傷の一切ない死体である。
エスピラは引きずるように死体を外に出し、瞼を開いた。男の琥珀色の瞳は完全に色を失っており、エスピラの栗色の髪を映しているだけ。
死亡を確認したエスピラは、石橋を叩いて渡るがごとく右腰に差していた短剣を引き抜き、男の首に刺した。血はほとんど流れず、地面を濡らさない。
次に、剣や紋章などの男の身元を証明する物、金目の物を全てはぎ取った。目も潰し、鼻も削ぎ落す。耳も切り落とし、眼球もくり抜く。
それから直剣を引き抜き、両腕両足を胴体から切り離した。体も細かく。
そこまでやって二重底の樽を裏から転がりだし、死体をしまう。
全ての作業を完了する頃には流石に汗をかいてしまったので、水を浴びてさっさと寝間着に着替えた。
念のため、メルアの寝室に顔を出す。
エスピラの好きな匂いが出迎えるが、メルア自身はいつもの寝顔より険しいが起きている時よりは相当優しい顔で眠っているようだった。
「いつもこうしていればいいのに」
とは、間違っても言えず。
伸ばしかけた手をしまって、エスピラは自身の寝室に戻っていった。
久々のやわらかい布団と、ずっと気を張っていた旅の疲れが出て。
エスピラはすぐに眠りに落ちた。
幸せな夢を見ていた気もするし、何も見ずにただただ疲労を回復させていたような気もする。
ただ一つ確かなのは、エスピラ自身が望むだけの睡眠を得られなかったことだ。
それも、息苦しさによって。
考えるよりも先に足がお腹の上の重りを蹴り飛ばし、腕が首を絞める何かを掴む。
「最っ低」
そして、首を絞めてきたのが妻だと気づいたのは、背中を蹴られたメルアがエスピラの顔に髪を落とした時だった。
手が緩んだすきに、体重が首に乗る。
「ぅぁっ」
エスピラの顔が苦悶に歪み、メルアの顔が愉悦に歪む。
「久しぶりに帰ってきたのに妻を放置して寝て、あまつさえその妻を蹴とばすなんて良い御身分じゃない。ねえ、エスピラ」
エスピラは手に力を入れるが、メルアの白い腕が紅くなったのを見て抜けてしまった。
「何とか言ったら?」
言えないのを承知で、言っている。
楽しそうにエスピラの上で体を揺らした後、メルアが首から手を外した。
酸素を求めて開いたエスピラの口を、メルアの口が塞ぐ。優しいそれや受け入れるそれでも、ましてや恋人同士のそれでも無い。
噛みつかんばかりの勢い。
捕食、と言う表現が一番しっくりくる、獰猛なモノである。
痛みと、酸欠と。
鼻呼吸すらも塞がれるのではないかと言う荒々しさに、エスピラは力を籠めてメルアの下を脱した。
普通は力の差があってもマウントポジションを取られれば容易にはひっくり返せないはずなのに、やけにあっけなく。
エスピラが思考する前にメルアが含んだ笑みを浮かべた。
「ねえ。昨日の男も、私から目を離せなくなっていたのだけど」
エスピラの手に力が入る。メルアのたった一枚の絹の布に皺が入った。されど、彼女の顔は変わらない。楽しそうなまま。
「つばを飲み込み、布の上からでも分かるほどに威きり猛らせて、私に手を伸ばしてきたの。あの人は、貴方と比べてどうだったかしら?」
メルアの目がわざとらしくエスピラの下の方へと移動する。
「黙れ!」
メルアの襟首を、エスピラは思いっきりつかんで布団に押し付けた。重力と押し付けられた絹が布の下からでもメルアの肢体を艶めかしく表現し、めくれ上がった白い腹と伸びる白い足にエスピラは思わず喉を鳴らしそうになる。
「我慢なさらず。お好きなように。お好きなだけ。お好きなところを」
エスピラは、ゆっくりと肺に息を入れた。
随分と嗅ぎなれた、それでも一番好きな香り。意思を惑わし、決意を解き、心をかき乱す、一番苦手な匂い。
エスピラは、吸った時と同じぐらいゆっくりと息を吐き出した。
「黙れ」
今度は落ち着いて言うと、メルアから手を放し離れる。
半裸に等しいメルアからは視線どころか体の向きすら逸らして。
落ち着くまでの間、メルアの視線からメルアが愉悦の笑みを滴らせていることを悟りながらも、何も言わずに。
十分に平静を取り戻したと判断してからエスピラは立ち上がった。
「子供を作ることは、アレッシア市民の義務なのだけど?」
メルアの声が空気を揺らす。
エスピラは、メルアに鉄の瞳を向けた。
「ただし、誰の子か分かる子供でなくてはいけない。そうだろ」
「私が産むのだから、私の子に決まっているじゃない」
「父親も、だ」
何とか吐き出し、エスピラは片掛けマントをひっつかんだ。
「あら。死体がどうやって責任を取るのかしら」
「母親と子も処刑されるぞ。それが、セルクラウスの一門の者となれば良い噂の的だろうな」
床を小刻みに叩きたくなる足を、エスピラは意志でねじ伏せながら返す。
すぐさま部屋を出ようとしたが、更なるメルアの声が先であった。
「どちらに?」
ペリースを硬く握りしめ、エスピラが口を開く。
「タイリー様のとこだ。ディティキのことを報告に行くのと、昨夜手に入った猛獣の餌を届けに」
「そう。じゃあお父様に伝えてくれるかしら? エスピラ・ウェラテヌスは誰の夫ですか? と。ねえ。あの略奪野郎に、しっかりと伝えてくれたのなら。少しくらい我慢してあげるけど?」
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