第6話
『はあ〜ほんとねえわ。こんなクソ田舎の動物園だってのによ。どこもかしこもカップルだらけ。やってらんねえよな』
『それな。夕方になったらもっとカップル増えるだろ。イルミネーション始まるから』
『動物園なんだから動物見ろよ。マジ虎に食わすぞ』
『やべえ〜ははは』
個室の外から、ちょろちょろと響く流水──いや流「尿」音とともに、くだらない会話が聞こえてくる。
うるせえ、早く終わらせて外出ろよ。
威嚇の意を込めて、俺は個室に備え付けられた「流水音」のボタンを押す。
じょろろろろ……。
『何か音しねえ?』
『さあ?誰か個室に入ってるんじゃね。でさ──』
じょろろろろ……。
『あ、またした。どんだけ音隠してえんだよ』
『糞長すぎだろ。詰まってんのか?』
『便秘の癖に公衆トイレ入んなよな』
『言えてる~』
いや、お前らこそ早く出ろよ!
俺は閉じた便器の蓋の上に、突っ伏して嘆いた。
貴之と共に、なんとか追手から逃げた俺は、手近にあった男子トイレの個室に身を隠していた。
ただ、身を隠すことだけが目的じゃない。
女装を「解く」ためだ。
今の俺の容姿は、俺自身でさえも自分を見失いそうになるほど、まるで別人だ。(貴之にとってはそうじゃないらしいが)
現に追いかけてきた女性客は、完全に俺を「女の人」だと思っていた。
つまり、この姿を解けば、俺にとっては「元の自分」の姿だが、追手にとっては「まるで別人」になる。
まさかこんな形で、自分の「変身」のクオリティの高さを証明することになるとは思わなかったけど。
と、いうわけで、男子トイレに逃げ込んだ俺は、貴之に頼んで、近くの売店で何かしらの服を買ってきてもらい、こうして、服を着替えようと個室に篭ったのだが。
まさか、そのタイミングで入ってきた、他の利用客のせいで外に出られなくなってしまうとは。
化粧を落とすのに、洗面台を使いたいのだが、これでは身動きがとれない。
他に人のいる男子トイレで化粧を落としていたら、ちょっと目立つし、それに、いくらウィッグを取って服を変えたところで、化粧をした状態だとギリギリ女性に見られる可能性もあるのだ。
なるべく人目を避けていたかったんだけど。
『もしくは中でヤッてるとか?』
『はあ?こんなとこでするわけねえだろ』
『クソ田舎だし、ワンチャン一人でヤッてる可能性あるだろ。な?ちょっと待ってて、どんな奴か見てやらねえ?』
『くだらねえ〜でも他に見るもんねえしやる?』
本当に最悪だ。
ここが田舎なのは認めるけど、クソなのはお前らの方だ、なんて。
「はあ……仕方ない」
よっぽど言ってやりたかったが、そんなことができるわけもなく。そのうち飽きていなくなるだろうと、俺は諦めて、先に服の方を着替え始めた。
と言っても、ブラウスを脱いで、Tシャツ(動物園に売ってるTシャツなので当然、デザインなど選り好みできない。貴之に「虎と犬どっちがいい」と聞かれ「犬」を選んだが、これは犬なんだろうか?)に着替え、ウィッグを外すだけ、なんだけど。
手順にすればたったそれだけなのに、ブラウスのボタンひとつ外すのも、慣れていない分、とにかく苦労した。
ブラウスの中にだって、なこさんがシルエットがよく見えるようにって、パッドとか詰めてくれているし。
出来上がった姿は魔法みたいだけど、それが出来上がるまでの過程は決して、魔法じゃない。
人の、俺に関して言えば、なこさんの、血が通った努力なのだ。
自分にかけられた、魔法という名の手間をひとつひとつ解きながら、俺は身に染みてそう感じた。
さて、脱いだ服を畳み、Tシャツに袖を通し、後は化粧を落とすだけになった。
いい加減、あいつら帰ったかな。
個室のドアに耳を寄せ、外の様子を探る。
『マジでここの個室入ってる奴、クソ長くね?』
『まさか死んでねーよな』
『マジ?やっべー開けてみる?』
『ドア叩いてみるとか?』
開けるって。こいつら、正気か。
からかうように、軽くドアを叩かれる。
馬鹿だろ。
そう思うと同時に、蓋で閉ざしていた「嫌な記憶」が蘇った。
小学五年生の冬。
学校でどうしても我慢できなくて、個室のトイレに入った俺。たまたま入ってきた奴らの歪んだ好奇。
ドアを叩かれ、隙間から覗かれ、戸外から大声で煽られる。延々と続くような絶望。
『あんた達、何やってるの』
目の前が暗くなりかけたその時、さっきまでこの場にいなかった新たな声──妙齢の女性の声だ──が聞こえた。
『うわ!』
情けない叫び声とともに、ドア前から人が離れていくような気配がする。
それに対して、追撃するように女性は言った。
『今からここ、清掃の時間だからね。用がないなら早く出てってちょうだい』
『だってこの個室、ずっと誰か入ってて……』
『個室なんか他のトイレにいくらでもあるじゃないの。そっちに行けばいいじゃない。それとも、あんたら覗き?変態?通報するわよ』
女性の迫力に圧倒されたのか、ややあって、ぱたぱたとトイレの外に向かう足音が聞こえる。
どうやら、あの二人は出て行ったらしい。
『誰か知らないけど。あんたも用が済んだら早く出てってね。おばちゃんの仕事、片付かないから』
はあーあ、と聞こえよがしなため息と共に、ブラシで床を擦るような音が響く。
『全く、どうしてこうも床に飛び散るのかしらね。もっと身の程を知りなさいよ』
助かった。
「おばちゃん」ありがとう……。
安堵しかけて、俺は思い直す。
いや、助かってない。
結局、人、いるんだから。
むしろ、清掃始まったから、ますます出られなくなった。
どうする、俺。
もう最悪、水か液体が手に入れば、それで化粧を洗い流すしか──。
何か飲み物とか買ってなかったっけ。
そう思って、バッグを漁るが、水どころか液体さえない。途方にくれたその時、それは目に入った。
蓋が閉められた便器。
蓋を開ければ、中には当然。
「水、だなあ」
水だけど。
しゃっしゃっしゃっしゃっ。
『ちょっと、あんた何してんのか知らないけど。もうさすがに出たっていいじゃない?あと1分以内に出なかったら、おばちゃん、ドアぶち破るよ』
煽るようなブラシ音。こっちの方がよっぽどトラウマになりそうだ。マジか、マジか……。
「これは使う前だからただの水、これは使う前だからただの水、これは使う前だからただの水……」
言い聞かせるように、そう唱えながら、俺はその「水」を両手で掬い上げた。
【※みずきは正常な判断力を失っています。絶対に真似しないでください※】
○
「別に化粧を落とさなくても、適当に顔隠しながら、さっさと出てくればよかったんじゃないか?」
「うるさい。もう色々あってまともに考えられなかったの。俺だって好きであんな水使ったんじゃないの」
合流するなり、顔がびしょびしょな俺を見た貴之が驚いていたので、トイレでの一部始終を話したのだが。冷静になれば貴之の言う通りだった。
「クソ……あんな奴らさえトイレに来なければ……」
「……怖い思いさせたな」
ぶつぶつと恨み言を吐く俺を宥めるように、貴之がハンカチで顔を拭いてくれようとする。
俺は首を振って、それを拒んだ。
「汚いよ」
「汚くない。それに俺のせいでもある」
「いいから」と貴之がハンカチを顔に押し当ててくるので、俺は諦めて、それを受け入れる。
「貴之のせいじゃないよ。むしろ、ここまで巻き込んでごめん」
「いや……服を渡した後、トイレで見張ってるべきだった。変なのが入ってこないように」
「いやいや……そもそも、俺が色々と悪いというか……」
「いやいやいや……」
「いやいやいやいや……」
「いやいやいやいや……いや、もうやめておくか」
「そうだな……」
貴之がハンカチをしまう。その時、日光に反射して、貴之のかけている「ZOO」のサングラスがきらりと光った。そういえば何でこんなサングラスかけているんだろうと思ったが、面倒なので敢えて突っ込まないことにする。
「行こう」と貴之を促し、俺達は観覧車の方に向かって歩きだした。
湖の外周を半分回り、道なりに進むこと十分。ようやく、大観覧車の前に到着だ。
さすがに、目玉アトラクションともあって、この遊園地エリアの中では、比較的待機列が伸びている。俺達が最後尾に並んだ時点で、二十分待ちとのことだった。
並んでいる間、俺に気を遣っているのか、貴之がスマホをいじる様子はない。俺は、観覧車をじっと見上げている貴之に話しかけた。
「貴之」
「何だ?」
「俺が来た時、誰かと電話してたよな。もういいのか?」
「ああ。ちょっとしたことだから大丈夫だ。帰ってからまた話せばいい」
「帰ってから?」
「幸弥だからな」
「へ?」
思わず、戸惑いを声に出してしまった。
幸弥くんが、このタイミングで貴之に電話。
もしかして幸弥くん、いきなり俺となこさんの通話が切れて気になったから、貴之にかけたのかな。
だとしたら、一緒にいるなこさんも気にしているかもしれないし。今度会ったら、俺から二人に謝っておこう。
なんて、俺が考えていると、貴之は言った。
「実は、幸弥にちょっと相談していたんだ。今日のこと。みずきをどう誘ったらいいか分からなくて」
「そんなこと相談してたのか?別に何も気にすることないだろ」
「幸弥にも同じことを言われた。普通に誘えばいいと」
「だが」と、貴之は続ける。
「誰かを遊びに誘ったことがなかったからな。みずきは、和臣を誘うの、迷ったりしないのか?」
「それは……」
言われて、考える。確かに、和臣を遊びに誘うとしたら、俺だって色々考えるし、迷うし、もしかしたら誘うことを諦めるかもしれない。
でもそれは。
「和臣は俺にとって普通じゃないからな」
「普通じゃない……」
貴之はそれきり何も言わず、じっと考え込んでしまった。どうしたんだろう。
しかし、俺はここで、貴之に確認しなければならない大事なことを思い出す。
「貴之、ちょっと聞きたいんだけど……」
「うん?」
「その幸弥くんとの通話、ちゃんと切った?」
「もちろん切ったが……」
ほら、と貴之がスマホの画面を見せる。確かに通話はもう切られていた。よかった。貴之に俺と同じ失敗をしてほしくないからな。というか、自分がこれ以上恥ずかしい思いをしたくないだけなんだけど……。
謝るついでに、あの二人にどの程度聞かれていたのか、確認しようかな……そんなことを考えているうちに、いつの間にか、貴之と俺の乗る番が来ていた。
俺も貴之も、こうして観覧車に乗るのは初めてだったので、ゴンドラが動いている状態で乗り込むのに少し緊張したが、なんとか乗ることができた。
ずっと続いていた緊張からの解放感と安堵感で、二人して、シートに深く身を預ける。
俺達を乗せたゴンドラはじわじわと地上を離れて、高度を上げていく。乗る前はその高さに圧倒され、恐れていたが、こうして乗ってみると案外悪くない。むしろ、非日常的な浮遊感が心地よかった。
ちらりと向かいを見遣ると、いつのまにかサングラスを外した貴之が、興味深そうに窓の外を見ている。
「楽しい?」
つい、そんなことを聞いてしまった。貴之が一瞬、俺の方を見て「ああ」と頷く。その顔はまるで少年のように無邪気だった。
ちょっと可愛い。
そう思うと、うっかり口元が緩む。すると、そんな俺を見て、貴之が尋ねる。
「みずきは、怖くないか?」
「全然。乗らず嫌いだったみたい。俺もなんか楽しい」
「そうか」
「貴之とだから?」
「そうだろ」
「そうしておく」
それからしばらくの間、俺達は小さくなっていく動物園の景色をじっと眺めていた。
あの中を歩いていると、この動物園はちっとも変わっていないように思える。
昔から出迎えてくれるフクロウ。いつ行っても中年オヤジのように寝そべっているカンガルー。いつも、どこにいるのかよく分からないレッサーパンダ。犬ともウサギともキツネともつかないマスコットキャラクター。
だけど、実際には少しずつ変化している。
目玉だった巨大木製ジェットコースターはなくなり、ねずみを模した小型コースターも、胴の長い犬のアトラクションもいつのまにか消えていた。「活躍した仲間たち」を讃える記録には、聞いたことのある名前も並んでいた。
窓から見下ろす「今」の動物園は、俺の記憶の中にある動物園を徐々に上書きしていく。
でもそれでいい。
塗り変わる程、俺は今が一番、好きだと思った。
暗いトラウマも、忘れたい失敗も、何かが変われば、いつかその意味を変えていくように。
ふいに貴之が、口を開く。
「幸弥のことだが」
その言葉に、俺は顔を上げる。貴之は続けた。
「みずきは、幸弥のこと、知ってるんじゃないのか」
「何で……」
俺は、貴之の目をじっと見た。見たというより、視線を外せなくなってしまったと言う方が正しいかもしれない。そのくらい、今の貴之の真剣な眼差しには、俺を逃がすまいとする力があった。
さっきの通話のことを言われるのだろうか。
だが、俺の予想に反して、貴之はこう言った。
「実のところ俺は、幸弥のことをよく知らない」
「え……?」
「一年前に実家を出てからも、連絡をとったり、会ったりはしてるんだがな。知らないことも多いんだ」
正直なところ、拍子抜けだった。
思っていた角度とは違う話になり、内心、安堵しながら、じゃあどんな答えを貴之に示すべきか分からない。
とりあえず、俺は思いつくまま、素直に言った。
「幸弥くん、高校生なんだろ。家族にも見せない面とか、そういうの、出てくる頃なんじゃないか」
「それは分かる。だが、家族として、なまじ見ている面があるからこそ、心配なんだ。俺の知らないところで何かないかとな」
「貴之の知らないところ、か……」
「Vine☆girl」のことが頭に浮かぶ。まあ、心配になるのも納得だ。実際怪しいからな、かなり。
貴之は頷き、言った。
「……ちょうど一年前。俺が実家を出た後だ。幸弥が『バイト』を始めたらしい。だが、実際、どこでどんなことをしているのか……俺には詳しいことまでは分からない。幸弥もその辺はあまり話さないしな。父さんや母さんは幸弥が『バイト』をしていることさえ知らない。幸弥は『部活』と言って通しているようだが」
「そうなんだ……」
相槌を打ちながら、俺は察する。貴之の言う「バイト」は、きっと「Vine☆girl」のことだ。
そうか。幸弥くん、やっぱり貴之や家族には「Vine☆girl」のこと、隠してるんだな。
それなら、なおさら、ここで、俺が失敗するわけにはいかない。
密かに唾を飲み、腹に力を入れる俺に、貴之は言った。
「だからこそ……俺は、みずきが幸弥のことを知っているなら、安心だと思ったんだ」
「……安心?」
「近くに、みずきみたいないい奴がいてくれるなら、それだけでも、俺は、幸弥のことは心配ないと思える。だから、これは推測というよりも願望に近い、かもしれないな。幸弥とみずきが繋がっていたら、というのは」
そう言って、貴之は柔らかく笑った。窓から差す陽が、その笑顔をいっそう眩しく見せる。
本当に弟のことを想っているんだな、貴之は。
貴之のことを思うと、俺と幸弥くんのことを全て話してもいいんじゃないかと、つい考えてしまう。
だけど、どんな理由があっても、やはりそれは俺が言うべきことじゃない。
幸弥くんには幸弥くんの思いがあって「Vine☆girl」のことを隠しているんだから。
「全て」を話すことは、できない。でも。
「貴之……」
俺は、シートの上で姿勢を正す。真っ直ぐにこちらを見つめ、俺の言葉を待つ貴之に、俺は告げた。
「俺、幸弥くんのこと、知ってるんだ」
貴之は、大きく驚くこともなく、ただひとつ、頷いて言った。
「そうか」
俺はさらに続ける。
「まさか、貴之の弟だったとは思わなかったけど……。その、俺達同じ『バイト』をしているんだ。でも俺の方が最近入ったばっかりで、むしろ、面倒みられてて。貴之の言う通り、さっき、通話してたのも、幸弥くんが相手なんだ。ちょっとその……バイトのことで、よく相談に乗ってもらってて。本当にしっかりしてるな」
「バイト」と誤魔化すのに必死で、つい早口になってしまう。
幸弥くんが何故、両親にも言っていない秘密の「バイト」の存在を、貴之にだけ打ち明けているのか──それは分からないけど。どうせ誤魔化すなら、俺もそれに合わせた方がいい、はずだ。
それに、まるっきり嘘じゃない分、俺も少し自然に話せてる、と思う。
全ては言えないけど、貴之が安心してくれるなら、俺はできる限り、応えたい。
「いつかバレるかもしれない」という多少のリスクは背負っても、これが今できる俺の最善だ。
上手く言えてたならいいけど。
ちら、と貴之を窺うと、貴之は腕を組んでしきりに頷いていた。
「……そうか。そうだったのか」
ゴンドラの中に影が差す。観覧車は、いつの間にか半周を回り終えていて、緩やかに地上へと下降を始めていた。
ちょうど影の中に入ってしまった貴之の顔はよく見えない。
俺の言ったことに、貴之が本当のところ、何を思ったのか、それは分からない。
けれど、貴之はこの時、単に安心しただけではない、何か、他の感情に揺れているように、俺には見えた。
地上まであと数メートルというところで、ふいに貴之が口を開く。
「みずき」
「ん?」
「……やっぱり、やめる」
「いや何だよ、気になるな」
その後も口を開きかけては閉じ、何やらモゴモゴしている貴之を、俺がじっと見ていると、観念したように貴之は切り出した。
「何だ……その、みずきは」
「うん」
「……こういうのも、似合うような奴だな」
「は?」
そう言って貴之は、俺に「ZOO」のサングラスを掛けさせた。急に視界が暗くなり、俺はついきょろきょろとあたりを見回す。
「……貴之、これ、何。どういうこと」
「……そういうことだ」
「意味分かんねえ……」
「あ、もう地上に着いたぞ。降りよう、みずき。ほら」
貴之が俺に向かって手を伸ばす。
俺は、渋々その手を取って、ゴンドラを降りた。
○
『幸弥か。昼間はすまない。みずきが来たからと途中で電話を切ってしまって』
『いえ別に。そっちの方が大事でしょうから。……もしかして、お出かけの報告ですか?』
『そうだ。幸弥が気になっているかもしれないと思ったんだが』
『そう言われると全くなりません……けど。ちょうど手が空いてるので、まあ聞きます』
『ああ。ありがとう。そうだな……何から話そう。色々あったんだが……』
『はいはい。思いつくままにどうぞ』
『楽しかったな』
『切っていいですか?』
『待ってくれ。えーと、そうだ。みずきが便器に溜まってた水で顔を洗ったんだ。そんな奴は初めて見たな……忘れられない思い出になった』
『……どこから突っ込んでいいのか分かりません。何故、そんなことを』
『化粧をして来てたからな、みずき。女装もしていたんだが、ちょっと色々あって着替える必要があったんだ。もっと他に方法があればよかったんだが……すまない、幸弥』
『……何故、僕に謝るんですか?』
『幸弥の計らいなんだろ?みずきが女装してきたのは』
『はあ?』
『違うのか?』
『違います。大体、僕、みずきさんと面識な……』
『みずきから聞いた。幸弥とみずきは知り合いだと』
『え……?』
『同じ【バイト】をしていて、みずきの方が後に入ったので幸弥には世話になっている、とだけ言った』
『……そうですか』
『【Vine☆girl】のことは、言わなかったが』
『……』
『みずきが女装をしてきたのは、それと関係があると思ったんだが、違うか?』
『……僕にはこれ以上何も言えません。一応、仕事なので』
『そうか』
『それより……みずきさんの女装はどうでしたか?可愛かったですか?』
『……』
『兄さん?』
『……何とも言えない』
『……それは、どういうことですか?』
『俺が言うべきことじゃない、と思う。あれは、俺が触れていいことじゃない』
『……はあ?』
『俺の考えが合ってるなら、なおさらだ。それを一番最初にみずきに言うべき相手は、俺じゃない。それなのに俺が言うわけにはいかないだろう……その方が、みずきにとっても良い』
『じゃあ、みずきさんに何も言わなかったんですか?』
『ああ』
『……』
『幸弥?』
『いえ、ちょっと……兄さんには失望しました』
『な、何故だ!』
『みずきさんを誘う時から思ってましたが、兄さんは度し難いヘタレですね。見ていて反吐が出ます』
『ちょっと言葉がきつくないか、幸弥』
『たった四文字、思ったことを何故言わないんですか。これは誰が言うべきとか、そういう問題じゃないでしょう。思ったなら、口にすべきです。悪いことじゃないんですから。それに、みずきさんにとって何が良いとか良くないとか、そんなのみずきさんが決めることでしょう?』
『い、いや……でも、その【四文字】って何だ?』
『……自分の胸に聞いてください。ひとつしかないはずですから。で?どうでしたか?みずきさんの女装』
『だからそれは』
『みずきさんには言えなくても、僕には言えるでしょう。代わりに聞いておきます』
『何故だ……』
『いいから』
『……』
『黙っても無駄です。はい、もう特別ですよ。みずきさん、可愛かったですよね?』
『……それは』
『それは?』
『……それは、まあ』
『……ぷ』
『何か笑ってないか、幸弥』
『いえ……すみません。まあ、今日はこのくらいで許してあげます。……本当なら今すぐ、兄さんをみずきさんの前に引きずってって直接言わせたいですが』
『……ああ、それには及ばない』
『はい?』
『今、みずきも近くにいるんだ』
『はい?』
『というか、みずきの家にいる』
『はい?』
『ああ、電話は今、外からしてるから安心しろ。ただ、俺は少しの間……ここで生活することになった』
『……はい?』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます